2009年09月28日
石油の匂い
実家のある信州の安曇野に帰った。
冬じたくのためである。
日本の寒い地域で生まれ育ち、いま、タイに暮らす人は、「冬じたく」という言葉に、特別な感情を抱くのかもしれない。
9月末の冬じたく……。
早いことはわかっている。実家には、80歳近い母親はひとりで住んでいる。今回、松本に用事があり、そのついでだった。
廊下に絨毯を敷き、居間にこたつをつくる。物置から石油ストーブをとり出し、各部屋に置いていく。そのひとつ、ひとつのカートリッジにポンプで石油を入れていく。
石油の匂いが鼻をつく。
それはいい匂いではないのだが、石油ストーブで育った人間には、ストーブの温かさを連想させ、冬がもうそこまできているような気になるものだ。
陽射しは優しく、常念の山並みが霞んでいる。水田の稲は色づき、畔にはコスモスが咲いている。まるで絵に描いたような安曇野の秋である。
冬じたくのためである。
日本の寒い地域で生まれ育ち、いま、タイに暮らす人は、「冬じたく」という言葉に、特別な感情を抱くのかもしれない。
9月末の冬じたく……。
早いことはわかっている。実家には、80歳近い母親はひとりで住んでいる。今回、松本に用事があり、そのついでだった。
廊下に絨毯を敷き、居間にこたつをつくる。物置から石油ストーブをとり出し、各部屋に置いていく。そのひとつ、ひとつのカートリッジにポンプで石油を入れていく。
石油の匂いが鼻をつく。
それはいい匂いではないのだが、石油ストーブで育った人間には、ストーブの温かさを連想させ、冬がもうそこまできているような気になるものだ。
陽射しは優しく、常念の山並みが霞んでいる。水田の稲は色づき、畔にはコスモスが咲いている。まるで絵に描いたような安曇野の秋である。
Posted by 下川裕治 at
13:39
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2009年09月21日
アジアのエネルギーのかけらもない
バンコクから戻ると、日本はすっかり秋になっていた。成田空港に降りたとき、ひんやりとした空気に、足早に夏が終わったことを教えられた。そしていま、シルバーウイークと呼ばれる大型連休のただなかである。
仕事柄というか、安い航空券しか手が出ないという性格なのか、世間が休みになるときは家に籠もっていることが多い。夏休みになる8月は、だいたい日本にいる。今回の連休も、原稿用紙に向かっている。
よく周りから、「1年の半分以上は外国ですか」といわれるが、そんなことはない。海外を舞台にした原稿を書くことが多いからそう思われるのだろう。実際は多くて3分の1といったペースだ。
旅先で原稿を書くことはあるが、1冊の本となると、そうはいかない。日本での暮らしは、どちらかというと部屋に籠もることが多くなる。「静」が日本で、「動」がアジアということだろうか。
連休の東京は静かだ。
アジアのエネルギーのかけらもない。
仕事柄というか、安い航空券しか手が出ないという性格なのか、世間が休みになるときは家に籠もっていることが多い。夏休みになる8月は、だいたい日本にいる。今回の連休も、原稿用紙に向かっている。
よく周りから、「1年の半分以上は外国ですか」といわれるが、そんなことはない。海外を舞台にした原稿を書くことが多いからそう思われるのだろう。実際は多くて3分の1といったペースだ。
旅先で原稿を書くことはあるが、1冊の本となると、そうはいかない。日本での暮らしは、どちらかというと部屋に籠もることが多くなる。「静」が日本で、「動」がアジアということだろうか。
連休の東京は静かだ。
アジアのエネルギーのかけらもない。
Posted by 下川裕治 at
15:07
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2009年09月14日
少数民族の二重構造
チェンダオに行ってきた。チェンマイから北に70キロほどの静かな町だった。
以前、この先のファンという町を何回か訪ねた。チェンライからファンまで舟に乗り、、そこからバスでチェンマイに出たこともあった。ミャンマー(ビルマ)に近い一帯で、さまざまな民族が暮らしていた。
昔、タイ政府が少数民族のタイ化を進めた一帯だった。小学校を建て、タイの国旗を立てる。そしてタイ人の教師を送り込む。年月が流れると、村人たちはプミポン国王の写真を手に記念撮影をする。これでタイ化のプロセスが終わった。
チェンダオ周辺には、そんな村が多い。しかし年月が流れ、少数民族と欧米人が近づいていく。タイ語が苦手な彼らは、英語のほうがうまくなっていくのだ。
それが少数民族の宿命のように思う。
チェンダオの町のなかにできたドイツ料理店で、フランス人と会う。奥さんはアカ族だった。少数民族の女性を奥さんにもつ欧米人がチェンダオには多いという。
タイ人より、欧米人。少数民族の感覚が少しわかる。支配する民族を人々は嫌う。それは歴史が証明している。
その二重構造をとり込み、標高2200メートルのチェンダオ山の麓の村は、観光地に変貌しつつある。
タイはしたたかである。
以前、この先のファンという町を何回か訪ねた。チェンライからファンまで舟に乗り、、そこからバスでチェンマイに出たこともあった。ミャンマー(ビルマ)に近い一帯で、さまざまな民族が暮らしていた。
昔、タイ政府が少数民族のタイ化を進めた一帯だった。小学校を建て、タイの国旗を立てる。そしてタイ人の教師を送り込む。年月が流れると、村人たちはプミポン国王の写真を手に記念撮影をする。これでタイ化のプロセスが終わった。
チェンダオ周辺には、そんな村が多い。しかし年月が流れ、少数民族と欧米人が近づいていく。タイ語が苦手な彼らは、英語のほうがうまくなっていくのだ。
それが少数民族の宿命のように思う。
チェンダオの町のなかにできたドイツ料理店で、フランス人と会う。奥さんはアカ族だった。少数民族の女性を奥さんにもつ欧米人がチェンダオには多いという。
タイ人より、欧米人。少数民族の感覚が少しわかる。支配する民族を人々は嫌う。それは歴史が証明している。
その二重構造をとり込み、標高2200メートルのチェンダオ山の麓の村は、観光地に変貌しつつある。
タイはしたたかである。
Posted by 下川裕治 at
14:45
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2009年09月09日
色褪せていくこと
一周忌のために狭山丘陵に向かった。
昨年の9月、知人が死んだ。
鬱だった。
彼の葬式の挨拶で、僕は泣いてしまった。はじめての経験だった。
「助けてあげることができなくてごめん」
オフィスで彼は僕の隣に座っていた。彼はさまざまなサインを発していた。
たとえば酒を飲まなくなる。どんどんやせていくこともあった。鬱の波に襲われている時期だった。しかし仕事相手は、そんなことを知らない。原稿を書くことができなくなった彼に代わって何回もパソコンに向かった。
しかし自ら命を絶ってしまったいま、彼の人生は風化していくばかりだ。彼がいなくても社会や仕事は普通にまわっていく。奥さんは一緒に住んでいた家から新居に移った。
「1年ってあっという間だよな」
それしか僕ら友達には話すことがない。
人間は皆、死んでしまえばちっぽけなものだと思う。あっという間に忘れられていく。
僕は50代の半ばになった。亡くなっていく知人が多い。
鬱、ガン……。
自分のなかで死というものが色褪せてきている。
秋晴れの気持ちのいい日曜日だった。
昨年の9月、知人が死んだ。
鬱だった。
彼の葬式の挨拶で、僕は泣いてしまった。はじめての経験だった。
「助けてあげることができなくてごめん」
オフィスで彼は僕の隣に座っていた。彼はさまざまなサインを発していた。
たとえば酒を飲まなくなる。どんどんやせていくこともあった。鬱の波に襲われている時期だった。しかし仕事相手は、そんなことを知らない。原稿を書くことができなくなった彼に代わって何回もパソコンに向かった。
しかし自ら命を絶ってしまったいま、彼の人生は風化していくばかりだ。彼がいなくても社会や仕事は普通にまわっていく。奥さんは一緒に住んでいた家から新居に移った。
「1年ってあっという間だよな」
それしか僕ら友達には話すことがない。
人間は皆、死んでしまえばちっぽけなものだと思う。あっという間に忘れられていく。
僕は50代の半ばになった。亡くなっていく知人が多い。
鬱、ガン……。
自分のなかで死というものが色褪せてきている。
秋晴れの気持ちのいい日曜日だった。
Posted by 下川裕治 at
18:16
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2009年09月01日
カタツムリのような民族
ロヒンギャ族がタイにも流入している。ビルマ(ミャンマー)内でなにかが起きているらしい。
ロヒンギャというのは、ベンガル語でカタツムリの意味だと聞いたことがある。自分の家を背負って、ぞろぞろと移動していくというわけだ。
はじめて見たのは、バングラデシュだった。難民キャンプができたといって出かけてみたが、そこにいたのはロヒンギャだった。
「彼らを難民っていっていいんだろうか」
案内役のバングラデシュ青年が首を傾げた。もともとこの周辺をカタツムリのようにうろうろしていたわけで、いってみれば昔から流浪の民族だった。
次に見たのは、バングラデシュとビルマの国境だった。テフナフ川が境界になっているのだが、その川原に無数のテント村ができていた。
「半年前からここにきたんだ。ビルまで選挙があるからっていう噂だけど」
彼らはビルマ国籍はないと思うのだが、軍事政権は票を稼ぐために、ロヒンギャを使うのだという話だった。
今回もバングラデシュ側にも、多数のロヒンギャが流入している。街中で小屋をつくり、男たちは自転車リキシャを漕いで糊口をしのいでいる。
政治色はないが、ひたすら貧しいイスラム教徒である。
タイのバンコクにも、かなりのロヒンギャが入り込んでいるらしい。月給1000バーツで建設現場や掃除の仕事にありつく。
総人口は80万人ともいわれるが、ベースにするエリアも希薄で、実態はつかみにくい。その民族史も曖昧としている。
追いかけてみようか……。
それは雲をつかむような話なのだろうか。
ロヒンギャというのは、ベンガル語でカタツムリの意味だと聞いたことがある。自分の家を背負って、ぞろぞろと移動していくというわけだ。
はじめて見たのは、バングラデシュだった。難民キャンプができたといって出かけてみたが、そこにいたのはロヒンギャだった。
「彼らを難民っていっていいんだろうか」
案内役のバングラデシュ青年が首を傾げた。もともとこの周辺をカタツムリのようにうろうろしていたわけで、いってみれば昔から流浪の民族だった。
次に見たのは、バングラデシュとビルマの国境だった。テフナフ川が境界になっているのだが、その川原に無数のテント村ができていた。
「半年前からここにきたんだ。ビルまで選挙があるからっていう噂だけど」
彼らはビルマ国籍はないと思うのだが、軍事政権は票を稼ぐために、ロヒンギャを使うのだという話だった。
今回もバングラデシュ側にも、多数のロヒンギャが流入している。街中で小屋をつくり、男たちは自転車リキシャを漕いで糊口をしのいでいる。
政治色はないが、ひたすら貧しいイスラム教徒である。
タイのバンコクにも、かなりのロヒンギャが入り込んでいるらしい。月給1000バーツで建設現場や掃除の仕事にありつく。
総人口は80万人ともいわれるが、ベースにするエリアも希薄で、実態はつかみにくい。その民族史も曖昧としている。
追いかけてみようか……。
それは雲をつかむような話なのだろうか。
Posted by 下川裕治 at
12:02
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