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ナムジャイブログ

2010年08月30日

ダフ屋に300元払って3774キロの旅

 3774キロ──。
 北京発ウルムチ行き。T69と名づけられた特快列車は、この距離を粘り強く走り続けた。北京から石家庄まで南下し、そこから、西へ、西へとひた走る。ウルムチまで約40時間かかった。
 ひとつの列車が走り抜ける距離では、トップクラスに入る。しかしこの切符を確保することは大変なことだった。
 僕らは硬臥の切符を希望していた。中国の寝台車は軟臥と硬臥に分かれる。軟臥が1等寝台、硬臥が2等寝台である。
 北京から一時、日本に戻ったことは前号でお伝えした。北京から日本に帰る前の夜、北京に住む日本人の知人に、この切符を確保できないかと頼み込んだ。
「大丈夫だと思います。いざとなればダフ屋という手がありますから」
 そういって胸を張ってくれた。
 中国の列車の切符は、10日前に発売になる。その日、北京からメールは入った。
「すごく混んでいます。学生の夏休みに重なっているみたいです。1日に1本しかないウルムチ線はとくに大変です。ダフ屋に頼んでもいいですか」
 発売と同時に切符がなくなってしまう状態のようだった。しかしダフ屋が切符を手に入れることができる可能性があるという。
 からくりはこうだった。
 混み合う時期、切符を確保するのは、駅の切符売り場の職員だった。彼らが確保というか、売らないのだから、乗客には手に入らない。鉄道の職員が確保した切符が、旅行会社とダフ屋に流れていくのだ。ダフ屋は駅職員と旅行会社にネットワークをもっていて、その人脈を使って切符を確保していくのである。
 中国政府はこの問題を解決するために、さまざまな方法を試してみたが、まったくうまくいかないらしい。
「なにしろ人が多すぎるんですよ。中国は」
 依頼した日本人は申し訳なさそうにいった。
 中国の大きな駅には、外国人専用の窓口がある。かつてはそこで切符が手に入った。外国人観光客が、中国式発券システムに巻き込まれると、なかなか切符が手に入らないからだった。しかしこの窓口もあまり機能しなくなった。というのも外国人の足は飛行機が主流になってきたからだ。
 たしかに40時間も列車に揺られる旅を選ぶ外国人はそう多くない。
 ダフ屋の世界は、つまりは金である。いくら積むか……で切符が流れはじめる。
 300元で手を打った。日本円で4000円ほど。安い額ではない。食堂の従業員の月給が1000元という国である。北京からウルムチまでの硬臥下段運賃は652元。そこに300元が加わる。片道1万円である。
 車内は満席だった。ダフ屋の話が車内を飛び交う。そんな話を耳にしながら、車内の一夜が明けると、山々から木々が見えなくなった。そしてもう一夜が明けると、地面に生えていた草が消えた。
 砂漠の向こうに、ビルが建ち並ぶウルムチの街が見えた。そこはやっと手に入れた切符で訪ねることができる砂漠のなかの大都会だった。(ウルムチ。2010/8/27)
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(1)

2010年08月23日

動組車の駅弁は電子レンジで温める

 ハルピンから北京まで動車組という中国の新幹線に乗った。これまで中国では、硬座とか硬臥にばかりお世話になっていた。たまには最先端の列車に乗ってみるか……と思ったのだ。
 綏芬河を出た列車がハルピンに着いたのが朝だった。その足で切符売り場に向かった。動車組のラインには長い列ができていた。
「明天。至北京。D28」
 紙に書いて渡す。動車組の列車番号は、すべてDが頭に着いている。
「明日の席はすべて満席です」
「はッ?」
 ハルピン発北京行きは1日2便あった。それがすべて満席だというのだ。動車組は速いだけに運賃も高い。ひとり300元以上もする。この列に並ぶ前、僕らは駅前食堂でそばを食べた。打歯面と書かれた1杯5元のそばだった。その物価感覚からすると、とんでもなく高いのだ。しかしもう席がない。2日後を見てもらう。
「1等しか席がありません」
「はッ」
 しかたなかった。僕らは351元、日本円で4500円ほどの1等の切符を買うしかなかった。
 速かった。車内に速度が出る。平気で時速200キロを超え、240キロまで達する。ロシアのソヴィエツカヤ・カバニから、時速100キロにもならない列車に揺られてきた体が、このスピードに着いていかない。夏を迎えた黒龍江省の麦畑が、どんどんと通り過ぎていく。長春、四平、瀋陽北……と動車組は停まっていくが、停車時間は2分だけだ。クッションの効いた椅子は快適だが、しだいにすることがなくなってくる。車内を歩いても、皆、席に座っているだけだからつまらないのだ。
 女性の車掌がメニューを手にやってきた。昼食の駅弁の注文をとっているようだった。メニューは写真付き。弁当は紅焼牛肉套餐。そこにヨーグルトか牛乳+ザーサイがつく。これで35元。日本円にすると450円。ハルピンの物価が馴染んできた身にはやはり高い。
 そして届いた弁当は、冷凍を電子レンジで解凍したものだった。
 これが最先端の中国らしい。通常の列車に乗ると、食堂車でつくった弁当を5元ほどで売りにくる。このほうがうまいのだ。それは中国人も同じだろう。人件費を考えても、まだ手づくりのほうが安い国なのだが、動車組ではそういうわけにいかないのだろう。新しいスタイルにしていくことは、この国の宿命である。これもひとつのゆがみなのだろうか。
 夕方、北京に着いた。
 北京の街は、珍しい豪雨に洗われていた。
 雨に濡れながら、林立するビル群を呆然と見上げていた。
(北京。2010/7/9)
 実はその後、日本にいったん帰国した。仕事の都合もあったが、北京から先の国々のビザをとる必要もあったのだ。昨日、最後の国のビザを受け取り、明日、北京に向かう。あとは一気にポルトガルまでの列車旅だ。
 今後、このブログも不定期になることを思う。西へ、西へと進むことになるが、メールどころか「渡航の延期をお勧めします」エリアを通っていかなくてはならないからだ。電波が拾えたら、ブログをアップしていくことになる。
(東京。2010/8/19)
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(1)

2010年08月16日

ヤマトホテルに潜むおぞましさ

 ハルピン駅前にある龍門大厦の貴賓楼でこの原稿を書いている。この一帯が日本の傀儡政権である満州だった頃、ヤマトホテルと呼ばれたホテルである。
 間宮海峡を渡り、ソヴィエツカヤ・カバニから、ホテルに一泊もせずにハルピンまで辿り着いた。そんな旅には似合ったホテルだった。とはいえ、高いホテルだと手が出ない。まあ、値段だけでも訊いてみるかとフロントに立った。カメラマンと一緒のツインが381元、約5000円。思い切って泊まってみることにした。
 なぜこのホテル? 
 ソヴィエツカヤ・カバニからの路線は、ロシアと日本の戦争が色濃く投影されていた。建設がはじまったのは1943年。日本敗戦の2年前である。ロシアは日本参戦のために、内陸のコムソモリスクへの鉄道建設を急ぐのだ。敗戦2年前、ロシアはすでに戦争の行く末を読んでいた。
 綏芬河からハルピンまでの鉄道もロシア敷設した。話は日清戦争に遡る。日清戦争に勝った日本に対し、三国干渉を成功させたロシアは、その見返りを清に迫る。その密約で得たのが、鉄道の敷設権だった。ロシアは満州里からハルピンを経て綏芬河までの線路を建設する。ロシア領内からウラジオストクまでの路線ができあがるのだ。
 そのときロシアがつくった会社が東清鉄道だった。やがてこの会社は中東鉄路になる。いま、僕が泊まっているホテルは、1903年に中東鉄路賓館という名前で創業をはじめた。
 大理石の石段、天井のステンドグラス……。広い廊下を歩くと、コツコツと靴音が響く。
 しかし日露戦争を経て、この鉄道は満州鉄道、つまり日本のものになっていく。ロシアが敷いた線路幅が1520ミリという鉄道は、満州鉄道に合わせて1435ミリへの取り替え工事も行われた。そしてこのホテルもヤマトホテルと名前を変えていくのだ。
「やりたい放題だったんだな」
 僕は今日、ハルピン郊外にある731部隊の遺跡を見てきた。同行したカメラマンの阿部稔哉氏は、カメラを抱えながらこういった。
「息が詰まるようなとこですよ」
 たしかにそうだった。731部隊はここで細菌兵器の製造を繰り返していた。その実験の記録を見ると、思いつくかぎりの人体実験に手を染めている節すらうかがえる。終戦間近、731部隊は、この施設の内実が発覚することを怖れ、破壊して逃走するが、その土地には、戦争というものの狂気がまとわりつき、人を寡黙にさせてしまう。
 それはロシアも同様だった。弱体化した清につけ込み、この土地でやりたい放題を繰り返していた。
 彼らが泊まったのが、このヤマトホテルである。この部屋でロシア人や日本人は狂気の決断をいくつも下していった。レトロな造りのホテルは、ときに観光客を惹きつける。しかしその背後には、おぞましい歴史が潜んでいる。
(ハルピン。2010/7/9)
  

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2010年08月09日

裏列車が我が家だった

 綏芬河は坂の街だった。駅から急な坂道を登っていくと中心街に出た。その広場の光景に息を呑んだ。広場の周りに建ち並ぶビル。それぞれ10階はあるだろうか。それぞれ3階ぐらいまで商店が入り、そこには洋服や食べ物が溢れている。商売気のないロシアの街からやってくると、その消費文化に目がくらみそうになる。中国の辺境の街でこの勢いなのである。
 やはり中国だった。
 坂の途中にある食堂で夕食をとった。夜の8時。街は暗くなり、行くところがない。僕のねぐらはあの国際列車しかない。小雨も降ってきた。ホームで待つことにしようか。
 駅舎近くで、ウラジオストクから同じ車両にいるオランダ人の老人と会った。僕らはホームに向かった。
 しかし改札を通ることはできなかった。そういわれていた。しかし腑に落ちない。僕らは違法切符をもっているわけではない。いや、ロシアや中国で買うローカルチケットより高い運賃を払っているはずだ。それなのに、どうしてこそっとホームに戻らなくてはいけないのだ。ロシアからそっと進入する裏列車に乗っているような感覚なのだ。
 僕らはホームに入った。果たして中国の鉄道の職員にとり囲まれた。英語は通じない。しかたなく切符を見せる。だがそれはロシア語だから誰も読めなかった。
「早くホームから出ろ」
 中国の公務員独特の居丈高な態度である。しかし僕らはここにいないと列車に乗ることができないのだ。
 情況がわかってきた。綏芬河の駅では、発車15分前に、乗客をホームに入れるルールらしい。それより前にホームに立たれては困るのだ。しかし僕らはどうしたらいいのだろうか。
 結局、駅の待合室に連れ込まれた。そこで再び切符を見せる。職員はそれを持ってどこかに消えた。
 それから30分。ようやく彼らも情況をつかめたようだった。無理もなかった。僕らの車両には、この駅で切符を買った人は乗ることができない。駅職員にしたら関係のない車両なのだ。ハルピン行きの列車の後に、夜陰に乗じてそっと連結されるだけの外国の車両なのだ。
 しかしどうしてこういうことになってしまうのだろう。ロシアがビザのために、専用国際車両を用意するからいけないのだ。
 出発15分前、僕らだけ隔離され、駅員に先導されてホームに出ると、そこに僕らの車両があった。なんだか懐かしさがこみあげてくる。ドアの下に立つと、ロシア人の職員の笑顔が返ってきた。我が家に帰ったような感覚だった。
 中国の時刻表を見ると、僕らの車両がくっついたのは、K7024というハルピン行きだった。一般車両には中国人やロシア人が乗り込んだが、僕らの車両は相変わらず3人だけだった。車内は海の底のように静かだった。
 今朝、ハルピンに着いた。
 僕はようやく国際列車の呪縛から解放された。
(ハルピン。2010/7/7)
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(4)

2010年08月04日

この街で6時間待ちます

 グロデコボを出発したのは午後の4時30分だった。中国側の国境の街、綏芬河からやってきた列車の最後尾に僕らの乗った2両が連結された。いったいこれまで何回、僕らの車両は気動車からはずされ、とりつけられたのだろうか。
 イミグレーションに列をつくったのは、ロシア側に買い出しにきた中国人商人と中国側に仕入れに向かうロシア人数十人だった。彼らは皆、中国からやってきた車両に乗り込む。僕らが乗る国際列車の車両は、相変わらず3人だけだった。
 列車は出発すると間もなく、深い山に分け入っていった。これまでの伸びやかな牧草地のような風景が一転した。ロシアと中国の境界は山岳地帯で、この一帯が緩衝地帯になっているようだった。
 そこから1時間ほど走った。列車は長い綏芬河のホームに停まった。ここで中国側の入国審査がある。
 僕の入国審査はもめた。
 パスポートはブースに座る係官から上司らしい仏頂面の女性に渡っていく。北京や上海ではいつもスムーズに通過するのだが、この国境ではそうはいかないのか。不安が脳裡をよぎる。僕はかつて5年間、中国への入国を拒否され続けた過去がある。いや、単純にこのルートで入国する日本人が少ないためだろうか。係官は英語をまったく理解しなかった。
 10分がすぎた。いや20分か……。結局、僕のパスポートにはスタンプが捺された。手間どった理由はわからなかった。
 僕はホームに戻り、もう丸1日もすごした車両のコンパートメントに入った。すると車掌がやってきた。
「この駅で6時間待ちます」
「はッ?」
 そういえば、ウラジオストクを発車した後、そんな説明を受けた気がする。しかし途中の駅であまりにも停車したので、この駅での停車のことを忘れてしまっていた。
「街へ出てもかまいません。でも通常の改札は通らないでください。駅舎の横に荷物の搬入路がありますから。午後9時にホームに来てください。9時ちょうどに」
 僕らは時刻を確認した。この国際列車を手配してもらった日本の旅行会社からもらったスケジュール表をもっていた。しかしそこに書かれていたのは、ウラジオストクの発車時刻とハルピン到着時刻だけだった。中国の時刻表ももっていた。そこには僕が乗っている国際列車の時刻表も出ていたが、出発時間から違っていた。
 ロシアの列車はモスクワ時間で運行されている。それに7時間を加えると、ロシアの極東時間になる。街はその時間で動いている。加えていまはサマータイム。そして中国に入った。僕はいまが何時なのかわからなくなってしまっていたのだ。
 午後3時。ロシアの極東時間を3時間遅らせる。
 これから6時間か。綏芬河ではさしたる用事もない。早めに戻ってホームで待つか……。この発想がトラブルを生むとは、そのときの僕は考えてもみなかった。    
(綏芬河。2010/7/6)
  

Posted by 下川裕治 at 08:00Comments(1)