2010年02月22日
ケータイ文化で海外旅行離れ?
ケータイ文化はここまできているのか。
大学生たちと話していて、改めて痛感してしまった。
「若者はなぜ、旅にでなくなったのか」
話のテーマだった。ある大学で、そのパネルディスカッションがあった。事前に、学生たちから話を聞くことになった。
一般に若者の海外旅行離れの要因には、金銭的な理由が挙がってくることが多い。しかしひとりの学生がこういった。
「海外ではケータイがつながらない。ローミングをするとすごく高いし」
「海外のほうが無線ランがつながることが多いから、ノートパソコンがあれば大丈夫なんじゃない?」
「ケータイじゃないと」
日本のケータイは独自の進化系のなかにある。日本のガラパゴス化の好例によく挙げられる。つまりは限りなくパソコン機能をもったケータイなのだ。
いまの日本人はケータイを頼りにして生きている。電話やメールだけではない。ミクシーもケータイ。ミクシーを通してゲームもする。電車に乗るときやコンビニで支払うときもケータイを器械にかざす人もいる。お財布ケータイというものだ。ケータイは日常生活に深くかかわっているのだ。ケータイ依存といっていいかもしれない。
日本のケータイが進んできたことは悪いことではない。しかしそれが、世界標準とは別の進化系のなかにいるとき、海外に出かけるのマイナス要因になってしまう。
海外で日本のケータイが使えないことが不安材料になってしまうのだ。
連絡がとれず、ミクシーを更新することができないことが不安なのではない。彼らの人間関係がケータイを通してできあがっているのだ。そこから離れることが不安なのだ。
最近観たアメリカのコメディに、
「フェイスブックをぶっつぶせ」
という台詞があった。SNS系サイトはある種の吸引力をもっているが、その空間は、ときに破壊したい衝動にも駆られる。それが人間というものだろう。しかしそれはパソコンが主流の世界だ。スイッチを入れなければ、その世界は広がらない。
だがケータイは違う。あまりに生活に密着してしまったのだ。日本の若者は、その隘路に陥っていると語れば、また多くの反発を受けるのだろうか。
大学生たちと話していて、改めて痛感してしまった。
「若者はなぜ、旅にでなくなったのか」
話のテーマだった。ある大学で、そのパネルディスカッションがあった。事前に、学生たちから話を聞くことになった。
一般に若者の海外旅行離れの要因には、金銭的な理由が挙がってくることが多い。しかしひとりの学生がこういった。
「海外ではケータイがつながらない。ローミングをするとすごく高いし」
「海外のほうが無線ランがつながることが多いから、ノートパソコンがあれば大丈夫なんじゃない?」
「ケータイじゃないと」
日本のケータイは独自の進化系のなかにある。日本のガラパゴス化の好例によく挙げられる。つまりは限りなくパソコン機能をもったケータイなのだ。
いまの日本人はケータイを頼りにして生きている。電話やメールだけではない。ミクシーもケータイ。ミクシーを通してゲームもする。電車に乗るときやコンビニで支払うときもケータイを器械にかざす人もいる。お財布ケータイというものだ。ケータイは日常生活に深くかかわっているのだ。ケータイ依存といっていいかもしれない。
日本のケータイが進んできたことは悪いことではない。しかしそれが、世界標準とは別の進化系のなかにいるとき、海外に出かけるのマイナス要因になってしまう。
海外で日本のケータイが使えないことが不安材料になってしまうのだ。
連絡がとれず、ミクシーを更新することができないことが不安なのではない。彼らの人間関係がケータイを通してできあがっているのだ。そこから離れることが不安なのだ。
最近観たアメリカのコメディに、
「フェイスブックをぶっつぶせ」
という台詞があった。SNS系サイトはある種の吸引力をもっているが、その空間は、ときに破壊したい衝動にも駆られる。それが人間というものだろう。しかしそれはパソコンが主流の世界だ。スイッチを入れなければ、その世界は広がらない。
だがケータイは違う。あまりに生活に密着してしまったのだ。日本の若者は、その隘路に陥っていると語れば、また多くの反発を受けるのだろうか。
Posted by 下川裕治 at
14:48
│Comments(0)
2010年02月15日
真冬のTシャツ
お願いだからセーターぐらい着てほしい……と思う朝がある。自宅から駅に向かう道の途中に小学校がある。その登校時間。こちらがもこもこと着込み、マフラーに手袋まではめているというのに、その前をTシャツ1枚の少年が、ランドセルを背負い、涼しい顔で歩いている。
お願いだから、半ズボンはやめてほしい……と朝の駅で呟くことがある。どこかの私立小学校に通う少年だろうか。真冬でも制服は半ズボンなのだ。
以前、娘が通う小学校で、1年中、Tシャツ1枚で通した少女がいた。思いあまって訊いたことがある。
「寒くないの?」
「ぜんぜん寒くない」
小学生の体は、大人とは違うのだろうか。
本人たちが寒くないと思っているのはいい。人のことなのだ。しかし氷点下にもなろうという冷気のなかで、露わになった腕や太ももを目にすると、こちらのほうが寒くなる。
先週の日曜日、ソウル郊外の水原という街にいた。ここには水原華城という世界遺産がある。ソウルに戻ろうと、水原駅で列車を待っていると、ホームのベンチにTシャツ1枚の欧米人が座っていた。天気はよかったが、真冬の韓国である。しばらく前に降った雪が溶けない気温なのだ。
「どういう奴っちゃ」
子どもの体質のまま、大人になってしまったのだろうか。
体で感じる寒さは、湿度も影響するという話を聞いたことがある。湿度が低いほうが寒さを感じないのだという。
たとえばロサンゼルス。やや寒い時期になると、セーターを着込む人もいれば、それまでのTシャツ1枚ですごしてしまう人がいる。湿度が低いため、Tシャツでもなんとなくすんでしまうのだ。ところが寒い時期の上海やハノイは、どこか身の置き場がないような寒さに包まれる。さして気温は低くないというのに、寒さが応えるのだ。きっと湿度が高いのだろう。
冬の東京や韓国は乾いている。だからTシャツ1枚でも大丈夫? いや、そういうことではないと思うのだが……。
お願いだから、半ズボンはやめてほしい……と朝の駅で呟くことがある。どこかの私立小学校に通う少年だろうか。真冬でも制服は半ズボンなのだ。
以前、娘が通う小学校で、1年中、Tシャツ1枚で通した少女がいた。思いあまって訊いたことがある。
「寒くないの?」
「ぜんぜん寒くない」
小学生の体は、大人とは違うのだろうか。
本人たちが寒くないと思っているのはいい。人のことなのだ。しかし氷点下にもなろうという冷気のなかで、露わになった腕や太ももを目にすると、こちらのほうが寒くなる。
先週の日曜日、ソウル郊外の水原という街にいた。ここには水原華城という世界遺産がある。ソウルに戻ろうと、水原駅で列車を待っていると、ホームのベンチにTシャツ1枚の欧米人が座っていた。天気はよかったが、真冬の韓国である。しばらく前に降った雪が溶けない気温なのだ。
「どういう奴っちゃ」
子どもの体質のまま、大人になってしまったのだろうか。
体で感じる寒さは、湿度も影響するという話を聞いたことがある。湿度が低いほうが寒さを感じないのだという。
たとえばロサンゼルス。やや寒い時期になると、セーターを着込む人もいれば、それまでのTシャツ1枚ですごしてしまう人がいる。湿度が低いため、Tシャツでもなんとなくすんでしまうのだ。ところが寒い時期の上海やハノイは、どこか身の置き場がないような寒さに包まれる。さして気温は低くないというのに、寒さが応えるのだ。きっと湿度が高いのだろう。
冬の東京や韓国は乾いている。だからTシャツ1枚でも大丈夫? いや、そういうことではないと思うのだが……。
Posted by 下川裕治 at
14:47
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2010年02月08日
テキサスバーガーの乾いた味
テキサスバーガーを食べたいと思った。日本のマクドナルドが、期間限定で発売した。その広告を電車のなかで見たとき、あのずっしりと胃に応えるハンバーガーが懐かしかった。
もう20年以上前である。僕は『12万円で世界を歩く』という貧乏旅行の連載で、アメリカを一周した。乗り物はグレイハウンドバスのみという貧しい旅だった。
ヒューストンを出発したバスは、深南部の街をつなぎながらニューオリンズをめざしていた。途中で停まった小さなバスディーポだった。そこで僕はテキサスバーガーに出合った。当時の記録を見ると、コーヒーとテキサスバーガーで2・8ドルとある。安さに惹かれて頼んだのだと思う。
とにかくでかかった。パンは自分の顔より大きい。そのなかに乾いた味のハンバーガーが挟んである。ただそれだけだった。
食べても、食べても、手にはテキサスバーガーが収まっていた。アメリカ人のなにがすごいかといって、同じ味の食べ物を延々と食べ続けることができることだと、改めてそのときに思ったものだった。店にいたのは、太った黒人ばかりだった。テキサスバーガーには、南部の貧困の味がした。
期待などしていなかった。日本のマクドナルドである。どうせ味は日本人向けにアレンジされているのに違いなかった。しかしテキサスバーガーという以上……。
1個420円もした。チーズやベーコンも挟まれた盛りだくさんハンバーガーである。食べながら、「おやッ」と思った。ぱさつき感が、本物のテキサスバーガーにちょっと似ていた。野菜はフライドオニオンだけという組み合わせが、乾いた感じを醸しだしているのだろう。食べた後にやってくる胃のむかつき感も、本家にちょっと似ていた。
このテキサスバーガーが売れに売れたのだという。マクドナルドは、1日の売り上げが28億円を超える新記録を樹立したと発表した。
日本人はどうなっているのだろうか。草食系とかロハスなどとは逆行する食べ物である。アメリカ南部の貧しい味なのだ。ただ腹がいっぱいになるだけという代物である。
たしかに日本の景気は悪いが、それとは無縁の現象のように見える。やけ食いというわけでもなかろうに。日本人も日本のハンバーガーに飽きたということか。
もう20年以上前である。僕は『12万円で世界を歩く』という貧乏旅行の連載で、アメリカを一周した。乗り物はグレイハウンドバスのみという貧しい旅だった。
ヒューストンを出発したバスは、深南部の街をつなぎながらニューオリンズをめざしていた。途中で停まった小さなバスディーポだった。そこで僕はテキサスバーガーに出合った。当時の記録を見ると、コーヒーとテキサスバーガーで2・8ドルとある。安さに惹かれて頼んだのだと思う。
とにかくでかかった。パンは自分の顔より大きい。そのなかに乾いた味のハンバーガーが挟んである。ただそれだけだった。
食べても、食べても、手にはテキサスバーガーが収まっていた。アメリカ人のなにがすごいかといって、同じ味の食べ物を延々と食べ続けることができることだと、改めてそのときに思ったものだった。店にいたのは、太った黒人ばかりだった。テキサスバーガーには、南部の貧困の味がした。
期待などしていなかった。日本のマクドナルドである。どうせ味は日本人向けにアレンジされているのに違いなかった。しかしテキサスバーガーという以上……。
1個420円もした。チーズやベーコンも挟まれた盛りだくさんハンバーガーである。食べながら、「おやッ」と思った。ぱさつき感が、本物のテキサスバーガーにちょっと似ていた。野菜はフライドオニオンだけという組み合わせが、乾いた感じを醸しだしているのだろう。食べた後にやってくる胃のむかつき感も、本家にちょっと似ていた。
このテキサスバーガーが売れに売れたのだという。マクドナルドは、1日の売り上げが28億円を超える新記録を樹立したと発表した。
日本人はどうなっているのだろうか。草食系とかロハスなどとは逆行する食べ物である。アメリカ南部の貧しい味なのだ。ただ腹がいっぱいになるだけという代物である。
たしかに日本の景気は悪いが、それとは無縁の現象のように見える。やけ食いというわけでもなかろうに。日本人も日本のハンバーガーに飽きたということか。
Posted by 下川裕治 at
17:26
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2010年02月03日
もう明洞へ行くのはやめよう
日曜日の夜だったからなのかもしれない。一軒のタッカルビの店。小さな店ではなかったが、気がつくと、周りにいるのは日本人だけだった。
まるで日本にいる気分だった。
明洞──。ソウルの中心街である。
3日前にタイから東京に戻った。自宅に2泊し、韓国のソウルに向かった。各駅停車に乗る旅の取材だった。
釜山駅を夕方に出発した列車に乗り、倭館という小さな駅で降りた。気まぐれ旅だった。駅前の旅館に荷物を置き、夕飯を食べに出た。
韓国の田舎町では食事に困る。韓国の人々は、顔立ちや発想が怖いほど日本に似ているというのに言葉が通じない。メニューにはハングル文字だけが並び、とりつくしまもない。英語や日本語を口にしても、頼りない笑みが返ってくるばかりだ。もちろん漢字の筆談にも頼れない。
結局、あてずっぽうにメニューを指差すことが多い。それでもはずさないのが韓国料理なのだが、いったいなんという料理を食べたのかもわからない。
そんな田舎を経てソウルに入った。ソウルのなかでも明洞だけが違う。ここだけがみごとなほど日本語が通じる。店のメニューには日本語が躍る。一辺が500メートルほどの土地に、日本語が通じる店が詰まっている。
昨年、280万人の日本人が韓国を訪ねた。国単位でみると中国が300万人強。韓国は2番目である。しかし中国は広く、北京、上海、大連……と訪れる日本人は散らばる。しかし韓国は、大多数の観光客がソウルに集まっている。そしてその多くが言葉に困り、食事どきになると明洞に集まってくる。
その日本人密度には言葉を失う。一瞬、ここは日本ではと思うことすらある。
タイを訪れた日本人は、昨年、84万人ほどだった。その多くがバンコクのスクンビットやシーロム界隈に集まってくる。その一帯に足を踏み入れると日本人が多さに驚くが、明洞はその比ではない。タイの3倍を超える日本人が、はるかに狭い一帯に集まってくるのだ。そして明洞を一歩離れると、突然、ハングル一色の世界に放り込まれる。
日本租界……。
明洞でタッカルビを口に運びながら、そんなことを考えていた。もう明洞で食事をするのはやめよう。僕のような人間は、そうするべきだと呟いていた。
まるで日本にいる気分だった。
明洞──。ソウルの中心街である。
3日前にタイから東京に戻った。自宅に2泊し、韓国のソウルに向かった。各駅停車に乗る旅の取材だった。
釜山駅を夕方に出発した列車に乗り、倭館という小さな駅で降りた。気まぐれ旅だった。駅前の旅館に荷物を置き、夕飯を食べに出た。
韓国の田舎町では食事に困る。韓国の人々は、顔立ちや発想が怖いほど日本に似ているというのに言葉が通じない。メニューにはハングル文字だけが並び、とりつくしまもない。英語や日本語を口にしても、頼りない笑みが返ってくるばかりだ。もちろん漢字の筆談にも頼れない。
結局、あてずっぽうにメニューを指差すことが多い。それでもはずさないのが韓国料理なのだが、いったいなんという料理を食べたのかもわからない。
そんな田舎を経てソウルに入った。ソウルのなかでも明洞だけが違う。ここだけがみごとなほど日本語が通じる。店のメニューには日本語が躍る。一辺が500メートルほどの土地に、日本語が通じる店が詰まっている。
昨年、280万人の日本人が韓国を訪ねた。国単位でみると中国が300万人強。韓国は2番目である。しかし中国は広く、北京、上海、大連……と訪れる日本人は散らばる。しかし韓国は、大多数の観光客がソウルに集まっている。そしてその多くが言葉に困り、食事どきになると明洞に集まってくる。
その日本人密度には言葉を失う。一瞬、ここは日本ではと思うことすらある。
タイを訪れた日本人は、昨年、84万人ほどだった。その多くがバンコクのスクンビットやシーロム界隈に集まってくる。その一帯に足を踏み入れると日本人が多さに驚くが、明洞はその比ではない。タイの3倍を超える日本人が、はるかに狭い一帯に集まってくるのだ。そして明洞を一歩離れると、突然、ハングル一色の世界に放り込まれる。
日本租界……。
明洞でタッカルビを口に運びながら、そんなことを考えていた。もう明洞で食事をするのはやめよう。僕のような人間は、そうするべきだと呟いていた。
Posted by 下川裕治 at
15:06
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