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ナムジャイブログ

2010年07月26日

いったいいつ、国境を越えるのか

 ロシアと中国の国境の街、グロデコボにいる。今朝、この原稿を書き、車両から外へ出ると、もう1台の客車が後に着いていた。掲げられた表示を見ると、ハバロフスクーハルピンと書かれていた。ハバロフスクを出発した列車に牽引された国際列車1両が、夜にうちにウスリースクに到着し、連結されたのだ。
 しかしその車両に乗客はいなかった。それでも運行スケジュールに載っているのだろう。ご苦労なことなのである。
 朝の9時、ウスリースクを出発するために、僕らの2両に気動車が取り付けられ、ホームに入った。ここで国境の街、グロデコボ行き列車に小判鮫のようにくっつき、国境まで運んでもらうということらしい。
 客車の窓からぼんやりホームを見ていた。反対側に長い編成の列車が入線し、その表示をなにげなく眺め、気が遠くなってしまった。
 ソヴィエツカヤ・カバニーウラジオストク。
 これは昨日、僕が乗っていた便の翌日の列車だった。つまり24時間後に出発した列車が、目の前に停車したのだ。
「ここで乗り換えれば、1日早くなったってことですか」
「国際列車は毎日の運行じゃないから、こういうスケジュールになるわけ?」
「でもソヴィエツカヤ・カバニを1日遅れて出発しても間に合うんですよね」
「この1日ってなんだったんですか」
「………」
 カメラマンとホームを見ながら呟くしかなかった。これがシベリアの時間感覚なのだろうか。
 僕らの客車は、グロデコボ行きの列車の後に接続され、出発した。
 それから2時間。
 グロデコボに着いた。そしてロシアのイミグレーションの建物の2階にある待合室に座った。
 それから4時間。
 まだ列車は出発しない。なんの案内もない。ここで客車の台車を交換することはわかっていた。ロシアの鉄道の線路幅より、中国の鉄道のそれはやや短い。それに時間がかかることはわかるが、交換するのはたったの2両なのだ。4時間もかかるわけがない。
 待合室でうたた寝をしてしまった。目が覚めてもなにひとつ情況は変わらない。開け放たれた窓から、国境周辺の山々が見渡せ、鳥の声が聞こえてくる。静かな国境駅……。
 いや、そういうことではない。
 いつになったら、列車は先に進むのだろうか。
 この原稿は中国に入ってから書くつもりだった。
 ごめんなさい。
 列車がなかなか先に進みません。この原稿もなかなか先に進めない
 おそらく中国の列車がやってきて、その後にくっついて、国境を越えるのだろう。しかしその列車は、まだ姿も見せない。
(グロデコボ。2010/7/6)
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(2)

2010年07月19日

動かない車両

 客車のなかで原稿を書いている。揺れる車内で、キーボードを打つのは大変では……と思われるかもしれない。しかしその心配は……と書きかけて少し切なくなってくる。
 前日の夕方から、この客車は停まったままなのだ。客車を牽引する気動車も切り離されてしまっている。動くことができないのだ。それもたった1台。ウスリースクの駅の隅っこに、ぽつんと置かれている。
 前日の夕方、ウラジオストク駅のホームで、中国のハルピン行き列車を待っていた。やって来たのは20両近い長い編成の列車だった。僕らが乗り込む車両は、気動車のすぐ後、つまり客車の先頭に連結されていた。他の車両は混み合っていたが、その車両はしんと静まり返っていた。
 この車両だけが国際列車だった。以前は乗客も多かったのかもしれない。しかしいまは1両だけの運行になっていた。定刻に発車した。ウラジオストクの入り組んだ湾に沿って列車は進んでいた。車内を歩くと、後続車両との間のドアは閉められていた。孤立した1両だったのだ。
 しばらくすると、女性の車掌が、僕らのコンパートメントにやってきた。一応、国際列車だから、英語で説明してくれる。
「この車両はウスリースクでひと晩停車します」
「はッ?」
 となりのコンパートメントにいるオランダ人の老人にも同じ説明をしているようだった。車掌が去った後、オランダ人がやってきた。彼も不安らしい。
「なぜひと晩停まるんです?」
「運行上の理由らしいんです」
「ウスリースクまで2時間ほどでしょ。だったら明日の朝、ウラジジオストクを出発すればいいでしょ」
「牽引する気動車がないってことですか」
「……」
「停車している間はトイレが使えないっていってました」
 僕らは車両から降り、線路を渡ってウスリースクの街に出た。ロシアの駅には改札がないから、こういうことも自由にできる。
 ウスリースクはそれなりの規模の街だが、店は極端に少ないシベリアの街である。食堂は駅舎の横に一軒あるだけだった。
「ビールは控えたほうがいいよな。夜、列車のトイレが使えないんだから」
 カメラマンと話を交わす。
「ロシアのホテルは高いでしょ。事前に1泊1万5000円もするお金を払ってバウチャーをもらわないとビザをくれない。それを思えばね。なにしろ、列車にただで泊まることができるんだから」
「そういうことじゃないとおもうんだけど」
 ロシア極東は夜の10時になっても明るい。行くところもなく、僕らは駅のトイレに寄って車両のねぐらに戻った。
 この車両はいつ動くのだろうか。
(ウスリースク。2010/7/6)  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(1)

2010年07月12日

走っても、走ってもシベリアの森

 目と鼻の先に軍艦が停泊している。こんなものを、平気で見せていいのだろうか。重い冷たい雨が、霧のかかった港に降り続けている。気温は20度ほどか。それでも街の人々は、タンクトップやTシャツ姿だ。脆弱な夏だが、彼らにしたら、はしゃぎたくなるような気温なのだ。
 ウラジオストク──。
 港の脇のカフェで、この原稿を書いている。
 一昨日の夕方、ソヴィエツカヤ・カバニ駅から列車に乗った。バイカル・アムール鉄道の始発駅である。そこから約1600キロ。ウラジオストクは、ロシア正教の教会のたまねぎ型の屋根が見える港町だった。
 ソヴィエツカヤ・カバニ駅は小さな駅だった。まるで丸太小屋のような小さな駅舎が、白樺の林のなかにぽつんと建っていた。
 定刻に発車した列車は、リアス式海岸に沿ってカーブをいくつかまわりワニノ駅に着く。ここがユーラシア大陸の東端である。
 そこから列車は海岸線を離れ、アムール川の支流に沿って、シベリアの森に分け入っていく。夜の9時になっても、10時になっても空にはしぶとく明るさが残っている。
 走っても、走っても、白樺の森である。その間に、シベリアらしい木造りの家が点在している。食堂車でシベリアのサケを食べていると、停車駅から魚が積み込まれた。川で獲れたマスが数匹。これも料理になるのだろうか。シベリアを走る列車は、材料を森から調達しながら進んでいく。
 翌朝、コムソモリスクに着いた。
 ここまで走った線路には、きな臭い歴史が秘められている。この路線の建設がはじまったのは1943年である。2年後には、コムソモリスクとソヴィエツカヤ・カバニ間が開通するが、その目的は日本侵攻だった。日本の敗戦を読んだ旧ソ連は、日本に北から攻めるために、突貫工事でこの路線をつくっていく。おそらく、ソ連兵は、この線路を走る列車に揺られて、日本では樺太と呼ばれたサハリンに向かったのだ。
 白樺の森は、そんなことをなにも知らないかのように静まりかえっていた。
 その日の夕方、ハバロフスクに到着した。
 列車にはふたりの女性の車掌が乗っていた。50代のおばさん車掌は、まるで母親のように僕らの世話を焼いてくれる。朝、コムソモリスクのホームに下りると、
「あの売店のヨーグルトがおいしい」
 と自分も買った袋の中身を見せながら教えてくれる。朝には紅茶のお湯を注いでもらい、夜、食堂車にビールを買いに行こうとすると、
「私から買いなさい」
 と車掌室からビールを持ってくる。こづかい稼ぎ半分のロシアのおばちゃんである。
 列車はベッドが4つのコンパートメント。そこが僕らの我が家のような感覚である。
 ハバロフスクを出発した。駅の売店で買ったシベリアビールをなめるように飲みながら、明かりひとつない暗い森を眺め続ける。
 列車の軋みを耳にしながら、いつしか寝入ってしまった。
 目覚めると森から白樺が消えていた。
 確実に南に来た。
 ウラジオストク──。
 夕方の列車で中国のハルピンに向かう。
(ウラジオストク。2010/7/5)  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(2)

2010年07月08日

長い旅がはじまった

 間宮海峡を渡るフェリーのなかで、この原稿を書いている。今日の10時にサハリンのホルムスクという港町を出航した。
 サハリンは短い夏の真っ盛りだった。
 朝、港にフェリーの切符をとりにいった。ホテルを出ると、ミントのような匂いに包まれた。ホテル前の斜面には、白や紫の花房が流れる霧をものともせずに咲いていた。花々はその存在を教えるかのような香りを発していた。
 北国の夏は、ときに痛々しい。生き物たちは、短い夏の間にすべての生殖活動を終えなければならない。その旺盛さは、切実にすら映る。雲は重く、小糠雨に街は包まれていたが、これでも立派な夏なのだ。
 ホルムスクは戦前、真岡と呼ばれていた。日本人が多く住む港町だった。終戦後、真岡郵便局の電話交換手の日本人女性9人が、自決した街としても知られている。彼女たちはこの町にあった郵便局で青酸カリを飲んだ。
 街はそんな歴史を知らないかのように濃い霧に包まれていた。
 フェリーは汽笛ひとつ鳴らすことなく、北の港を出港した。穏やかな海である。
 江戸時代、間宮林蔵はこの海を北上していった。当時、サハリンは半島なのか、島なのかがわからなかった。世界の探検家がこの海に分け入った。北上していくと海は浅くなり、当時は半島だと信じられていたのだ。サハリン北端近くまで辿り着いた林蔵は、サハリンが島であることを確認する。
 しかし北端近くの海は浅く、狭い。海流の流れもさえぎられる。間宮海峡は、潮の流れの少ない静かな海である。
 冬には凍結してしまうが、いまは霧のなかで静まりかえっている。
 長い旅がはじまった。
 ユーラシア大陸を東から西への横断列車旅である。スタートはロシアの極東、ソヴィエツカヤ・カヴァニという駅である。鉄道駅の東端はワニノ駅なのだが、そこに停車する列車の始発駅がソヴィエツカヤ・カヴァニ駅なのだ。
 いまフェリーはワニノの港に向かって進んでいる。そこから車でソヴィエツカヤ・カヴァニに向かうことになる。
 そこからユーラシア大陸の西端のポルトガルをめざす。はたしてどれほどの日数で着くことができるのだろうか。どんな障害が旅の前に待っているのだろうか……。
 このブログも、その旅先で書くことが多くなる。しかし通信事情は脆弱なエリアが多い。フェリーが到着するワニノの港にしても、ネットがつながることは期待していない。中国の西域、中央アジア、コーカサスあたりは、ネットがつながる以前のビザや政情不安が待ち構えている。
 また旅がはじまる。フェリーは静かに、霧に包まれた間宮海峡を進んでいる。
(2010/7/3)  

Posted by 下川裕治 at 15:10Comments(2)