2012年01月23日
ビエンチャンのバンコック
土曜日の飛行機でバンコクからビエンチャンに飛んだ。1泊してルアンパバン。旧正月の元旦はルアンパバンだった。
ビエンチャンでは知人に連れられて、一軒のジャズバーに入った。それほど大きな店ではなかったが、ビエンチャンの若者で賑わっていた。
ライブが開かれていた。ギターはアメリカ人、キーボードとドラムはタイ人のミュージシャンだった。3人のユニットは、バンコクで活動しているらしい。
リーダー格のアメリカ人が英語で話しはじめる。彼の口から、「バンコック」という言葉が何回も聞こえた。日本人が口にする「バンコク」ではなく「バンコック」……。
そこにはどこか、ジャズの先端を走る街という匂いがあった。キーボードを操るタイ人はなかなかうまかった。ドラムの音にも迫力があった。
その音に体を揺らすビエンチャンの若者にとっても、バンコクは、どこか凝縮された文化がある街のように映っているようだった。そう、日本人がニューヨークに抱く感覚のように。
日本人にとって、バンコクはアジアの街である。旅の世界でいえば、ゆったりとしたアジアの風が吹く街かもしれない。
しかしラオスから眺めると、バンコクは国際的な大都会である。クルングテープでもバンコクでもなく、英語流の「バンコック」なのだろう。
翌日の飛行機でルアンパバン。ここには中国人の姿が目立った。ルアンパバンにやってくる欧米人の多くが、街の静けさに惹かれてやってくる。プーシーの丘からの夕日。音を吸い込んでいくかのようなメコンの流れ。そして托鉢に歩く若い僧の列……。
しかし中国人は違った。四輪駆動の高そうな車で、雲南からやってくるのだ。どこかその旅は、アドベンチャードライブに映る。中国の雲南からは立派な道がつくられ、丸1日のドライブでルアンパバンまで辿り着いてしまうのだ。
ルアンパバンの街に停められた中国ナンバーの高級四輪駆動車は、これみよがしに中国の豊かさを物語っている。
何回か訪れているが、ルアンパバンはいい街だと思う。世界遺産に指定された街にありがちな、テーマパーク観がそれほど強くないことがいい。街には昔ながらのラオスの暮らしも息づいている。その共存が、うまくいっているようにも思う。
しかしそのなかで中国人は異質だ。彼らだけ、高度成長を体にまとっている。
ビエンチャンのバンコック、そしてルアンパバンの中国。
どちらも複雑なラオスである。
ビエンチャンでは知人に連れられて、一軒のジャズバーに入った。それほど大きな店ではなかったが、ビエンチャンの若者で賑わっていた。
ライブが開かれていた。ギターはアメリカ人、キーボードとドラムはタイ人のミュージシャンだった。3人のユニットは、バンコクで活動しているらしい。
リーダー格のアメリカ人が英語で話しはじめる。彼の口から、「バンコック」という言葉が何回も聞こえた。日本人が口にする「バンコク」ではなく「バンコック」……。
そこにはどこか、ジャズの先端を走る街という匂いがあった。キーボードを操るタイ人はなかなかうまかった。ドラムの音にも迫力があった。
その音に体を揺らすビエンチャンの若者にとっても、バンコクは、どこか凝縮された文化がある街のように映っているようだった。そう、日本人がニューヨークに抱く感覚のように。
日本人にとって、バンコクはアジアの街である。旅の世界でいえば、ゆったりとしたアジアの風が吹く街かもしれない。
しかしラオスから眺めると、バンコクは国際的な大都会である。クルングテープでもバンコクでもなく、英語流の「バンコック」なのだろう。
翌日の飛行機でルアンパバン。ここには中国人の姿が目立った。ルアンパバンにやってくる欧米人の多くが、街の静けさに惹かれてやってくる。プーシーの丘からの夕日。音を吸い込んでいくかのようなメコンの流れ。そして托鉢に歩く若い僧の列……。
しかし中国人は違った。四輪駆動の高そうな車で、雲南からやってくるのだ。どこかその旅は、アドベンチャードライブに映る。中国の雲南からは立派な道がつくられ、丸1日のドライブでルアンパバンまで辿り着いてしまうのだ。
ルアンパバンの街に停められた中国ナンバーの高級四輪駆動車は、これみよがしに中国の豊かさを物語っている。
何回か訪れているが、ルアンパバンはいい街だと思う。世界遺産に指定された街にありがちな、テーマパーク観がそれほど強くないことがいい。街には昔ながらのラオスの暮らしも息づいている。その共存が、うまくいっているようにも思う。
しかしそのなかで中国人は異質だ。彼らだけ、高度成長を体にまとっている。
ビエンチャンのバンコック、そしてルアンパバンの中国。
どちらも複雑なラオスである。
2012年01月16日
台湾の総統選挙の夜
総統選挙が終わった。昨夜はずっとテレビの開票速報を見続けていた。午後4時に投票が締め切られ、刻々と得票数が増えていく。国民党の馬英九と民進党の蔡英文の総統選である。
はじめは僅差の様相だったが、票が開くうちに馬英九が少しずつリードしていった。10万票が開き、差は30万票になり……。
各テレビ局は当確宣言に慎重だったが、馬英九の勝利は確実に思えた。
もし民進党の蔡英文が勝ちそうだったら、板橋にある民進党本部前に行こうかとも思っていた。しかしそんな状況にはなりそうもなかった。
最終的には、80万票ほどの差がついた。
馬英九が689万1139票、蔡英文が609万3578票。接戦でもなかった。国民党の完全な勝利だった。
台湾の選挙は、どこかアメリカの大統領選を思わせる。総統を直接選ぶスタイル。日本の選挙と違い、盛りあがりが違う。
投票日前日の夜、板橋駅に近い競技場にいた。民進党の最後の集会が開かれていた。2~3万人の支持者が競技場を埋めた。台湾初の女性総統候補。最後には李登輝も登場し、会場は盛りあがった。
競技場のスタンドに座り、その光景をぼんやり見ていた。僕は中国語がわからない。ステージに立つ人々の演説の意味はほとんどわからない。しかし歓声が響き、旗やペンライトが揺れる会場を包む熱気のなかに身を置くと不思議な高揚感があった。会場ではしきりと、「我愛台湾」が連呼されていた。
生活を優先させるか、台湾人の意識を選ぶか……。そういう選挙だった気がする。
国民党政権になり、中国との親密度が深まっていった。中国人は台湾に観光で訪れることが可能になった。その数は年間、160万人にも達している。中国との貿易も自由度を増してゆく。中国人の資金力に支えられ、台湾の景気は悪くない。この状況を維持するなら、国民党という選択になる。
しかし台湾人としての誇りもある。有名な観光地は中国人で埋まる。その光景に台湾人は顔をしかめる。マナーがひどい、と吐き捨てるようにいう。
その先に心を痛める台湾人もいる。いまはこのレベルで終わっているが、やがて、不動産への中国人の投資が許され、台湾は一気に中国化していく……と。
生活を考えれば国民党になる。台湾人の意識を考えれば民進党に傾く。
最終的には、台湾人は生活を選んだ。
中国と距離を置こうとするのは、アジアでは、ひとつの流れである。ときに中国の手法は強引さが浮き立ってしまうからだ。
しかし台湾はその流れに乗らなかった。いや、同じ民族として、中国とうまくやっていく自信が台湾人にはあるのだろうか。
はじめは僅差の様相だったが、票が開くうちに馬英九が少しずつリードしていった。10万票が開き、差は30万票になり……。
各テレビ局は当確宣言に慎重だったが、馬英九の勝利は確実に思えた。
もし民進党の蔡英文が勝ちそうだったら、板橋にある民進党本部前に行こうかとも思っていた。しかしそんな状況にはなりそうもなかった。
最終的には、80万票ほどの差がついた。
馬英九が689万1139票、蔡英文が609万3578票。接戦でもなかった。国民党の完全な勝利だった。
台湾の選挙は、どこかアメリカの大統領選を思わせる。総統を直接選ぶスタイル。日本の選挙と違い、盛りあがりが違う。
投票日前日の夜、板橋駅に近い競技場にいた。民進党の最後の集会が開かれていた。2~3万人の支持者が競技場を埋めた。台湾初の女性総統候補。最後には李登輝も登場し、会場は盛りあがった。
競技場のスタンドに座り、その光景をぼんやり見ていた。僕は中国語がわからない。ステージに立つ人々の演説の意味はほとんどわからない。しかし歓声が響き、旗やペンライトが揺れる会場を包む熱気のなかに身を置くと不思議な高揚感があった。会場ではしきりと、「我愛台湾」が連呼されていた。
生活を優先させるか、台湾人の意識を選ぶか……。そういう選挙だった気がする。
国民党政権になり、中国との親密度が深まっていった。中国人は台湾に観光で訪れることが可能になった。その数は年間、160万人にも達している。中国との貿易も自由度を増してゆく。中国人の資金力に支えられ、台湾の景気は悪くない。この状況を維持するなら、国民党という選択になる。
しかし台湾人としての誇りもある。有名な観光地は中国人で埋まる。その光景に台湾人は顔をしかめる。マナーがひどい、と吐き捨てるようにいう。
その先に心を痛める台湾人もいる。いまはこのレベルで終わっているが、やがて、不動産への中国人の投資が許され、台湾は一気に中国化していく……と。
生活を考えれば国民党になる。台湾人の意識を考えれば民進党に傾く。
最終的には、台湾人は生活を選んだ。
中国と距離を置こうとするのは、アジアでは、ひとつの流れである。ときに中国の手法は強引さが浮き立ってしまうからだ。
しかし台湾はその流れに乗らなかった。いや、同じ民族として、中国とうまくやっていく自信が台湾人にはあるのだろうか。
2012年01月09日
写真を撮りやすくなった時代の後味
いまの若者は実に簡単に、そして膨大な写真を撮る。昨年、大学生たちとバングラデシュに向かい、改めて思った。テーブルに食事が運ばれてくるとカシャ。現地の人をカシャ。旅を記録したい気持ちはわかるが……。
デジカメが普及した結果だろう。携帯電話やスマートフォンにもデジカメが搭載されている。とにかく写真に撮り、うまく映っていないものは削除していけばいい。それがデジカメでもあるわけだから、枚数は膨大なものになっていってしまう。
取材で海外によく出る。カメラマンと同行することも多い。彼らは写真を撮る前、了解をとることが基本だ。肖像権の問題があるからだ。しかしいまの若者は、そんな断りもなく、カシャっと撮ってしまう。
列車やバスなどの車内写真で、出版社や新聞社と相談することもよくある。ある出版社からはこういわれた。
「映り込んでしまう乗客全員から承諾をとってください」
しかし現実にはなかなか難しい。かなりの人数になってしまうからだ。その写真を掲載するかどうかもわからない。そのつど、全員に許可をとっていたら、とんでもない労力がかかる。写真もどこか記念撮影風になってしまう。
ある新聞社は、8人を境界にしていた。それ以下の人数なら承諾をとる。それ以上なら、多くの人という解釈をあてはめた。なぜ、8人なのかはわからなかったが。
海外で料理を撮るときも気を遣う。一度、パリでレストランの取材をしたことがあった。そのとき、店の了解のほかに、皿をつくった人からも許可をとってほしいといわれた。皿にも著作権があるからだという。
しかし最近は、そんな煩雑な手続きを踏まなくても、料理の写真を撮ることができることが多い。店も簡単に許可してくれる傾向が強くなった。一般の人々が、勝手に撮ってしまうからだ。海外の場合、その写真をブログやフェイスブックにアップする人が多い。店側も、いちいち注意もできないのだろう。
ブログやフェイスブックに掲載する写真は、許可をとらなくてもいいのだろうか。そんなことを考えてしまう。しかし少なくとも、ネットが普及したことで、著作権や肖像権の問題はかなり曖昧になってきた。いまにして振り返ると、昔の苦労はなんだったのかと思い悩んでしまう。
だが……と思うのだ。了解を得ずに人や料理を写真に撮ると、後味が悪い。罪悪の思いがどこかにある。それは著作権とか肖像権以前のことのようにも思う。写真を撮るときは、事前に、目配せでもいいから了解をとる。それは最低の礼儀という気がするのだ。
そう考えてしまうのは、これまで著作権や肖像権の問題で、長く苦労してきたからなのだろうか。
デジカメが普及した結果だろう。携帯電話やスマートフォンにもデジカメが搭載されている。とにかく写真に撮り、うまく映っていないものは削除していけばいい。それがデジカメでもあるわけだから、枚数は膨大なものになっていってしまう。
取材で海外によく出る。カメラマンと同行することも多い。彼らは写真を撮る前、了解をとることが基本だ。肖像権の問題があるからだ。しかしいまの若者は、そんな断りもなく、カシャっと撮ってしまう。
列車やバスなどの車内写真で、出版社や新聞社と相談することもよくある。ある出版社からはこういわれた。
「映り込んでしまう乗客全員から承諾をとってください」
しかし現実にはなかなか難しい。かなりの人数になってしまうからだ。その写真を掲載するかどうかもわからない。そのつど、全員に許可をとっていたら、とんでもない労力がかかる。写真もどこか記念撮影風になってしまう。
ある新聞社は、8人を境界にしていた。それ以下の人数なら承諾をとる。それ以上なら、多くの人という解釈をあてはめた。なぜ、8人なのかはわからなかったが。
海外で料理を撮るときも気を遣う。一度、パリでレストランの取材をしたことがあった。そのとき、店の了解のほかに、皿をつくった人からも許可をとってほしいといわれた。皿にも著作権があるからだという。
しかし最近は、そんな煩雑な手続きを踏まなくても、料理の写真を撮ることができることが多い。店も簡単に許可してくれる傾向が強くなった。一般の人々が、勝手に撮ってしまうからだ。海外の場合、その写真をブログやフェイスブックにアップする人が多い。店側も、いちいち注意もできないのだろう。
ブログやフェイスブックに掲載する写真は、許可をとらなくてもいいのだろうか。そんなことを考えてしまう。しかし少なくとも、ネットが普及したことで、著作権や肖像権の問題はかなり曖昧になってきた。いまにして振り返ると、昔の苦労はなんだったのかと思い悩んでしまう。
だが……と思うのだ。了解を得ずに人や料理を写真に撮ると、後味が悪い。罪悪の思いがどこかにある。それは著作権とか肖像権以前のことのようにも思う。写真を撮るときは、事前に、目配せでもいいから了解をとる。それは最低の礼儀という気がするのだ。
そう考えてしまうのは、これまで著作権や肖像権の問題で、長く苦労してきたからなのだろうか。
2012年01月02日
日本酒が重い正月
知人が信州で杜氏をしている。その酒蔵にでかけた。信州では、1月から2月が酒づくりのシーズンである。それに備えて、麹を増やす行程と、酵母を増やす作業を同時に行っていた。
冷え切った酒蔵。樽のなかでは、静かに発酵が進んでいる。うまく米粒のなかまで菌糸をのばさなくてはならない。樽の底はあんかで温められ、定期的に攪拌を繰り返していく。
米は吟醸酒用の山田錦である。その表面から60%を削り、中心部だけを使う。
そして麹と酵母、米、水を大きな樽に入れる。樽のなかでは、米のデンプンがブドウ糖に変わり、同時にブドウ糖が発酵していく。綿密に計算された酒づくりの技術。杜氏はそれを経験的に身につけた技術者でもある。
「デンプンがブドウ糖になることと、発酵が樽のなかで同時に進むことが、日本酒の特徴なんです。これを並行複発酵っていうんです」
話がどんどん難しくなっていく。
なぜ、この方法を日本酒はとるようになったのだろうか。話を聞いていくと、いかに安定した品質の酒をつくるかということに集約されているようにも思えてくる。いちばん寒い時期に酒をつくるのも、雑菌の繁殖を抑えられるからだという。
ワインと比べてみる。原料のブドウはもともと甘い。デンプンがブドウ糖になっているのだ。だから発酵だけでいい。そのつくり方は、どこか素朴で単純でもある。だから何年ものといった評価が生まれてくるのだ。
しかし日本酒には、そういった違いがない。つくり方が確立され、どこか工場でつくられた製品のようなところがある。もちろん、日本酒も原材料によって味わいに差がでてくる。が、ワインほどの味に違いはない。
日本人という民族は、本当に完璧を求める人々らしい。やはり職人文化圏なのだ。
「そういうことなのだろうか」
酒蔵で考え込んでしまった。どこか日本の携帯電話にも似た情況のような気がしたのだ。技術的には優れているのだが、日本という国から外に出ることができない。世界の醸造酒といえば、圧倒的にビールかワインなのだ。日本酒はガラパゴス化の典型のようにも思えてくる。
信州の田舎町の酒蔵で、世界の人が耳にしたら、目を丸くするほど高度な行程を踏んで日本酒がつくられている。それは大変なことなのだろうが、世界標準にはなかなか合わない。
土産に原酒というものを少しもらった。元旦に飲んでみた。おせち料理を食べながら飲む日本酒の原酒は、少し重かった。
冷え切った酒蔵。樽のなかでは、静かに発酵が進んでいる。うまく米粒のなかまで菌糸をのばさなくてはならない。樽の底はあんかで温められ、定期的に攪拌を繰り返していく。
米は吟醸酒用の山田錦である。その表面から60%を削り、中心部だけを使う。
そして麹と酵母、米、水を大きな樽に入れる。樽のなかでは、米のデンプンがブドウ糖に変わり、同時にブドウ糖が発酵していく。綿密に計算された酒づくりの技術。杜氏はそれを経験的に身につけた技術者でもある。
「デンプンがブドウ糖になることと、発酵が樽のなかで同時に進むことが、日本酒の特徴なんです。これを並行複発酵っていうんです」
話がどんどん難しくなっていく。
なぜ、この方法を日本酒はとるようになったのだろうか。話を聞いていくと、いかに安定した品質の酒をつくるかということに集約されているようにも思えてくる。いちばん寒い時期に酒をつくるのも、雑菌の繁殖を抑えられるからだという。
ワインと比べてみる。原料のブドウはもともと甘い。デンプンがブドウ糖になっているのだ。だから発酵だけでいい。そのつくり方は、どこか素朴で単純でもある。だから何年ものといった評価が生まれてくるのだ。
しかし日本酒には、そういった違いがない。つくり方が確立され、どこか工場でつくられた製品のようなところがある。もちろん、日本酒も原材料によって味わいに差がでてくる。が、ワインほどの味に違いはない。
日本人という民族は、本当に完璧を求める人々らしい。やはり職人文化圏なのだ。
「そういうことなのだろうか」
酒蔵で考え込んでしまった。どこか日本の携帯電話にも似た情況のような気がしたのだ。技術的には優れているのだが、日本という国から外に出ることができない。世界の醸造酒といえば、圧倒的にビールかワインなのだ。日本酒はガラパゴス化の典型のようにも思えてくる。
信州の田舎町の酒蔵で、世界の人が耳にしたら、目を丸くするほど高度な行程を踏んで日本酒がつくられている。それは大変なことなのだろうが、世界標準にはなかなか合わない。
土産に原酒というものを少しもらった。元旦に飲んでみた。おせち料理を食べながら飲む日本酒の原酒は、少し重かった。
2011年12月26日
上海のインドカレー
クリスマスイブである。まだ娘たちが幼かった頃、イブの晩は自宅にいた。そういう晩だった。しかし、下の娘が来年は成人式である。もう家庭でイブという年齢ではないのだろう。
だからというわけではないが……上海にいる。寒さが募る晩である。上海の冬の寒さは骨身に沁みる。北京のほうがはるかに寒いのだが、どこか楽なのだ。
仕事である。僕が所属する事務所は、ガイドブックを発行している。『歩く上海』の打ち合わせや原稿チェックに来ている。
このガイドブックは、現地のスタッフに制作を依頼しているため、タイミングを見計らって現地に出向くことになる。
仕事だから出張ということになるのだが、人が想像するようなものではない。昼間の仕事が終われば、取引先と現地の名物でも食べて……という出張もあるのだろうが、僕の場合、現地のスタッフは夜も眠ることができないような追い込みのときに来るから、夜もひたすら仕事になってしまう。
そこに個人的な本の仕事もある。
上海に着いてから、食事以外、ほとんどホテルを出ていない。ホテルの部屋で原稿を書き、ゲラをチェックしていく。東京のオフィスから空間移動したようなものだが、現地のスタッフと、直接、顔を見ながら打ち合わせができる。
食事はいつもひとりだ。
バンコクに滞在しているときも、ひとりで夕食をとることが多い。
バンコクでいちばん多い夕食……。
ビール1本、サラダ、パン。
海外に出ることが多いから、ご飯や味噌汁がほしいとも思わない。仕事の途中だから、しっかり食べると眠くなってしまう。およそタイ料理とは縁のないものばかりを食べている。
今日はインドカレーだった。僕はいま、地下鉄の静安寺に近い如家酒家というビジネスホテルに泊まっている。夕飯でも食べなければ……と、近くのレストランが集まるビルに入った。インド料理屋がすいていた。ただそれだけで入ってしまった。賑やかな店に入る気分ではなかった。
どうして上海でインド料理?
ちょっと悩んだが、適当な店が近くになかった。ナンとチキンカレー、サラダ、ヨーグルト。そんな夕食をとり、冷え込む路上に出た。まっすぐホテルに戻れば5分ほどだが、ちょっと遠まわりをしようと思った。
路地裏に入ると、安そうな食堂や蘭州麺の店から湯気と明かりが漏れていた。
胡同を思わせる上海の住宅街。そこを歩き続けた。
上海滞在は5日ほどである。
おそらくこの時間が唯一の旅かもしれないと思った。
だからというわけではないが……上海にいる。寒さが募る晩である。上海の冬の寒さは骨身に沁みる。北京のほうがはるかに寒いのだが、どこか楽なのだ。
仕事である。僕が所属する事務所は、ガイドブックを発行している。『歩く上海』の打ち合わせや原稿チェックに来ている。
このガイドブックは、現地のスタッフに制作を依頼しているため、タイミングを見計らって現地に出向くことになる。
仕事だから出張ということになるのだが、人が想像するようなものではない。昼間の仕事が終われば、取引先と現地の名物でも食べて……という出張もあるのだろうが、僕の場合、現地のスタッフは夜も眠ることができないような追い込みのときに来るから、夜もひたすら仕事になってしまう。
そこに個人的な本の仕事もある。
上海に着いてから、食事以外、ほとんどホテルを出ていない。ホテルの部屋で原稿を書き、ゲラをチェックしていく。東京のオフィスから空間移動したようなものだが、現地のスタッフと、直接、顔を見ながら打ち合わせができる。
食事はいつもひとりだ。
バンコクに滞在しているときも、ひとりで夕食をとることが多い。
バンコクでいちばん多い夕食……。
ビール1本、サラダ、パン。
海外に出ることが多いから、ご飯や味噌汁がほしいとも思わない。仕事の途中だから、しっかり食べると眠くなってしまう。およそタイ料理とは縁のないものばかりを食べている。
今日はインドカレーだった。僕はいま、地下鉄の静安寺に近い如家酒家というビジネスホテルに泊まっている。夕飯でも食べなければ……と、近くのレストランが集まるビルに入った。インド料理屋がすいていた。ただそれだけで入ってしまった。賑やかな店に入る気分ではなかった。
どうして上海でインド料理?
ちょっと悩んだが、適当な店が近くになかった。ナンとチキンカレー、サラダ、ヨーグルト。そんな夕食をとり、冷え込む路上に出た。まっすぐホテルに戻れば5分ほどだが、ちょっと遠まわりをしようと思った。
路地裏に入ると、安そうな食堂や蘭州麺の店から湯気と明かりが漏れていた。
胡同を思わせる上海の住宅街。そこを歩き続けた。
上海滞在は5日ほどである。
おそらくこの時間が唯一の旅かもしれないと思った。
2011年12月19日
那覇から宮古島まで2800円フライト
やっと日本もLCCの時代……。
先週、沖縄の那覇から宮古島に向かうスカイマーク航空に乗って実感した。片道運賃は2800円。これまで片道1万円近い運賃を払っていたわけだから、まさにLCCの時代である。
一昨年、日本は国際線のLCC元年といわれた。そして今年は、国内線のLCC元年というらしい。僕もLCCに関する本を3冊も書いた。テレビや新聞、雑誌からの取材も多い。
LCCは就航時、1000円を切るキャンペーン価格を打ち出す。それに反応した取材となると困る。そういうチケットはまず手に入らないか、数ヵ月先の予約である。
必ずといっていいほど、LCC運賃を使ったコースづくりの話になる。これも困る。番組や雑誌が発表されるとき、どんな運賃になっているかがわからないのだ。LCC運賃は、搭乗する日が近づくほど高くなる傾向があるし、為替レートの問題もある。
そんななかで予測運賃を出していくと、LCCといっても必ずしも安いわけではなくなってくる。LCCが就航すると、既存の航空会社も運賃を下げてくるから、割安感はさらに薄くなってしまう。
日本に乗り入れる国際線LCCの運賃は、実際にはそう安くないことが多かった。LCC元年といっても、目を瞠るほどではなかった。
しかし沖縄の離島便は違った。那覇ー宮古島間は、搭乗日がかなり近づいても2800円で買うことができる。それに1日に何便も就航している。
LCCは沖縄の島の暮らしを変えつつある。いまの沖縄は忘年会シーズンだが、宮古島の人が那覇で忘年会、那覇の人が宮古島で忘年会ということが起きている。週末にゴルフのために、宮古島にやってくる那覇の人も増えた。これからはじまる入学試験、そして那覇の医療機関に向かう人、中学や高校の部活の遠征。沖縄の島にとって、唯一の足である飛行機の運賃が安くなることが、島を活気づけていた。既存の日本航空系の日本トランスオーシャンや全日空からのスカイマークに鞍替えする人が次々に現れている。
「日本トランスオーシャンには、親戚も働いているし、いままでいろいろお世話になった。ただこんなに運賃が違ってしまうと、やっぱりスカイマークになってしまうさー」
宮古島の人口は5万人ほど。人間関係も濃密である。しかしそんな関係を度返ししてしまう安さなのだ。LCCはこういう区間で、本領を発揮する。
那覇ー石垣島間はスカイマーク航空が就航していない。しかし石垣島は、なんとか早く就航できるよう動き出している。宮古島だけ活気づくのが歯がゆいのだ。こうして雪崩現象が起きていく。一気にLCCが席巻していくのだ。ヨーロッパやアジアで起きた風が、やっと日本に吹いてきた。
先週、沖縄の那覇から宮古島に向かうスカイマーク航空に乗って実感した。片道運賃は2800円。これまで片道1万円近い運賃を払っていたわけだから、まさにLCCの時代である。
一昨年、日本は国際線のLCC元年といわれた。そして今年は、国内線のLCC元年というらしい。僕もLCCに関する本を3冊も書いた。テレビや新聞、雑誌からの取材も多い。
LCCは就航時、1000円を切るキャンペーン価格を打ち出す。それに反応した取材となると困る。そういうチケットはまず手に入らないか、数ヵ月先の予約である。
必ずといっていいほど、LCC運賃を使ったコースづくりの話になる。これも困る。番組や雑誌が発表されるとき、どんな運賃になっているかがわからないのだ。LCC運賃は、搭乗する日が近づくほど高くなる傾向があるし、為替レートの問題もある。
そんななかで予測運賃を出していくと、LCCといっても必ずしも安いわけではなくなってくる。LCCが就航すると、既存の航空会社も運賃を下げてくるから、割安感はさらに薄くなってしまう。
日本に乗り入れる国際線LCCの運賃は、実際にはそう安くないことが多かった。LCC元年といっても、目を瞠るほどではなかった。
しかし沖縄の離島便は違った。那覇ー宮古島間は、搭乗日がかなり近づいても2800円で買うことができる。それに1日に何便も就航している。
LCCは沖縄の島の暮らしを変えつつある。いまの沖縄は忘年会シーズンだが、宮古島の人が那覇で忘年会、那覇の人が宮古島で忘年会ということが起きている。週末にゴルフのために、宮古島にやってくる那覇の人も増えた。これからはじまる入学試験、そして那覇の医療機関に向かう人、中学や高校の部活の遠征。沖縄の島にとって、唯一の足である飛行機の運賃が安くなることが、島を活気づけていた。既存の日本航空系の日本トランスオーシャンや全日空からのスカイマークに鞍替えする人が次々に現れている。
「日本トランスオーシャンには、親戚も働いているし、いままでいろいろお世話になった。ただこんなに運賃が違ってしまうと、やっぱりスカイマークになってしまうさー」
宮古島の人口は5万人ほど。人間関係も濃密である。しかしそんな関係を度返ししてしまう安さなのだ。LCCはこういう区間で、本領を発揮する。
那覇ー石垣島間はスカイマーク航空が就航していない。しかし石垣島は、なんとか早く就航できるよう動き出している。宮古島だけ活気づくのが歯がゆいのだ。こうして雪崩現象が起きていく。一気にLCCが席巻していくのだ。ヨーロッパやアジアで起きた風が、やっと日本に吹いてきた。
2011年12月12日
スマートフォンから携帯に戻ってしまった
なさけない話を書く。
僕は先月、スマートフォンから普通の携帯電話に戻ってしまった。理由は単純である。スマートフォンをうまく使いこなせないからだ。
僕のスマートフォンは、日本で売られているものではない。タイで買った。Wellcomという会社のものである。
スマートフォンを日本で買うつもりはなかった。日本のそれは、シムロックといって、海外で売られているシムカードを挿入して使うことができないタイプである。日本の携帯電話やスマートフォンは、独自の進化系に入っている。ガラパゴス携帯とも呼ばれている。海外でも同じ機械を使うつもりだったから、タイではあたり前の、つまりシムフリーの機械を買った。タイでもスマートフォンを使う人が増えはじめた時期だった。
海外では不自由なく使っていた。中国、ベトナム、台湾、香港、バングラデシュ……。それぞれの国のシムカードを入れるて通話した。
問題は日本だった。僕はドコモの携帯電話を使っている。その機械からシムカードを抜き出し、タイで買ったスマートフォンに挿入した。電話は問題なく使えた。しかしアドレス帳が入らない。そうか、日本語をインストールしないとだめなのか……。苦労して日本語をインストールした。それでもアドレス帳が入らない。ドコモのCDカードからならインポートできるかもしれない、と知人にいわれ、やっとの思いでアドレス帳を入れた。しかし名前の順番が、どう考えてもランダムで、名前を探すのに苦労する。
ちょこちょこいじっているうちに、日本語をアインストールしてしまった。メールはSMSにしていたが、ついに家に帰るときも、「I will return」などと英語で送るしまつだった。
いろいろ考えた。日本の携帯電話は電話とメールしか使っていなかった。ネットにつなくことはなかった。そういう人間が、スマートフォンを手にしても、その機能とは無縁で、ただ煩雑なだけではないか。スマートフォンはシムフリーの携帯電話として、海外だけで使えばいいのではないか。
ひと晩悩んで、携帯電話に戻った。
最近、吉田友和氏の『インテリジェント旅行術』(講談社)を読んだ。スマートフォンは進化していた。テザリングという機能には触手がうごいた。スマートフォンには、携帯電話の電波をWi-Fiに変えてしまう機能がつきはじめているのだという。もしこの機能をうまく使いこなせれば、Wi-Fiを使うことができるホテルやカフェを探してパソコンでメールをやりとりする必要がなくなる。携帯電話の電波のあるところなら、どこでもパソコンでメールを使えることになる。
ホテルやカフェでは、Wi-Fi使用料をとられることも多い。その料金もテザリング機能を使えばかなり安くなる。それにバイバーなどのインターネット電話……。
通信代を安くするためには、スマートフォンに戻るしかないらしい。再びスマートフォン。ちょっと気が重い。
僕は先月、スマートフォンから普通の携帯電話に戻ってしまった。理由は単純である。スマートフォンをうまく使いこなせないからだ。
僕のスマートフォンは、日本で売られているものではない。タイで買った。Wellcomという会社のものである。
スマートフォンを日本で買うつもりはなかった。日本のそれは、シムロックといって、海外で売られているシムカードを挿入して使うことができないタイプである。日本の携帯電話やスマートフォンは、独自の進化系に入っている。ガラパゴス携帯とも呼ばれている。海外でも同じ機械を使うつもりだったから、タイではあたり前の、つまりシムフリーの機械を買った。タイでもスマートフォンを使う人が増えはじめた時期だった。
海外では不自由なく使っていた。中国、ベトナム、台湾、香港、バングラデシュ……。それぞれの国のシムカードを入れるて通話した。
問題は日本だった。僕はドコモの携帯電話を使っている。その機械からシムカードを抜き出し、タイで買ったスマートフォンに挿入した。電話は問題なく使えた。しかしアドレス帳が入らない。そうか、日本語をインストールしないとだめなのか……。苦労して日本語をインストールした。それでもアドレス帳が入らない。ドコモのCDカードからならインポートできるかもしれない、と知人にいわれ、やっとの思いでアドレス帳を入れた。しかし名前の順番が、どう考えてもランダムで、名前を探すのに苦労する。
ちょこちょこいじっているうちに、日本語をアインストールしてしまった。メールはSMSにしていたが、ついに家に帰るときも、「I will return」などと英語で送るしまつだった。
いろいろ考えた。日本の携帯電話は電話とメールしか使っていなかった。ネットにつなくことはなかった。そういう人間が、スマートフォンを手にしても、その機能とは無縁で、ただ煩雑なだけではないか。スマートフォンはシムフリーの携帯電話として、海外だけで使えばいいのではないか。
ひと晩悩んで、携帯電話に戻った。
最近、吉田友和氏の『インテリジェント旅行術』(講談社)を読んだ。スマートフォンは進化していた。テザリングという機能には触手がうごいた。スマートフォンには、携帯電話の電波をWi-Fiに変えてしまう機能がつきはじめているのだという。もしこの機能をうまく使いこなせれば、Wi-Fiを使うことができるホテルやカフェを探してパソコンでメールをやりとりする必要がなくなる。携帯電話の電波のあるところなら、どこでもパソコンでメールを使えることになる。
ホテルやカフェでは、Wi-Fi使用料をとられることも多い。その料金もテザリング機能を使えばかなり安くなる。それにバイバーなどのインターネット電話……。
通信代を安くするためには、スマートフォンに戻るしかないらしい。再びスマートフォン。ちょっと気が重い。
2011年12月05日
1台の救急車より点滴バイク
バンコクでBTSや地下鉄の駅から少し離れたところに泊まると、つい、バイクタクシーに乗ってしまう。事故とか排気ガスといったことを考えれば、乗らないほうがいいのかもしれない。運賃もタクシーより安いわけではない。しかし、目的地に渋滞も関係なく着いてしまうことはありがたい。時間に余裕のないときは、やはり頼ってしまう。
最近のタイは景気がいいらしい。時間帯や場所にもよるが、渋滞が戻ってきつつある。先日も乗ったタクシーがひどい渋滞にはまってしまった。約束の時刻に間に合いそうもない。バイクタクシーに頼るしかなかった。
バンコクという街は正直だ。少し景気がよくなると、すぐに渋滞が現れる。それに比べると、東京の車の混み具合は、景気への反応が鈍い。この違いはなんだろうか……と考えることがある。街の構造だろうか。民族の違いだろうか。
先週はカンボジアにいた。プノンペンもバイクタクシーが欠かせない街だ。プノンペンのそれは、後部座席が水平で広く改造してある。安定感があって座り心地もいい。バンコクのバイクタクシーも、そのくらいの改造をしてほしいといつも思う。ブレーキをかけたときなど、尻が前に動いていってしまうのだ。バンコクには、そういう改造を規制するルールでもあるのだろうか。そんなものはない気がするのだが。
カンボジアでは、よく点滴バイクを見かける。患者が後に乗り、点滴をしながら病院に向かうのだ。村の診療所などで治療を受け、点滴をしながら病院に向かうのではないかと思う。重症ではないのだろうが、田舎の道ではじめてこの光景を見たとき、いったいどういう国なのかと思ったものだった。
そんな話を海外で活動する日本の医療NPOのスタッフと話したことがある。
「それってすごいアイデアかもしれない」
彼は目を輝かせた。
救急車が少ない発展途上国では、患者の病院への移送が大変なのだという。点滴をしながら移送しようと思うと、天井の高い車を用意しないといけない。しかし一般にすぐ手配できるのは、通常の乗用車。点滴用のフレームが引っかかってしまい、なかなかうまく点滴セットを車内に持ち込めないらしい。
「バイクなら、すぐにできるじゃないですか。簡単そのもの。バイクはすぐに手配できますからね」
発展途上国といっても、都市の渋滞が社会問題になっているところが多いという。道の拡張といったインフラが整わないまま、車だけが増えてしまうのだ。そんな街では、救急車もなかなかうまく機能しない。しかしバイクなら問題はない。
1台の救急車より点滴バイク。使い勝手のいいものは現場にある。そういうことなのだろう。
最近のタイは景気がいいらしい。時間帯や場所にもよるが、渋滞が戻ってきつつある。先日も乗ったタクシーがひどい渋滞にはまってしまった。約束の時刻に間に合いそうもない。バイクタクシーに頼るしかなかった。
バンコクという街は正直だ。少し景気がよくなると、すぐに渋滞が現れる。それに比べると、東京の車の混み具合は、景気への反応が鈍い。この違いはなんだろうか……と考えることがある。街の構造だろうか。民族の違いだろうか。
先週はカンボジアにいた。プノンペンもバイクタクシーが欠かせない街だ。プノンペンのそれは、後部座席が水平で広く改造してある。安定感があって座り心地もいい。バンコクのバイクタクシーも、そのくらいの改造をしてほしいといつも思う。ブレーキをかけたときなど、尻が前に動いていってしまうのだ。バンコクには、そういう改造を規制するルールでもあるのだろうか。そんなものはない気がするのだが。
カンボジアでは、よく点滴バイクを見かける。患者が後に乗り、点滴をしながら病院に向かうのだ。村の診療所などで治療を受け、点滴をしながら病院に向かうのではないかと思う。重症ではないのだろうが、田舎の道ではじめてこの光景を見たとき、いったいどういう国なのかと思ったものだった。
そんな話を海外で活動する日本の医療NPOのスタッフと話したことがある。
「それってすごいアイデアかもしれない」
彼は目を輝かせた。
救急車が少ない発展途上国では、患者の病院への移送が大変なのだという。点滴をしながら移送しようと思うと、天井の高い車を用意しないといけない。しかし一般にすぐ手配できるのは、通常の乗用車。点滴用のフレームが引っかかってしまい、なかなかうまく点滴セットを車内に持ち込めないらしい。
「バイクなら、すぐにできるじゃないですか。簡単そのもの。バイクはすぐに手配できますからね」
発展途上国といっても、都市の渋滞が社会問題になっているところが多いという。道の拡張といったインフラが整わないまま、車だけが増えてしまうのだ。そんな街では、救急車もなかなかうまく機能しない。しかしバイクなら問題はない。
1台の救急車より点滴バイク。使い勝手のいいものは現場にある。そういうことなのだろう。
2011年11月28日
失うものが多い暮らし
豊かになること……それは天災に弱さを露呈することなのだろうか。タイの洪水の渦中でそんなことを考えていた。
タイの暮らしには、もともと洪水が織り込まれていた。高床式の家がその最たるもの。水が入っても、通常の暮らしができた。家には小舟もあった。洪水になっても、舟に乗ってでかければよかった。かつて、タイの水田で栽培されていたのは浮稲だった。この稲は、増水に合わせて茎が伸び、穂先は常に水から顔を出す種類だった。
10年ほど前だっただろうか。バンコク市内でタイ人の知人に会った。彼の家はバンコクの北部にあり、そのとき床上浸水状態だった。
「もう1ヵ月も水のなかですよ」
しかし彼の表情は涼しげだった。頼もしいタイ人の姿がそこにあった。
しかし今回の洪水でタイ人は動揺した。政府も浮き足立っていた気がする。それほど北から押し寄せてくる水塊の量が多かったと見る向きもある。が、やはりバンコクの都市化が進み、人々の生活様式が変わってしまったことが背後に横たわっている気がする。
水田に植えられる稲は、とうの昔に収穫量の多い普通の稲になった。いまのバンコクでは、高床式の家など探す方が大変だ。1階には冷蔵庫やテレビなどの電気製品が置かれている。それらが水に浸かってしまうと損害は大きい。
そして車である。高速道路の路肩や市内の駐車場に避難した車は相当な数である。ある日本人がこんなことをいっていた。
「シーロム通りの駐車場に置かれている車、かなりの高級車があるんですよ。あんな車にタイ人は乗っていたんですね」
高価な車をもっている人ほど、水没は避けたいと考えてしまう。
豊かになること──。それは失うと不便になってしまうものに囲まれて暮らすことだ。そんな生活に警鐘は聞こえるが、人間は一度手に入れた豊かさを手放そうとはしない。後戻りはできないのだ。豊かな暮らしを維持しながら、昔の質素な生き方をとり入れる……という折衷案に落ち着くことになる。
しかし天災というものは、そんな人間をせせら嗤うかのように、私たちの生活を襲う。
日本や日本人の反応は、タイ人の上をいく動揺ぶりだった。外務省は10月下旬、レベル3の「渡航の延期をお勧めします」という危険情報を出した。バンコクの日本人学校も10月20日から休校。生徒の約8割が日本に避難したという。社員を帰国させた日系企業も多い。
結局、バンコク市街地に水は入らずに、今年の洪水は収束しそうだ。
「いまになって思えば、過剰反応」
とある日本人。日本人はタイ人以上に、失っては困るものを多くもっているということなのだろうか。
タイの暮らしには、もともと洪水が織り込まれていた。高床式の家がその最たるもの。水が入っても、通常の暮らしができた。家には小舟もあった。洪水になっても、舟に乗ってでかければよかった。かつて、タイの水田で栽培されていたのは浮稲だった。この稲は、増水に合わせて茎が伸び、穂先は常に水から顔を出す種類だった。
10年ほど前だっただろうか。バンコク市内でタイ人の知人に会った。彼の家はバンコクの北部にあり、そのとき床上浸水状態だった。
「もう1ヵ月も水のなかですよ」
しかし彼の表情は涼しげだった。頼もしいタイ人の姿がそこにあった。
しかし今回の洪水でタイ人は動揺した。政府も浮き足立っていた気がする。それほど北から押し寄せてくる水塊の量が多かったと見る向きもある。が、やはりバンコクの都市化が進み、人々の生活様式が変わってしまったことが背後に横たわっている気がする。
水田に植えられる稲は、とうの昔に収穫量の多い普通の稲になった。いまのバンコクでは、高床式の家など探す方が大変だ。1階には冷蔵庫やテレビなどの電気製品が置かれている。それらが水に浸かってしまうと損害は大きい。
そして車である。高速道路の路肩や市内の駐車場に避難した車は相当な数である。ある日本人がこんなことをいっていた。
「シーロム通りの駐車場に置かれている車、かなりの高級車があるんですよ。あんな車にタイ人は乗っていたんですね」
高価な車をもっている人ほど、水没は避けたいと考えてしまう。
豊かになること──。それは失うと不便になってしまうものに囲まれて暮らすことだ。そんな生活に警鐘は聞こえるが、人間は一度手に入れた豊かさを手放そうとはしない。後戻りはできないのだ。豊かな暮らしを維持しながら、昔の質素な生き方をとり入れる……という折衷案に落ち着くことになる。
しかし天災というものは、そんな人間をせせら嗤うかのように、私たちの生活を襲う。
日本や日本人の反応は、タイ人の上をいく動揺ぶりだった。外務省は10月下旬、レベル3の「渡航の延期をお勧めします」という危険情報を出した。バンコクの日本人学校も10月20日から休校。生徒の約8割が日本に避難したという。社員を帰国させた日系企業も多い。
結局、バンコク市街地に水は入らずに、今年の洪水は収束しそうだ。
「いまになって思えば、過剰反応」
とある日本人。日本人はタイ人以上に、失っては困るものを多くもっているということなのだろうか。
2011年11月21日
娘の保険で病院に泊まる
バングラデシュのコックスバザールの滞在最終日、20歳の娘が体調を壊してしまった。吐き気と下痢。熱も少しある。騙し騙しといった感じでバンコクに戻り、スワンナプーム空港の診療室に出向いた。点滴を受け、病室で休んだ。
「病状が治ってきたら帰国しても……」
という医師の話だったが、2時間後、娘の体調は戻らなかった。血圧の低い。
「入院ですね」
医師は即決した。診療所はサミティベート病院が運営していた。診療所のスタッフが、その夜に予約が入っていた飛行機をキャンセル。男性スタッフが現れ、看護婦と一緒に停まっていた救急車に乗り込んだ。タイとは思えないほどスピーディーにことは運んだ。
サミティベート病院と聞いて、スクムヴィット通りかと思ったが、空港からやけに近い。窓から眺める風景も違う。案内を見ると、サミティベート・シーナカリン病院だとわかった。
いくつかの検査が終わり、娘は14階の病室に移った。広い個室だった。
2時間おきに体温や血圧を測りにやってくる看護婦さんに、「今晩、僕は……」と訊くと、ソファーベッドを指差された。
「メーバーンにセッティングしてくれるように頼みますから」
「メーバーン?」
この病院には、病人やその家族の世話をしてくれるお手伝いさんまでいた。
病院の周りにはなにもなかった。敷地の外に出ても、食堂はなかった。1階のコンビニでカップヌードルを買い、病室にある湯沸かし器のスイッチを入れた。部屋にはなんでもあった。冷蔵庫、電子レンジ、ホテルにあるコーヒーや紅茶のセット……。広いトイレとシャワー室。アメニティも高級品が並んでいる。ネットもつながる。ここがバンコクの一画という実感はなく、まるでリゾートにいるようだった。この種の病院に見舞いに出向くことはあったが、泊まってみると、この高級感に唸ってしまう。
幸い、娘は翌日には快方に向かった。検査の結果も陰性だった。医師の説明では、環境や食べ物の違いのストレスや過労が原因のようだった。その日から病室が急に賑やかになった。娘がさっぱりとした日本食を希望し、知人のタイ人に頼んだところ、話が一気に広まってしまった。次々に知人が現れた。家が水に浸かっているというのに、見舞いに来てくれたタイ人もいた。
多くがこの種の高級病院に戸惑っていた。部屋の設備にひとつ、ひとつ声をあげる。看護婦に入院代を聞く知人もいた。
やっとバンコクにいる気分になった。
「明日、退院だと思うんだけど、今晩、どうしようかと思って」
「ここに泊まりなよ。エアコンは使い放題。シャワーにお湯も出る。部屋の掃除も1日2回もしてくれる」
「そうだよな」
バンコクで泊まるホテルより快適だった。
費用はすべて旅行保険のキャッシュレス。退院時に一応、請求書が渡されたが、その金額は2泊3日で3万4000バーツほどだった。日本円にすると9万円弱。救急車は1500バーツだった。
保険加入者は娘である。言葉や病気への不安はあっただろうが、父親がそこにちゃっかり泊まっていいのだろうか。ちょっと後ろめたい2泊3日だった。
「病状が治ってきたら帰国しても……」
という医師の話だったが、2時間後、娘の体調は戻らなかった。血圧の低い。
「入院ですね」
医師は即決した。診療所はサミティベート病院が運営していた。診療所のスタッフが、その夜に予約が入っていた飛行機をキャンセル。男性スタッフが現れ、看護婦と一緒に停まっていた救急車に乗り込んだ。タイとは思えないほどスピーディーにことは運んだ。
サミティベート病院と聞いて、スクムヴィット通りかと思ったが、空港からやけに近い。窓から眺める風景も違う。案内を見ると、サミティベート・シーナカリン病院だとわかった。
いくつかの検査が終わり、娘は14階の病室に移った。広い個室だった。
2時間おきに体温や血圧を測りにやってくる看護婦さんに、「今晩、僕は……」と訊くと、ソファーベッドを指差された。
「メーバーンにセッティングしてくれるように頼みますから」
「メーバーン?」
この病院には、病人やその家族の世話をしてくれるお手伝いさんまでいた。
病院の周りにはなにもなかった。敷地の外に出ても、食堂はなかった。1階のコンビニでカップヌードルを買い、病室にある湯沸かし器のスイッチを入れた。部屋にはなんでもあった。冷蔵庫、電子レンジ、ホテルにあるコーヒーや紅茶のセット……。広いトイレとシャワー室。アメニティも高級品が並んでいる。ネットもつながる。ここがバンコクの一画という実感はなく、まるでリゾートにいるようだった。この種の病院に見舞いに出向くことはあったが、泊まってみると、この高級感に唸ってしまう。
幸い、娘は翌日には快方に向かった。検査の結果も陰性だった。医師の説明では、環境や食べ物の違いのストレスや過労が原因のようだった。その日から病室が急に賑やかになった。娘がさっぱりとした日本食を希望し、知人のタイ人に頼んだところ、話が一気に広まってしまった。次々に知人が現れた。家が水に浸かっているというのに、見舞いに来てくれたタイ人もいた。
多くがこの種の高級病院に戸惑っていた。部屋の設備にひとつ、ひとつ声をあげる。看護婦に入院代を聞く知人もいた。
やっとバンコクにいる気分になった。
「明日、退院だと思うんだけど、今晩、どうしようかと思って」
「ここに泊まりなよ。エアコンは使い放題。シャワーにお湯も出る。部屋の掃除も1日2回もしてくれる」
「そうだよな」
バンコクで泊まるホテルより快適だった。
費用はすべて旅行保険のキャッシュレス。退院時に一応、請求書が渡されたが、その金額は2泊3日で3万4000バーツほどだった。日本円にすると9万円弱。救急車は1500バーツだった。
保険加入者は娘である。言葉や病気への不安はあっただろうが、父親がそこにちゃっかり泊まっていいのだろうか。ちょっと後ろめたい2泊3日だった。



