2010年05月25日
外出禁止令が似合わない街
その日の午後、夜8時から外出禁止令が発令されることを知った。タクシーのなかだった。夕方5時に人と会う約束があった。BTSも地下鉄も停まっているから、タクシーに乗るしか方法はない。
5月19日のことである。
バンコクで起きた赤シャツ派の中心街占拠が終わろうとしていた。その後、不満分子の過激な行動は予想できることで、一気に終結させようとするなら、外出禁止令しかないだろうと思った。
しかしそれを聞いたタイ人や日本人が浮き足だった。とにかく外出禁止令など、経験がない人がほとんどだった。どのくらいの厳しさで徹底されるのか、予測もつかなかった。
ある日本人は、仕事を途中で止めて家に帰ると連絡してきた。
「だって外出禁止令でしょ」
「そうだけど……」
待ち合わせるタイ人から連絡が入った。バイクで向かっているが、渋滞で時間がかかっているらしい。
僕は夕方5時頃、約束の場所に着いてしまった。ソイの入り口で待ち合わせ、どこかの喫茶店で話をしようということになっていた。しかし店は次々に閉まってしまう。暑い路上で知人を待つしかなかった。
帰宅を急ぐタイ人がバス停に急ぐ。バスの本数も減っているから、人々の顔つきも不安げだ。8時前に家に着けるのだろうか……。
知人は6時すぎにやっと辿り着いた。店も閉まっているので、銀行前の石段に座って話を聞いた。そこを離れたのは7時少し前だった。タクシーが拾えそうなところまで、彼のバイクで送ってもらうことにした。
後部座席から街を眺める。
「本当に外出禁止令になるのだろうか」
路上に兵士や戦車が見えない。
これまで何回か経験した外出禁止令を思い出す。エチオピア、スーダン、パキスタン、アフガニスタン……。路上を走る戦車や装甲車が黒く光る。街角に立つ重装備の兵士……。ホテルの窓越しに見る街には、人の気配がない。外出禁止のなかで外にでることは、命を落としてもしかたないという暗黙の了解と緊張が路上を走るものだ。しかしバンコクの人々の顔に、その緊張がない。
だいたい治安の悪い街では、人々は日が落ちると家の外にはでない。そういう街でなければ、外出禁止は徹底しない。
やはりバンコクでは無理な話なおだろう。もともとそれほど治安が悪いわけではない。人々の暮らしは、外出禁止令などと無縁なところでセッティングされている。それにバンコクという街は大きすぎる。どれだけの兵士と警察を市内に展開できるというのだろうか。
外出禁止になる8時頃に宿があるサパンクワイに着いた。屋台はまだ営業していている。そろそろ片づける気配だったから、外出禁止を知らないわけではない。
その夜、タイ人から電話がかかってきた。
「外に出ても職務質問されるぐらいでしょ」
「いや、そうかなぁ」
外出禁止令への過剰反応と過小評価がバンコクに渦巻く。
翌朝、僕は外出禁止が解けない朝の5時に空港に向かった。市場はもう煌々とした電灯に照らされ、店開きしていた。そこエリアを区切れば、外出禁止とは無縁にも映る。
あまりにタイらしい外出禁止ということか。
政府は、治安の正常化への意識の高まりを期待してのことなのか。
しかし、バンコクには外出禁止は似合わない。そういう街なのだ。
(2010/5/25)
5月19日のことである。
バンコクで起きた赤シャツ派の中心街占拠が終わろうとしていた。その後、不満分子の過激な行動は予想できることで、一気に終結させようとするなら、外出禁止令しかないだろうと思った。
しかしそれを聞いたタイ人や日本人が浮き足だった。とにかく外出禁止令など、経験がない人がほとんどだった。どのくらいの厳しさで徹底されるのか、予測もつかなかった。
ある日本人は、仕事を途中で止めて家に帰ると連絡してきた。
「だって外出禁止令でしょ」
「そうだけど……」
待ち合わせるタイ人から連絡が入った。バイクで向かっているが、渋滞で時間がかかっているらしい。
僕は夕方5時頃、約束の場所に着いてしまった。ソイの入り口で待ち合わせ、どこかの喫茶店で話をしようということになっていた。しかし店は次々に閉まってしまう。暑い路上で知人を待つしかなかった。
帰宅を急ぐタイ人がバス停に急ぐ。バスの本数も減っているから、人々の顔つきも不安げだ。8時前に家に着けるのだろうか……。
知人は6時すぎにやっと辿り着いた。店も閉まっているので、銀行前の石段に座って話を聞いた。そこを離れたのは7時少し前だった。タクシーが拾えそうなところまで、彼のバイクで送ってもらうことにした。
後部座席から街を眺める。
「本当に外出禁止令になるのだろうか」
路上に兵士や戦車が見えない。
これまで何回か経験した外出禁止令を思い出す。エチオピア、スーダン、パキスタン、アフガニスタン……。路上を走る戦車や装甲車が黒く光る。街角に立つ重装備の兵士……。ホテルの窓越しに見る街には、人の気配がない。外出禁止のなかで外にでることは、命を落としてもしかたないという暗黙の了解と緊張が路上を走るものだ。しかしバンコクの人々の顔に、その緊張がない。
だいたい治安の悪い街では、人々は日が落ちると家の外にはでない。そういう街でなければ、外出禁止は徹底しない。
やはりバンコクでは無理な話なおだろう。もともとそれほど治安が悪いわけではない。人々の暮らしは、外出禁止令などと無縁なところでセッティングされている。それにバンコクという街は大きすぎる。どれだけの兵士と警察を市内に展開できるというのだろうか。
外出禁止になる8時頃に宿があるサパンクワイに着いた。屋台はまだ営業していている。そろそろ片づける気配だったから、外出禁止を知らないわけではない。
その夜、タイ人から電話がかかってきた。
「外に出ても職務質問されるぐらいでしょ」
「いや、そうかなぁ」
外出禁止令への過剰反応と過小評価がバンコクに渦巻く。
翌朝、僕は外出禁止が解けない朝の5時に空港に向かった。市場はもう煌々とした電灯に照らされ、店開きしていた。そこエリアを区切れば、外出禁止とは無縁にも映る。
あまりにタイらしい外出禁止ということか。
政府は、治安の正常化への意識の高まりを期待してのことなのか。
しかし、バンコクには外出禁止は似合わない。そういう街なのだ。
(2010/5/25)
Posted by 下川裕治 at
20:38
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2010年05月17日
タイは愛されている
ここ一両日、頻繁に電話がかかってくる。
「タイはどうしちゃったんですか」
そんな言葉が耳に痛い。
日本での報道から想像するバンコクは市街戦の様相である。市内全域で銃声が鳴り響いているように考えている人もいる。
そう思ってしまうのも無理はない。かつて報道の現場に立っていた経験からいうと、記者というものは、騒乱の現場を切りとる。それが仕事なのだ。しかしそこから500メートル離れた食堂では、人々が世間話を交わしながら、カーオマンガイを食べていることは報じられない。記事にならないのだ。そこから日本人は、バンコク中の店がシャッターを重く閉めてしまった光景を想像してしまう。
バンコクは懐が深い街だ。これまで、対立する組織の衝突や、軍や警察が出ての鎮圧は、王宮前広場から民主記念塔、そしてその先の政府関係の建物周辺と決まっていた。これまでも3桁の死者が出た衝突は何回かあるが、どれもその周辺だった。ところが3年前、スアルアンこと黄シャツ派がスワンナプーム空港を占拠した。バンコクの衝突エリアから外に出たのだ。今回のスアデーン、つまり赤シャツ派の中心部占拠引のシナリオは、そのときにできたという気もする。しかし今回、赤シャツ派は、引き際を誤った気がしないでもない。
しかし、僕に電話をかけてくる知人のニュアンスは違っていた。彼らが抱くバンコクのイメージと市街戦がどうしても結びつかないのだ。そして大好きなバンコクという街がどうなるのか、心配でしかたないのだ。
バンコクはなんて幸せな街なんだろう……と思う。街の今後を心配してくれる人が、日本に何人もいるのだ。
たとえば激しい市街戦が起きたとき、「きれいな街並みが破壊された」という表現がある。そのひどさを、僕はカブールで見た。しかしバンコクはそんなにきれいな街並みではないから、それを心配する人はいないだろう。
バンコク好きの日本人が戻ってほしいのは、日本で重くなった心をふっと軽くしてくれるようないい加減で猥雑な街なのだ。女好きの男なら、カラオケクラブの女の太ももにときを忘れたいのかもしれない。路地裏好きなら、屋台に座ってまったりとビールを飲みたいのだろう。
占拠している赤シャツ派のなかにも、対峙する兵士のなかにも、そんなタイは生きているはずなのに、映像から伝わってくる空気は張り詰めていて、どこか遠い国のできごとのようにも映るのだ。
今日はタイフードフェスティバルだった。天気もよかったから、きっと多くのタイ好きが集まったのに違いない。僕は仕事に追われ、一日中パソコンに向かっていた。キーボードを叩く手を少し休め、あの会場の熱気に思いを馳せる。タイという国は、日本にこんなにファンをつくってしまった。日本人にとってのバンコクがなかなか戻ってこない。
(2010/5/16)
「タイはどうしちゃったんですか」
そんな言葉が耳に痛い。
日本での報道から想像するバンコクは市街戦の様相である。市内全域で銃声が鳴り響いているように考えている人もいる。
そう思ってしまうのも無理はない。かつて報道の現場に立っていた経験からいうと、記者というものは、騒乱の現場を切りとる。それが仕事なのだ。しかしそこから500メートル離れた食堂では、人々が世間話を交わしながら、カーオマンガイを食べていることは報じられない。記事にならないのだ。そこから日本人は、バンコク中の店がシャッターを重く閉めてしまった光景を想像してしまう。
バンコクは懐が深い街だ。これまで、対立する組織の衝突や、軍や警察が出ての鎮圧は、王宮前広場から民主記念塔、そしてその先の政府関係の建物周辺と決まっていた。これまでも3桁の死者が出た衝突は何回かあるが、どれもその周辺だった。ところが3年前、スアルアンこと黄シャツ派がスワンナプーム空港を占拠した。バンコクの衝突エリアから外に出たのだ。今回のスアデーン、つまり赤シャツ派の中心部占拠引のシナリオは、そのときにできたという気もする。しかし今回、赤シャツ派は、引き際を誤った気がしないでもない。
しかし、僕に電話をかけてくる知人のニュアンスは違っていた。彼らが抱くバンコクのイメージと市街戦がどうしても結びつかないのだ。そして大好きなバンコクという街がどうなるのか、心配でしかたないのだ。
バンコクはなんて幸せな街なんだろう……と思う。街の今後を心配してくれる人が、日本に何人もいるのだ。
たとえば激しい市街戦が起きたとき、「きれいな街並みが破壊された」という表現がある。そのひどさを、僕はカブールで見た。しかしバンコクはそんなにきれいな街並みではないから、それを心配する人はいないだろう。
バンコク好きの日本人が戻ってほしいのは、日本で重くなった心をふっと軽くしてくれるようないい加減で猥雑な街なのだ。女好きの男なら、カラオケクラブの女の太ももにときを忘れたいのかもしれない。路地裏好きなら、屋台に座ってまったりとビールを飲みたいのだろう。
占拠している赤シャツ派のなかにも、対峙する兵士のなかにも、そんなタイは生きているはずなのに、映像から伝わってくる空気は張り詰めていて、どこか遠い国のできごとのようにも映るのだ。
今日はタイフードフェスティバルだった。天気もよかったから、きっと多くのタイ好きが集まったのに違いない。僕は仕事に追われ、一日中パソコンに向かっていた。キーボードを叩く手を少し休め、あの会場の熱気に思いを馳せる。タイという国は、日本にこんなにファンをつくってしまった。日本人にとってのバンコクがなかなか戻ってこない。
(2010/5/16)
Posted by 下川裕治 at
13:07
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2010年05月11日
沖縄が嫌いになるとき
ときどき沖縄が嫌になることがある。
とくに役所とつきあうときだ。
先週、チェンマイに住む新里愛蔵さんと一緒に沖縄に向かった。愛蔵さんは脳梗塞の後遺症に加えて人工透析を週に2回受けないといけない体である。
チェンマイで透析を受けた翌日、飛行機に乗った。チェンマイから那覇に行くには、台北で1泊しなければならない。沖縄に着いた2日後には透析を受ける必要があった。
日本の人工透析は安い。特定疾病に指定されているため、月額1万円ですむ。
しかしそのためには、健康保険に加入していることが必要だった。そのためには、住民票をつくる必要があった。
愛蔵さんは日本人だから、なんの問題もないと思っていた。ところが名護市役所の住民票、健康保険がスムーズに進まなかった。問題は、今回の愛蔵さんの帰国が、一時帰国かどうかということだった。職員は規約をもちだしてきた。
「一時帰国の方は加入できないんです」
海外に暮らす人にしたら意外な話に聞こえるかもしれない。健康保険のほかにも、あわよくば子ども手当も……と、住民票を日本に置いておく駐在員やその家族は多い。赴任する国にもよるが、日本の住民票を抜いてもデメリットのほうが多いのだ。
しかし厳密には、海外に暮らすときは住民票を抜かなくてはならない。そして日本への一時帰国のときに、住民票や健康保険に加入することはできない。
そんなことはわかっている。
しかしこの規約に幅をもたせているのにはわけがある。一時帰国かどうか……という判断が難しいのだ。
今回の愛蔵さんにしても、日本の医師から、「治療に専念したほうが」といわれればチェンマイに戻ることは難しくなる。場合によっては帰国になってしまうのだ。
そのへんの含みを考慮してくれる役所が多い。しかし名護市役所は杓子定規に規約を口にするばかりだった。そして県に問い合わせるという。
しかし翌日には、愛蔵さんの透析が迫っている。そのとき、健康保険が効かなければ、多額の治療費を払わなくてはならない。人工透析は月額50万円にもなる高額治療なのだ。
こういったとき、沖縄の庶民社会はなーなーで通っていく。アバウトなのだ。しかし役所はその対極にあるかのような対応をする。
那覇空港の税関の検査も厳しい。成田ではさして問題にならないことも、丹念に調べる。おそらく那覇空港は、日本でいちばん密輸が難しい空港にも思えるのだ。
この差にいつも戸惑うのだ。
それが沖縄という島の弱さなのかもしれない。
(2010/5/11)
とくに役所とつきあうときだ。
先週、チェンマイに住む新里愛蔵さんと一緒に沖縄に向かった。愛蔵さんは脳梗塞の後遺症に加えて人工透析を週に2回受けないといけない体である。
チェンマイで透析を受けた翌日、飛行機に乗った。チェンマイから那覇に行くには、台北で1泊しなければならない。沖縄に着いた2日後には透析を受ける必要があった。
日本の人工透析は安い。特定疾病に指定されているため、月額1万円ですむ。
しかしそのためには、健康保険に加入していることが必要だった。そのためには、住民票をつくる必要があった。
愛蔵さんは日本人だから、なんの問題もないと思っていた。ところが名護市役所の住民票、健康保険がスムーズに進まなかった。問題は、今回の愛蔵さんの帰国が、一時帰国かどうかということだった。職員は規約をもちだしてきた。
「一時帰国の方は加入できないんです」
海外に暮らす人にしたら意外な話に聞こえるかもしれない。健康保険のほかにも、あわよくば子ども手当も……と、住民票を日本に置いておく駐在員やその家族は多い。赴任する国にもよるが、日本の住民票を抜いてもデメリットのほうが多いのだ。
しかし厳密には、海外に暮らすときは住民票を抜かなくてはならない。そして日本への一時帰国のときに、住民票や健康保険に加入することはできない。
そんなことはわかっている。
しかしこの規約に幅をもたせているのにはわけがある。一時帰国かどうか……という判断が難しいのだ。
今回の愛蔵さんにしても、日本の医師から、「治療に専念したほうが」といわれればチェンマイに戻ることは難しくなる。場合によっては帰国になってしまうのだ。
そのへんの含みを考慮してくれる役所が多い。しかし名護市役所は杓子定規に規約を口にするばかりだった。そして県に問い合わせるという。
しかし翌日には、愛蔵さんの透析が迫っている。そのとき、健康保険が効かなければ、多額の治療費を払わなくてはならない。人工透析は月額50万円にもなる高額治療なのだ。
こういったとき、沖縄の庶民社会はなーなーで通っていく。アバウトなのだ。しかし役所はその対極にあるかのような対応をする。
那覇空港の税関の検査も厳しい。成田ではさして問題にならないことも、丹念に調べる。おそらく那覇空港は、日本でいちばん密輸が難しい空港にも思えるのだ。
この差にいつも戸惑うのだ。
それが沖縄という島の弱さなのかもしれない。
(2010/5/11)
Posted by 下川裕治 at
16:30
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2010年05月03日
シンガポールという隘路
考えてみれば、この街にやってきたのはもう20回を超えるかもしれない。いや30回を数えるかもしれない。しかし1泊以上滞在したことは、そう2~3回しかない。いつも1泊。ひどいときは数時間……。
シンガポールにいる。
昨夜、マレーシアのグマスという街から列車に乗って、ジョホール海峡を越えた。そして街中に1泊。今日、バンコクに向かう。
シンガポールはいい街だ。朝、宿のまわりを歩きながら呟く。気温と湿度は高いが、空気のなかに木々や草の香りが含まれている。鳥の声はときにやかましいほどだ。ビルが乱立する街なのに、この自然はありがたい。つい、時間を忘れて街のなかを歩いてしまった。
いつもそうなのだ。
1泊した朝のシンガポールは、羨ましいほどの公園都市の姿を見せてくれる。こういう街に暮らすことができたら、きっといい心も豊かになるだろうと思う。タイのバンコクやチェンマイにロングステイする老人は多いが、暮らす環境を考えればシンガポールではないか。まあ、物価はかなり高いが。
しかしこの街を半日も歩くと、どうしたらいいのかわからなくなるような感覚に陥る。街は便利だ。地下鉄もスムーズだ。街では英語が通じるから、なんの抵抗もない時間が過ぎていく。
そして呟いてしまう。
もう、いいかな。
旅人から眺めると、シンガポールはそういう街なのである。
これに似た話を、僕は拙著などで書いてもきた。しかし街は生き物だから、半年ほどの間隔をあけてやってくると、その変化に戸惑いもする。しかしシンガポールにはそれがない。いつも便利で快適な街なのだ。
はじめてこの街にやってきたのは、30年も前である。そのときも同じことを考えていた。そして今日も同じシンガポールという隘路に陥ってしまうのだ。
これはある意味、すごいことなのだろう。
この安定感……。
それはファストフード店に抱く思いに似ている。快適で、文句はないが、だからといって……と呟く感覚。マニュアルとルールが忠実に実行される世界。
それが隘路に映るのは、僕が旅に染まった人生を歩んできたからなのだろうか。
(2010/5/2)
シンガポールにいる。
昨夜、マレーシアのグマスという街から列車に乗って、ジョホール海峡を越えた。そして街中に1泊。今日、バンコクに向かう。
シンガポールはいい街だ。朝、宿のまわりを歩きながら呟く。気温と湿度は高いが、空気のなかに木々や草の香りが含まれている。鳥の声はときにやかましいほどだ。ビルが乱立する街なのに、この自然はありがたい。つい、時間を忘れて街のなかを歩いてしまった。
いつもそうなのだ。
1泊した朝のシンガポールは、羨ましいほどの公園都市の姿を見せてくれる。こういう街に暮らすことができたら、きっといい心も豊かになるだろうと思う。タイのバンコクやチェンマイにロングステイする老人は多いが、暮らす環境を考えればシンガポールではないか。まあ、物価はかなり高いが。
しかしこの街を半日も歩くと、どうしたらいいのかわからなくなるような感覚に陥る。街は便利だ。地下鉄もスムーズだ。街では英語が通じるから、なんの抵抗もない時間が過ぎていく。
そして呟いてしまう。
もう、いいかな。
旅人から眺めると、シンガポールはそういう街なのである。
これに似た話を、僕は拙著などで書いてもきた。しかし街は生き物だから、半年ほどの間隔をあけてやってくると、その変化に戸惑いもする。しかしシンガポールにはそれがない。いつも便利で快適な街なのだ。
はじめてこの街にやってきたのは、30年も前である。そのときも同じことを考えていた。そして今日も同じシンガポールという隘路に陥ってしまうのだ。
これはある意味、すごいことなのだろう。
この安定感……。
それはファストフード店に抱く思いに似ている。快適で、文句はないが、だからといって……と呟く感覚。マニュアルとルールが忠実に実行される世界。
それが隘路に映るのは、僕が旅に染まった人生を歩んできたからなのだろうか。
(2010/5/2)
Posted by 下川裕治 at
14:51
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