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ナムジャイブログ

2025年02月10日

二度寝で生きてきた

 ここ数日、東京は寒い日がつづいている。日が落ちて、帰宅する道で、つい、「冷えるなぁ」と呟いてしまう。マフラーをしっかり巻き、コートも襟首まで締め、手袋をはめて自転車に乗る。路上を吹く寒風が頬に痛い。
 日本海側は大雪である。雪が高揚感をもって受け入れられるのは初雪だけである。大雪に見舞われると本当に始末が悪い。豪雪地帯の雪が解けた後の小学校の校庭を見たことがある。鉄棒の握り棒がぐにゃりと曲がっていた。積雪は鉄棒の高さを超える一帯である。それが解けるときは、表面と同時に、地面に接する下側からも解けていく。すると、雪の重みが鉄棒にかかり、握り棒を曲げてしまうのだ。
 しかし山に降る雪は、その年の春から夏にかけ、麓の生活を潤してくれる。農家の人にしてみたら、山にたくさんの雪が降り、平地は少ないという雪が理想である。しかし自然はそううまくは降り分けてはくれない。
 原稿に追い詰められている。「歩く台北」と「歩くソウル」の編集が同時に進んでいるところに「歩くパリ」の原稿チェックが加わっている。個人的には次の本の締め切りがすでにすぎている。
 深夜、原稿に疲れ、眠気覚ましにと外気にあたる。脳がしゃきっとする前に体が凍えてしまう。豪雪地帯の人たちは、雪の片づけで痛くなった腰をいたわりながら体を横たえているのかもしれない。
 最近、睡眠のペースがおかしい。午前3時か4時といった時間に原稿に疲れてベッドに入る。へとへとになっているから、すぐに寝てしまう。ところがたくさんの夢を見て、三十分ほどで目が覚めてしまうのだ。このまま眠ることができなかったらどうしよう……と不安になるのだが、やはり疲れているのだと思う。10分もしないうちに寝入ってしまう。それからが本格的な眠りになる。二度寝が僕にとっての本来の眠りになってきてしまっている。かつては途中で目が覚めることはなかったのだが。老化ということはこういうことなのだろうか……と勘ぐってしまう。
 しかし思い返してみれば、僕は二度寝のほうが眠りが深いようにも思う。しかしそれは意識とか気分の問題で、眠りが深いわけではないかもしれないが。
 若い頃、この二度寝で何回か約束の時間に遅れてしまうことがあった。冬が多かった。寒い朝、目が覚める。寒いからストーブをつけ、そして二度寝に入ってしまう。一応、目覚ましはかけるのだが、目覚めると、約束の時刻をすぎてしまっているのだ。目覚ましは自分で止めているのだが、その記憶がまったくない。僕は二度寝でかなり深い眠りに入ってしまうタイプのようにも思う。
 二度寝はできるなら避けたほうがいいという人もいるが、僕はこの二度寝で、日頃の睡眠不足を補っているような気もしている。
 あまり二度寝をしない人は実感がないかとも思うが、僕にとっては熟睡の感覚が二度寝のほうにはある。目覚めたときのすっきり感はどんな眠りとも違っていた。
 本の原稿を書いていると、睡眠というものがずたずたになってしまう。10分寝て4時間原稿を書くような状態に陥り、これはよくないと睡眠時間を直そうと思っているうちに脱稿まで辿り着くようなことも珍しくない。そのつけが70歳になってまわってきたということだろうか。今日もおそらく二度寝になる気がする。

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2025年02月03日

ミャンマーから届く切ない動画

 僕のところには、ミャンマーや日本に住むミャンマー人から動画や写真が届く。運営しているYouTubeで、ミャンマーから届く映像を紹介しているからだ。
 届く頻度には波がある。ある時期は連日のように届くのだが、なぜか2~3週間、まったくこないことがある。訊くと、ミャンマーで流れるSNSに波があるのだという。
 1月下旬から、届く動画や写真が急に増えた。そして兵士の殺害光景など、目をそむけたくなるような残虐なものが多くなった。先週はひどかった。兵士を殺害し、その死体を引きずっていく光景が届いた。その翌日、生きている兵士を木から吊るし、下からの火で焼き殺す光景を延々と映した動画がきた。火刑……火あぶりの刑といわれるものだ。村の住民が遠巻きに見つめている。
「家族を兵士に殺された人々が激高し、その兵士を捕まえて火刑にした」
 そんな説明を受けた。
 映像はすべてフェイスブックで送られてくる。なぜこんな映像が拡散するのだろうか。
「アメリカの政権がトランプになってからだっていう噂です。フェイスブックの審査が急に緩くなったってという話です」
 トランプ大統領とフェイスブックの審査基準に、なにかの関連性があるのだろうか。
 しかし動画に映し出される光景はあまりに残忍だ。これを観た人たちは、ミャンマー人は残虐な民族のように思うかもしれない。
 しかしそれは違う。人間というものは誰しも、残忍に人を殺すことができる因子をもっている。ミャンマーで起きていることは、それを誘引する紛争が起きているということなのだ。
 人の歴史は、ある意味、殺し合いの歴史でもある。そしてその長い歴史のなかで、人を残虐な行為に走らせるノウハウを身につけてきた。戦争に近代化があるとすれば、人を殺すという精神的な負担をできるだけ減らし、残忍さを引きださないことのように思う。
 たとえばドローンという武器がある。ウクライナを見ていると、それは人と人が直接対峙し、殺しあう白兵戦を避けるという視点もある。ドローン戦争という近代戦争が一気に進んだようにも映る。無人のドローンが飛来し、爆弾を落とすなり、自爆をして兵士がその犠牲になっていく。しかしドローンをコントローラーで操作する兵士は、まるでゲームで敵を撃墜したかのような空間のなかにいる。
 ウクライナ、ガザ……といった戦争を比べると、ミャンマーの内戦は最も遅れた戦争といってもいい。国際社会から忘れられたような内戦は近代化が進まない。昔ながらの戦い方が踏襲される。
 たとえばミャンマーの国軍が民主化を支持する村を襲い、女性や子供を拉致し、彼らを先頭に歩かせて進軍する。人間の盾である。
 西部のラカイン州では、もともと対立していたラカイン族とロヒンギャの衝突の構図をつくろうとする。
 国軍に反旗を翻すグループのリーダーの親を拘束し、殺害して見せしめにする。
 戦争というものは、基本的には人と人の殺し合いだから、いくら近代化しても、憎しみは生まれる。しかし古典的な戦闘がつづくミャンマーでは、より鮮明に、憎しみあう光景を目にしてしまうのだ。
 国軍は中国とロシアの支援を得ているが、民主派や民族派への国際社会の反応は鈍い。泥沼の内戦はこれからもつづいていく。ミャンマーの人々の間に生まれる憎しみの構造はこれからもつくられていく。
 今日もいくつかの映像が送られてきた。その内容はやはり切ない。

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2025年01月27日

「息ができない」ということ

「息ができなくなっちゃったんだよ」
 あの頃、そう、僕が足繁く沖縄に通っていた頃、よく耳にした言葉だった。話すのは50歳代や60歳代の沖縄出身者だった。多くが沖縄の三線の演奏にかかわっていた。
 話は三線との出合いだった。彼らは集団就職や出稼ぎのような形で沖縄から東京に出てきた。仕事はさまざまだったが、ただ働くだけの日々だった。そのうちに息ができなくなってくる。そんなとき、沖縄の実家にあった三線を送ってもらう。なかには買った人もいた。それを弾いているうちに、息ができるようになった、という筋書だった。
 いったい誰が最初にこの話をしたのかはわからない。それぞれの思いはあったと思う。しかし彼らの琴線に、「息ができなくなる」というフレーズが触れたのだろう。どこか流行りのフレーズのように広まっていった。
 話を聞いていたのは、僕のように、沖縄が気に入り、多いときで月に2回は那覇や宮古島の居酒屋にいるようなタイプだった。
「息ができなくなった」と口にしたひとりに金城吉春という男がいた。彼は中野で「あしびなー」という沖縄料理屋を営みながら、エイサーのチームをつくっていた。メンバーは沖縄民謡好きと同時に、金城吉春のファンだった。
 彼らが皆、「息ができなくなった」話を聞いた。
 しかしそこにはひとつの誤解があったような気がする。「息ができなくなった」話を耳にした人たちは、それを東京という街で生きるつらさや、味気なさに置き換えた。つまり自分の生活に重ねた。ステレオタイプの発想だったのだ。
 しかし金城吉春の思いは違うところにあった気がする。「息ができなくなった」話を便宜的にしただけで、彼の思いは育った沖縄だった。彼は沖縄を離れると、それが緑豊かな自然のなかでも息ができなくなったはずだ。
 それは言葉ではないかと思うことがある。彼らが東京に出てきたときは、まだパスポートが必要だった。東京で耳にする言葉は外国語のように聞こえたはずだ。自然と無口になる。しかし三線を弾きながら口にする言葉は沖縄だった。
 金城吉春と話していて、そう思うことは何回かあった。彼は日本語が苦手だった。相槌は打つが、自分の思いをうまく日本語にできないようなところがあった。
 その後、沖縄ブームが起きる。僕はそのなかで『沖縄オバァ烈伝』という本の制作にかかわる。ライターの多くは、沖縄生まれの20代、30代の若者だった。彼らは日本語がうまくないオバァのすごさや面白さを日本語で綴った。僕の役割は、その日本語を整えることだった。原稿を見ながら思ったものだった。彼らは沖縄を客観視できる世代なのだと。
 ブームというものは、核になる世界と、それを伝える存在がなければ成立しない。核には金城吉春が抱えていた沖縄があった。沖縄新世代がそれを翻訳する立場を担った。そんな新世代は、仮に東京にきても、息はできたと思う。標準語へのストレスは少なかった。その分、彼らの沖縄は薄くなっていたが。
 しかし金城吉春の世代は違った。言葉は怪しいが、体から沖縄を発散していた。彼のファンはそこに魅了されていたように思う。それは誤解が生んだ心地のいい世界だった。
 金城吉春が亡くなってから3年半になる。奥さんと娘さんらが本格的に店を再開するという。そのためのクラウドファンディングの連絡が届いた。
https://readyfor.jp/projects/ashibina960701
 あの心地のいい空間が戻ってくる。


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Posted by 下川裕治 at 14:06Comments(2)

2025年01月21日

海も見えない江ノ電

 週末、タイ人3人組が東京にやってきた。その案内役ということになった。希望は鎌倉の大仏と箱根。それを聞き、1日でまわれるような気がした。
 朝の9時に彼らが泊まっているホテルで待ち合わせた。まず鎌倉の大仏を見て、江ノ電で藤沢に出、そこから小田原。箱根登山鉄道から箱根登山ケーブルカーと乗り継いで大涌谷まで行くつもりだった。
 朝は晴れていたが、天気予報では午後に雨マークが出ていた。
 箱根といえば富士山の眺めである。「早く大涌谷まで行ったほうがいいかもしれない」
と予定を変え、先に箱根に向かった。
 それほど混んではいなかった。登山鉄道やケーブルカーをさくさくと乗り継いで早雲山まで着いた。しかし最後の大涌谷までのロープーウエイが定期点検でバスの代行輸送になっていた。このバスが渋滞。大涌谷に着いたときは昼をまわってしまった。
 あいにくの曇り空。富士山は見えない。これは早めにくだったほうが……と思ったが、タイ人たちは大涌谷が妙に気に入って、噴煙をバックにポーズをとる。寿命がのびるという黒たまごもはずせない。……そうこうしているうちに2時間がすぎてしまった。
 鎌倉の大仏がある高徳院の拝観時間を見ると、午後4時45分までだった。
「ひょっとしたら大仏は間に合わないかもしれない」
 彼らに伝えると、あっさりと「大丈夫」という声が返ってきた。はじめて見る火山というものに、皆、ちょっと興奮していた。
 急いで向かったが、藤沢に着いたのは午後5時。もう、暗くなりかけている。彼らは現金で切符を買うから時間もかかる。江ノ電に乗ったときはすっかり日も暮れてしまった。海も見えない江ノ電。もちろん鎌倉の大仏の拝観時間も終わっている。
 日の短さを実感した。「申し訳ない」と思いながら、鎌倉に向かう江ノ電に揺られた。
 もし鎌倉と箱根を1日でこなそうと思ったら、朝の7時には東京のホテルを出発しないといけない。しかし1月の東京はかなり寒いのだ。タイ人には少しつらい寒さのように思う。夏ならなんの問題もない。朝早く出ることも大変ではないし、日が長いから江ノ電から海を見ることもできただろう。
 以前、松尾芭蕉の「おくのほそ道」を辿る旅を本にまとめたことがあった。事前にさまざまな芭蕉や「おくのほそ道」に関する本を読んだ。歩く速さにも舌を巻いたが、1日に歩いた距離も長かった。江戸時代だから街灯もない。「今日はペースが遅かったら、夜も歩こう」などといった記述もないし、持ち物を見ても、夜に歩くことは想定していない。当時の東北の道はオオカミもいたようで、治安もいいわけではない。日が暮れる前に宿に着く日程を組んでいる。
 しかし季節は選んでいる。5月中旬に江戸を出発し、9月の末に大垣に着いている。日が長い時期を選んでいた。
 なぜこの時期にしたのか、といった記述はないが、当時、長い旅に出るのは日が長い時期といった常識があったのかもしれない。
 旅の効率といった視点で眺めると、日が長い時期は距離を稼ぐことができる。冬だから箱根と鎌倉は一気にまわれないが、夏なら可能なのだ。しかしそのあたりは旅行業界も織り込みずみで、タイ人がきたのも、航空券が安かったからだ。しかし冬の日本旅は効率が悪い。暗くなってからの観光……冬の日本旅の案内役の課題ということか。

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Posted by 下川裕治 at 11:28Comments(0)

2025年01月13日

大雪警報の列車旅

 冬の日本のわかりやすい天候のなかを旅してきた。ルールが変わった「青春18きっぷ」を使ってみるという目的もあったが。
 わかりやすい天気といっても、旅がスムーズに進むというわけではない。わかりやすさにはトラブルも含まれている。
 東京を早朝に発ち、会津若松から只見線に入った。会津坂下駅に列車が停まると、車内放送が流れた。
「この列車は小出行きですが、会津川口から先が豪雪のため、会津川口から引き返す可能性があるという連絡が入りました」
 列車は2両連結のワンマン列車だった。しばらくすると、運転手が現れ、ひとり、ひとりに行き先を訊きはじめた。僕は会津川口の手前にある会津宮下で列車を降りるつもりでいた。そこまでは運行するので問題はなかったが、話はそう簡単ではなかった。
 会津川口から先が運休になった場合、列車は会津若松行きになって戻ってくる。しかしその時刻が読めない。時刻表はないも同然になってしまう。ということは、会津宮下で降りても、駅から離れることができなくなる。会津宮下は無人駅だから訊く人もいない。降りる意味がなくなってしまうのだ。
 反対側には会津若松に戻る列車が停まっていた。その運転手も乗り込んできて、乗客との相談がはじまった。只見線というローカル線だからできる豪雪対応だったが、乗客は判断に迷った。ひょっとしたら小出まで行くかもしれない。しかしそれを決めるのは降る雪の量だった。
 僕も悩んだ。結局、反対側で待っていた会津若松行きに乗り換えた。
 新潟県側に出るつもりでいた。会津若松駅で確認すると、朝は大雪で運休になっていた磐越西線が動いていた。ラッキーだった。長岡まで出ることができた。
 翌朝、日本海岸の直江津に出た。青空が広がっていた。路上や家々の屋根に雪もない。テレビでは新潟県には大雪警報が出ていた。
 冬の新潟ではこういうことがよく起きた。新潟県に接する福島県や長野県の県境付近には猛烈な雪が降っているというのに、海岸線は晴れているということが珍しくない。それが冬の新潟の気候でもあった。
 日本海に沿った街をいくつかめぐった。天候は不安定だった。晴れ間がのぞく穏やかな時間帯もあったが、ときに横殴りの霙が降ったりする。冬型の気圧配置のなかを低気圧が東に進んでいるときの気候だった。
 そこから長野県に抜けるつもりだった。しかし新潟県と長野県をつなぐ鉄道は軒並み運休になっていた。
 JRの運行状況は、ネットで調べる情報と違うことがときどきある。糸魚川まで行ってみたが、松本に抜ける大糸線は運休になっていた。直江津に戻って確認する。信越本線も停まっていた。雪ではなく強風がその原因だった。
 さて、どうしようか。雪が落ち着くまで新潟県側で待機するしかないのだろうか。
 しかしひとつの路線の列車が走っていた。「えちごトキめき鉄道」だった。第三セクターの鉄道会社で、直江津から妙高高原を結ぶ「妙高はねうまライン」という路線がある。
 新潟県と長野県の県境付近が豪雪地帯になる。かなり雪は積もっているだろうが、しかいその鉄道会社は、なに食わぬ顔で列車を走らせていた。
 この列車に乗るしかなかった。列車の車窓風景は、発車して20分ほどで雪景色に変わった。スイッチバックで高度があがっていくとどんどん雪が深くなっていく。50分ほど走ると、積雪は1メートルを超え、終点の妙高高原に着いた。そこからはやはり第三セクターの「しなの鉄道」に接続する。そして10分後には、南の空に青空が広がった。
 雪に翻弄される世界を抜けた。大雪警報の列車旅は、予定調和の旅でもあった。

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