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ナムジャイブログ

2010年03月29日

乞食をやってもチェンマイにいる

 タイのチェンマイに暮らすひとりの老人が入院した。2月の下旬のことだ。歯が痛いと病院にいったところ、腎臓透析が必要なところまで機能低下していることがわかってしまったのだ。その数日、食べたものをほとんど吐いてしまっていたらしい。腎臓が悪い証拠である。体力の低下が、まず歯にきたということか。
 年齢は70歳を超えている。新里愛蔵さんという。一昨年、僕は彼の本を書いた。それ以来の付き合いが続いている。沖縄出身の彼は、長く東京の中野で飲み屋をやっていた。チェンマイが気に入り、移住して9年になる。
 チェンマイラム病院に見舞いに出かけた。2回目の透析が終わった後だった。容態は落ち着いていた。
「愛蔵さん、とにかく食べないと……」
 一緒に病院にいったタイ人と、冷蔵庫にあったツバメの巣からつくった栄養ゼリーを口に流し込む。
「これからどうしようか」
 病室で愛蔵さんに問いかける。チェンマイラム病院は、チェンマイでも最も高い病院で、1回の透析が3500バーツもする。それを週に2回続けなければならない。それが一生続くのだ。
 愛蔵さんはようやく年金がもらえるようになった。その矢先の腎臓透析だった。透析代を払うと、月7万円にも満たない年金はほとんどが消えてしまう。「もっと安い病院がある」とタイ人はいうが、それでも2000バーツほどらしい。
「そろそろ潮時?」
 喉まで出る言葉を飲み込む。
 翌日も見舞いに出かけた。彼の知り合いの日本人が病室にいた。彼も帰国を勧めていた。
「乞食をやってもチェンマイにいる」
 小声だが、しっかりした声が聞こえた。
「乞食………」
 その言葉を日本にもち帰った。彼を助けてきた知人が集まった。たまたま東京に用事があって上京した愛蔵さんの妹さんも加わった。
 このままいれば、2年ぐらいで資金が尽きることはわかっていた。しかしいったん日本に戻り、手続きをすれば、健康保険で還付という方法の可能性もある。
「どっちを伝えたらいいんだろうね」
「還付の手続きは愛蔵さんひとりじゃできないでしょ。黙っていれば、沖縄に帰って平和な老後じゃない?」
 愛蔵さんには沖縄に親戚がいて、面倒をみてくれる。年金もある。
「でもね、愛蔵さん、帰らないんじゃない。それが愛蔵さんが選んだ人生なんだから」
「乞食だしね……」
 自分で考え、その通りに愛蔵さんは実行してきた。だが老いていくということは、思うような人生を歩めないということだ。程度の差こそあれ、世話になって生きなくてはならない。そして、自分ではなく、周りの人が人生を決めていく。
 僕は愛蔵さんになんて伝えたらいいのだろうか。
 いまでも迷っている。
  

Posted by 下川裕治 at 19:54Comments(2)

2010年03月22日

手塚里美の家庭教師だった

 10日間ほど日本にいる。最近、海外の鈍行列車に乗る取材が進んでいて、日本を離れる日数が増えている。
 日本に帰ると、山のような仕事と耳に届く膨大な情報にうちひしがれそうになる。厳しい話が多いからだろうか。
 大学生の生活費が3割も減っているそうだ。日本学生支援機構が2年に1回行っている調査だ。2008年、学生の食費、住居・光熱費、娯楽費の合計は、平均で年に67万6300円。2000年と比べると27・8%減っている。とくに食費の減少が激しい。1990年から2000年にかけては、24万円平均だったものが、17万6600円にまで落ち込んでいる。
 日本は恒常的なデフレ基調のなかにいる。とくに外食産業はその典型でもある。しかし大学生の食費の減少はデフレだけで説明できる割合ではない。
 このニュースが目に入った理由がある。
 しばらく前、大学生たちのアルバイト収入が減ってきているという話を聞いたばかりだったのだ。原因は家庭教師の減少である。塾が家庭教師というアルバイトを根こそぎ奪ってしまっているのだという。
 僕の大学生活は、家庭教師とインスタントラーメンで支えられていた。1年浪人して大学に入った。大学に入ったら勉強などする必要もないと思っていた僕は2年に進級することができなかった。激しい口論があったわけではないが、僕は親からの仕送りを断った。自分なりの反省もあった。
 それからは家庭教師の日々だった。大学の紹介、家庭教師センターからの斡旋、アルバイトニュース、知人からの紹介……。多いときで3軒の家庭教師と塾の教師をかけもちした。そのなかには、当時、すでにユニチカのマスコットガールだった手塚里美もいた。彼女の高校受験につきあった。
 月収は12万円を超えていた。当時の物価からすれば十分に暮らすことができた。その金で年に1、2回はアジアに向かった。その後、僕は卒業してある新聞社に就職したが、月に受けとる手どり額は、学生時代の月収を下まわっていた。僕は会社には内緒で家庭教師を続けた。1軒だけだったが、週に2回、「取材」と嘘をついて大学の受験生の家に向かった。ひどい新聞記者だった。
 時給が2000円近かった家庭教師の分野に、僕より少し年齢が上の団塊の世代が目をつけていた。学生運動に与した一部の先輩は就職を拒否したが、生きていかなくてはならない。そこで家庭教師を組織化し、塾の経営に走った。そのうち何社かは急成長していく。いまの塾は個人指導も多い。学生が個人で受ける家庭教師は激減していく。塾の教師も専門職化し、素人の学生には声がかからなくなった。
 いまの学生には居酒屋やファストフードのアルバイトしかないらしい。不況のなかでは時給も下がる一方だ。先日、東京の調布駅前のコンビニに貼ってある求人ポスターを目にした。
 時給820円──。
 学生がふらふらとアジアを歩くことができるほど、いまの日本は甘くない。
  

Posted by 下川裕治 at 14:35Comments(0)

2010年03月15日

中国の客引きおばちゃんは使える

 いつも週末には原稿をアップするようにしているのだが、1週間近くも遅れてしまった。
 理由がある。
 ずっと中国で各駅停車の列車に乗っていたのだ。北京から上海まで。長い道のりだった。この話はやがて本になるので、そちらで読んでほしい。
 ようやく上海に着いた。
 中国の旅のスタイルもが、ずいぶん変わってきた。ホテルはそのいい例だろうか。
 今回はまず上海に来て、そこから北京に向かった。
 いつも上海の空港に着くと、ロビーにカウンターを出す旅行会社のスタッフにホテルを探してもらっていた。300元前後、日本円で4000円ほどのホテルというと、400元前後のホテルを紹介してくる一筋縄ではいかない上海人だった。
 ところが今回、空港に降りると、彼らがいない。困って近くのカウンターにいた女性に訊くと、インターネットの予約サイトのスタッフだった。しかしそこにはコンピュータはなく、自分の会社に電話をかけ、そのやりとりでホテルが決まった。市街地のホテルで220元。プロモーション価格だという。3000円弱である。上海のホテル探しもネット時代になったのだろうか。
 各駅停車の旅でもホテル事情の変化を実感した。中国の大きめの駅には、かなりの数の客引きがいる。おばさんが多い。しかし彼女らが扱うのは中国人向けの宿。外国人は泊まることができないことが多い。いつも無視していたのだが、最近、ルールが変わり、どの宿でも泊まることができるようになったのだという。つまり「住宿」と書かれた1泊20元、30元という中国人向けの宿に泊まることができるようになったのだ。1泊500円もかからない。
 しかし中国では、この種のルール変更が行き渡るのが遅い。実際、30元クラスはなかなか泊めてくれないというが、少しランクを上げれば泊まることができるわけだ。
 何回も客引きおばちゃんの世話になった。彼女らを通すと、300元ほどの宿が半額近くになる。交渉は筆談でいい。
 中国の旅はだいぶ安くあがるようになりつつある。
  

Posted by 下川裕治 at 12:34Comments(1)

2010年03月03日

タイ化したゴキブリ?

 最近、バンコクで泊まっている宿はゴキブリで有名らしい。
 長く使っていたソイ・アーリーのホテルが閉鎖になった。その宿から紹介されたサパンクワイのホテルである。欧米人や日本人はめったに見かけないタイ人向けホテルだ。
 地方の人々がバンコクに出張したときに使うことが多いらしい。先日、チェンマイの知人にホテルの名前を告げると、
「ああ、あそこね」
 という言葉が返ってきた。そしてこういったのだった。
「あそこ、ゴキブリが多くない?」
 気づいていた。しかしそのゴキブリというのが、小さなチャバネ系で、床や洗面所の堂々と姿を現し、途中でうずくまったりする。いとも簡単に叩くことができるのだ。知人も同じ体験を共有していた。
「大人になる前に皆、殺されちゃうから、人間を警戒する遺伝子ができないんじゃない?」
 親が卵を産むわけだからそんなことはないと思うが、このホテルのゴキブリは、なんとも甘いのである。
 タイには大きなクロゴキブリ系もいる。ときどき夜の歩道でみかける。以前、タイ人の家に下宿をさせてもらったことがあった。夜中、目を覚ますと、アリに食われてじくじくとする踝にクロゴキブリがへばりついていて、慌てて手で払ったことがあった。あのときほど、タイのゴキブリを不快に思ったことはなかった。
 彼らは部屋の隅や物陰をに身を隠し、「ささささ」と移動する。路上で見るゴキブリといい、タイのクロゴキブリからは、たくましさや狡猾さすら感じていた。
 しかしこのホテルのゴキブリは、じつにトロい。こんなことで、厳しい社会を生き延びていけるのか不安になるほど、おっとりしている。
 ひょっとしたら、タイのチャバネ系のゴキブリの性格なのかもしれない。すごい多産系で、人間が殺す数を上まわる卵を産んで生き延びている気もする。そうでなければ、とっくの昔に、タイから姿を消してしまっている気がするのだ。
 日本でもチャバネゴキブリは、平気で人前にでてくることがある。
 かつて新聞社に勤めていたときもそうだった。そのビルは相当に古く、ゴキブリの巣窟のようだった。当時はパソコンもなく、原稿用紙に記事を書いていた。深夜、会社のデスクで、原稿用紙に向かっていると、その上を茶色のチャバネゴキブリが、平気な顔で横切ることがあった。
 タイのホテルで見かかるゴキブリよりかなり大型だった。はじめは驚いたが、何回となくその経験を積むと、追い払うのも面倒になってくる。原稿書きに疲れてくると、「もうどうにでもなれ」といった心境だった。
 しかし日本のチャバネゴキブリは、バンコクのホテルのゴキブリよりはすばしっこい。原稿用紙やデスクの上を、かなりの速さで動く。やはり警戒心があるような気がする。タイのホテルのゴキブリのように、途中で停まったりはしないのだ。
 床の上でぴたりと停まるゴキブリを靴やサンダルで叩いた後、なにか悪いことをしたような気にもなる。
 そこにはタイ人とのつきあいを重ね合わせてしまっている僕がいる。

  

Posted by 下川裕治 at 15:35Comments(3)