2010年09月27日
ロシア出国拒否
列車が出発したのはいつ頃だったのだろうか。ダゲスタン共和国の中心であるマハチカラを出た列車は、朝日に照らされながら南下していた。アゼルバイジャンとの国境の街、デルベントにしばらく停まり、列車はそこから5分ほど走って停まった。ここでロシア出国審査が行われるらしい。キャビンのなかで待っていると、車掌がパスポートを集めにやってきた。これまで何回も体験してきた出国審査である。しばらくすると、車掌が僕とカメラマンのパスポートをもって再び現れた。
「外国人はアゼルバイジャンに出国できない」
ほかの車掌や乗客も集まってきた。彼らは英語をほとんど理解できない。身振り手振りや、紙に図を描いて説明してくれる。いっていることは理解できた。しかしその理由がわからない。ロシアの場合、切符を確保したうえでビザが発給される。僕らは日本で、アストラハンからバクーまでの列車のバウチャーを受けとり、アストラハン駅で切符に交換していた。外国人が通過できない国境なら、どこかの時点でストップがかかるはずだった。
「爆破テロだろうか……」
前日に起きたテロの影響で、外国人の出国を停めたのだろうか。しかしそこまで聞くほど僕はロシア語を話すことができない。手配したインツーリストに電話をかけてもらった。その結果は、やはり出国できないというものだった。
車掌室に呼ばれた。そこに出国管理官のトップらしい軍服姿の男がいた。一瞬、これが賄賂の場かとも思った。しかし入り口に何人もの車掌や乗客が立ち、僕らのやりとりを見ている。こんな場で堂々と賄賂は渡せない。軍服姿の管理官にも隙がなかった。賄賂のやりとりには、互いのサインがあるものだ。しかしそれがない。いや、僕の勘が鈍っているのか。
「………」
時間が流れる。やはり賄賂以前の問題なのか……。爆破テロ犯の海外逃亡を防ごうとしているのか。
結局、僕らは列車を降りるしかなかった。出入国管理の職員と一緒にバスに乗り、デルベント駅横にある事務所に入れられた。
アゼルバイジャンに行くには空路しかないといわれた。マハチカラの空港からの便もあるが不定期だという。確実なことはアストラハンに戻ることだった。出入国管理の職員と一緒に切符売り場に行き、アストラハンまでの列車の切符を買った。そしてひと晩列車に揺られ、アストラハンに戻った。「渡航の延期をお勧めします」というエリアを、こんなにうろうろしていいのかと思ったが、ほかに方法はなかった。
3日ぶりに戻ったアストラハンには、秋空が広がっていた。
(アストラハン。2010/9/10)
「外国人はアゼルバイジャンに出国できない」
ほかの車掌や乗客も集まってきた。彼らは英語をほとんど理解できない。身振り手振りや、紙に図を描いて説明してくれる。いっていることは理解できた。しかしその理由がわからない。ロシアの場合、切符を確保したうえでビザが発給される。僕らは日本で、アストラハンからバクーまでの列車のバウチャーを受けとり、アストラハン駅で切符に交換していた。外国人が通過できない国境なら、どこかの時点でストップがかかるはずだった。
「爆破テロだろうか……」
前日に起きたテロの影響で、外国人の出国を停めたのだろうか。しかしそこまで聞くほど僕はロシア語を話すことができない。手配したインツーリストに電話をかけてもらった。その結果は、やはり出国できないというものだった。
車掌室に呼ばれた。そこに出国管理官のトップらしい軍服姿の男がいた。一瞬、これが賄賂の場かとも思った。しかし入り口に何人もの車掌や乗客が立ち、僕らのやりとりを見ている。こんな場で堂々と賄賂は渡せない。軍服姿の管理官にも隙がなかった。賄賂のやりとりには、互いのサインがあるものだ。しかしそれがない。いや、僕の勘が鈍っているのか。
「………」
時間が流れる。やはり賄賂以前の問題なのか……。爆破テロ犯の海外逃亡を防ごうとしているのか。
結局、僕らは列車を降りるしかなかった。出入国管理の職員と一緒にバスに乗り、デルベント駅横にある事務所に入れられた。
アゼルバイジャンに行くには空路しかないといわれた。マハチカラの空港からの便もあるが不定期だという。確実なことはアストラハンに戻ることだった。出入国管理の職員と一緒に切符売り場に行き、アストラハンまでの列車の切符を買った。そしてひと晩列車に揺られ、アストラハンに戻った。「渡航の延期をお勧めします」というエリアを、こんなにうろうろしていいのかと思ったが、ほかに方法はなかった。
3日ぶりに戻ったアストラハンには、秋空が広がっていた。
(アストラハン。2010/9/10)
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12:00
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2010年09月20日
前を走る列車が爆破された
アストラハンからアゼルバイジャンのバクーに向かう列車は定刻に発車した。ボルガ川がカスピ海に流れ込むデルタ地帯を南下し、やがて乾燥地帯に入っていく。そして昼過ぎにダゲスタン共和国に入った。共和国といっても、独立国ではない。ロシアに属している。
しかしこのエリアを走る列車を狙った爆破テロが起きていた。隣接するチェチェン共和国のイスラム系組織の犯行といわれている。
ロシアにとって、チェチェンは厄介な存在である。武力制圧したとロシアは公表しているが、チェンチェンの反政府組織の反抗が終わったわけではない。
かつてアストラハンとバクーを結ぶ列車はチェチェン共和国を通っていた。しかし列車を狙ったテロや乗客から強制的に通行料をとる反政府組織の行動が続いた。ロシアはダゲスタン共和国を通る線路を使うようになったが、当然、この路線が狙われる。
今年に入って2回の爆破テロが起きている。外務省の海外情報でも、「渡航の延期をお勧めします」というエリアになっている。この情報は危険度を4ランクに分けているが、「退去勧告」の次にあたる。しかしここを通らないと、アゼルバイジャンには抜けられない。
テロという危険は、ある意味、防ぎようがない。運を天に委ねるしかない。僕らが乗る列車がテロに遭う……。実感はなかった。毎日、何本もの列車が通過しているのだ。そこで今年2回……。
列車は止まってしまった。
アルテジアンという駅だった。乗客はホームに降りはじめる。車掌や乗客が話しはじめている。この先で?
予感は当たってしまった。ひとつ前を走っていた貨物列車が爆破された。6両が脱線・横転したという。車掌がもつ通信機での交信も錯綜していた。しばらくすると、車掌と警察が僕のところに来てノートに図を書きながら説明してくれた。テロの起きたところをバスで振り替え輸送して、その先でやはり止まっている列車に乗り換えるという。それはバクーからモスクワに向かおうとしていた列車だった。
乗客たちはホームに座りこみ、リンゴをかじったり、煙草を喫ったりしている。なかにはウオトカを飲みはじめるおじさんグループもいる。僕は不思議だった。すぐ直前で爆破テロが起きたというのに、誰ひとり動揺していない。乗客の顔には笑顔がある。周囲のステップ地帯をさわやかな風が通り抜けていく。駅の周りの木々からは、鳥の声が聞こえてくる。乗客には家族連れも多く、子どもたちは近くの草むらで遊びはじめている。
慣れている……?
切ないことだった。いくらテロが頻発しても、生活のために列車に乗らなくてはならない。そういうことなのだろうか。すぐ隣にテロがある暮らしとは、こういうものなのだろうか。
僕らはマイクロバスで移動し、キジルジャートという駅で、再び列車に乗り込んだ。
テロの影響で、運行スケジュールはめちゃくちゃになった。小さな駅に1時間も停車していたりする。そしていま、ダゲスタン共和国の首都であるマハチカラの駅に停まっている。もう3時間も列車は動かない。この街のデパートでもしばらく前、テロがあったと、乗客のひとりが、交通事故が起きたかのようなのんびりとした顔で教えてくれた。
列車はまだ動こうともしない。
深夜の駅に停まったままだ。
(マハチカラ。2010/9/8)
しかしこのエリアを走る列車を狙った爆破テロが起きていた。隣接するチェチェン共和国のイスラム系組織の犯行といわれている。
ロシアにとって、チェチェンは厄介な存在である。武力制圧したとロシアは公表しているが、チェンチェンの反政府組織の反抗が終わったわけではない。
かつてアストラハンとバクーを結ぶ列車はチェチェン共和国を通っていた。しかし列車を狙ったテロや乗客から強制的に通行料をとる反政府組織の行動が続いた。ロシアはダゲスタン共和国を通る線路を使うようになったが、当然、この路線が狙われる。
今年に入って2回の爆破テロが起きている。外務省の海外情報でも、「渡航の延期をお勧めします」というエリアになっている。この情報は危険度を4ランクに分けているが、「退去勧告」の次にあたる。しかしここを通らないと、アゼルバイジャンには抜けられない。
テロという危険は、ある意味、防ぎようがない。運を天に委ねるしかない。僕らが乗る列車がテロに遭う……。実感はなかった。毎日、何本もの列車が通過しているのだ。そこで今年2回……。
列車は止まってしまった。
アルテジアンという駅だった。乗客はホームに降りはじめる。車掌や乗客が話しはじめている。この先で?
予感は当たってしまった。ひとつ前を走っていた貨物列車が爆破された。6両が脱線・横転したという。車掌がもつ通信機での交信も錯綜していた。しばらくすると、車掌と警察が僕のところに来てノートに図を書きながら説明してくれた。テロの起きたところをバスで振り替え輸送して、その先でやはり止まっている列車に乗り換えるという。それはバクーからモスクワに向かおうとしていた列車だった。
乗客たちはホームに座りこみ、リンゴをかじったり、煙草を喫ったりしている。なかにはウオトカを飲みはじめるおじさんグループもいる。僕は不思議だった。すぐ直前で爆破テロが起きたというのに、誰ひとり動揺していない。乗客の顔には笑顔がある。周囲のステップ地帯をさわやかな風が通り抜けていく。駅の周りの木々からは、鳥の声が聞こえてくる。乗客には家族連れも多く、子どもたちは近くの草むらで遊びはじめている。
慣れている……?
切ないことだった。いくらテロが頻発しても、生活のために列車に乗らなくてはならない。そういうことなのだろうか。すぐ隣にテロがある暮らしとは、こういうものなのだろうか。
僕らはマイクロバスで移動し、キジルジャートという駅で、再び列車に乗り込んだ。
テロの影響で、運行スケジュールはめちゃくちゃになった。小さな駅に1時間も停車していたりする。そしていま、ダゲスタン共和国の首都であるマハチカラの駅に停まっている。もう3時間も列車は動かない。この街のデパートでもしばらく前、テロがあったと、乗客のひとりが、交通事故が起きたかのようなのんびりとした顔で教えてくれた。
列車はまだ動こうともしない。
深夜の駅に停まったままだ。
(マハチカラ。2010/9/8)
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16:51
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2010年09月13日
出入国に3時間半。越境の3大苦
タシケントに着いた9月1日は、ウズベキスタンの独立記念日だった。
独立から19年──。
独立……といえば聞こえがいいが、それは旧ソ連の切捨てに近い政策だった。ロシアルーブルの貯金が消え、仕事もなくなった。すべてがゼロからスタートした19年だった。
鉄道の整備もそのひとつだった。ソ連時代に鉄道が敷かれ、その後に独立という経緯を辿っているため、その路線が複雑なことになっている。
タシケントからサマルカンドを通り、カザフスタンのベイネウを結ぶ線路は、途中、隣国のトルクメニスタンを通っている。この路線に乗るには、ウズベキスタンとカザフスタン以外に、トルクメニスタンのビザをとらなければいけなかった。
そこでウズベキスタン領内だけを走る新しい線路を砂漠のなかに敷いた。僕らが乗った列車は、その路線を走った。
徹底した乾燥地帯が広がっていた。ミスキン、トルツクルといった駅に停まっていったが、新しくできた路線だけに、町も小さい。ホームの物売りも少なかった。やがてヌクスに出、昔からある線路を北東に向かって粘り強く進んでいく。
ウズベキスタン出国は午前2時だった。辛い時間帯である。中央アジアの出入国の審査は列車のなかで行われる。キャビンで待っていると、イミグレーションの職員が現れ、パスポートを回収していく。その後、荷物や車内検査が待っている。
この時間がいちばん辛い。空港でもイミグレーションの前に立ち、スタンプを捺してもらう時間はいやなものだ。それがどこか別のところで行われ、30分以上も待つことになる。別に悪いことはしていないのだが、なにか難癖をつけられるのでは……と不安が広がる。
加えて眠い。午前2時である。あたりは暗闇である。そのなかでじっと待たなくてはならないのだ。
おしっこも我慢しなくてはいけない。中央アジアの列車のトイレは、昔風の垂れ流しスタイルだから、駅に停車中は、車掌がトイレの鍵を閉めてしまう。人間というものは、眠りから覚めたとき、おしっこがしたくなる。しかしトイレが使えないのだ。それがチェックの終わるまで、1時間半、2時間と続くのだ。
パスポートチェックの緊張、眠気、おしっこ……これは鉄道での越境の3大苦と名づけることにした。
僕もおしっこを我慢しながら、パスポートが返ってくるのをじっと待つ。やがて税関職員がやってくる。持参する現金と申告書との額をチェックする。一銭も使っていないようなことを書くと、鞄のなかまで綿密に調べはじめる。ときには、小金ほしさに難癖をつけてくる。なんとかそこをかわしていかなくてはならない。
ウズベキスタン出国で1時間半。カザフスタン入国で2時間。終わったときには、太陽が昇りはじめていた。
今回は幸い、ウズベキスタン出国とカザフスタン入国の間に、砂漠を2時間ほど列車は移動した。その間におしっこはすませることはできたのだが。
その日、アトゥラウで列車を乗り換え、再び、越境の3大苦を味わって翌朝、ロシアのアストラハンに入った。タシケントから3泊4日。これから今年に入り、2回も列車爆破のテロが起きているダゲスタン共和国に入っていく。
(アストラハン。2010/9/6)
独立から19年──。
独立……といえば聞こえがいいが、それは旧ソ連の切捨てに近い政策だった。ロシアルーブルの貯金が消え、仕事もなくなった。すべてがゼロからスタートした19年だった。
鉄道の整備もそのひとつだった。ソ連時代に鉄道が敷かれ、その後に独立という経緯を辿っているため、その路線が複雑なことになっている。
タシケントからサマルカンドを通り、カザフスタンのベイネウを結ぶ線路は、途中、隣国のトルクメニスタンを通っている。この路線に乗るには、ウズベキスタンとカザフスタン以外に、トルクメニスタンのビザをとらなければいけなかった。
そこでウズベキスタン領内だけを走る新しい線路を砂漠のなかに敷いた。僕らが乗った列車は、その路線を走った。
徹底した乾燥地帯が広がっていた。ミスキン、トルツクルといった駅に停まっていったが、新しくできた路線だけに、町も小さい。ホームの物売りも少なかった。やがてヌクスに出、昔からある線路を北東に向かって粘り強く進んでいく。
ウズベキスタン出国は午前2時だった。辛い時間帯である。中央アジアの出入国の審査は列車のなかで行われる。キャビンで待っていると、イミグレーションの職員が現れ、パスポートを回収していく。その後、荷物や車内検査が待っている。
この時間がいちばん辛い。空港でもイミグレーションの前に立ち、スタンプを捺してもらう時間はいやなものだ。それがどこか別のところで行われ、30分以上も待つことになる。別に悪いことはしていないのだが、なにか難癖をつけられるのでは……と不安が広がる。
加えて眠い。午前2時である。あたりは暗闇である。そのなかでじっと待たなくてはならないのだ。
おしっこも我慢しなくてはいけない。中央アジアの列車のトイレは、昔風の垂れ流しスタイルだから、駅に停車中は、車掌がトイレの鍵を閉めてしまう。人間というものは、眠りから覚めたとき、おしっこがしたくなる。しかしトイレが使えないのだ。それがチェックの終わるまで、1時間半、2時間と続くのだ。
パスポートチェックの緊張、眠気、おしっこ……これは鉄道での越境の3大苦と名づけることにした。
僕もおしっこを我慢しながら、パスポートが返ってくるのをじっと待つ。やがて税関職員がやってくる。持参する現金と申告書との額をチェックする。一銭も使っていないようなことを書くと、鞄のなかまで綿密に調べはじめる。ときには、小金ほしさに難癖をつけてくる。なんとかそこをかわしていかなくてはならない。
ウズベキスタン出国で1時間半。カザフスタン入国で2時間。終わったときには、太陽が昇りはじめていた。
今回は幸い、ウズベキスタン出国とカザフスタン入国の間に、砂漠を2時間ほど列車は移動した。その間におしっこはすませることはできたのだが。
その日、アトゥラウで列車を乗り換え、再び、越境の3大苦を味わって翌朝、ロシアのアストラハンに入った。タシケントから3泊4日。これから今年に入り、2回も列車爆破のテロが起きているダゲスタン共和国に入っていく。
(アストラハン。2010/9/6)
Posted by 下川裕治 at
12:00
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2010年09月06日
やはりアジアは広かった
辛い旅が続いている。
日本を発って2週間が過ぎた。
中国のウルムチから2泊3日、列車に揺られ、カザフスタンのアルマトイ。そこからさらに2泊3日、ロシア製の列車でウズベキスタンのタシケント。やっとここまで来たのだが、全行程の半分を少し超えた程度だ。
アジアはやたら広い。
延々と続くステップを列車は粘り強く走り続ける。しかし車内は大変である。
まず暑い。ウルムチが思っていたより快適で、「これは楽かも」と期待を抱いてしまったが、西に向かうにつれて気温がぐんぐんとあがる。日中の気温は40度を超え、冷房のない車内は炎熱状態になっていく。コンパートメントのなかにいることができず、少しでも風の通る廊下に立ち続けるしかない。座る場所はどこにもなく、ただ、人の気配のないステップを眺めながら立って数時間。足が疲れてベッドに戻るが、やはり暑くてまた廊下に戻る。そんな旅が5日も続いた。
これでもウルムチから最も早い日程でタシケントに辿り着いた。日本で得た情報では、アルマトイからタシケントまでの直通列車はないということだった。しかしアルマトイの駅で聞くと、ロシアのノボリイビスクからタシケントに向かう列車に乗ることができるという。幸運だったが、それでもこれだけの日数がかかってしまう。
やはりアジアは広い。
救いは朝の気温だけである。乾燥地帯の寒暖差は激しく、朝方になると20度を下まわるような涼しさになる。深夜、小さな駅に停車すると、虫の鳴き声が聞こえてくる。これでも夏は終わりかけているのだ。
これから北上を開始する。というのも、西のトルクメニスタンからイランに抜けるルートは鉄道がつながっていない。カスピ海をフェリーで渡ることはできるが、列車の旅ではない。残されたルートは、タシケントから北に向かい、再びカザフスタンに入り、カスピ海の北端をまわっていくルートになる。
昨日、タシケント駅で、アトゥラウという街までの切符を買うことができた。そこまで2泊3日である。その先はうまくつながるかわからない。ここはウズベキスタンで、カザフスタンの列車になってしまうのだ。
はたしてスムーズにロシアのアストラハンに抜けることができるのか。でたとこ勝負の旅でもある。そして治安が安定しないカフカス地方を通過して、アゼルバイジャンのバクーを目指すことになる。
こんな地名を聞かされても、いったいどこなのか想像もつかないかもしれない。僕にしても、はじめての土地ばかりだ。カスピ海周辺や中央アジアの地図を見てもらうしかないルートである。
今夜、再び、ロシア製の古びた列車に乗ることになる。明日はまた、40度を超える熱気に包まれるのだろう。そう考えただけで気が重くなってくる。
(タシケント。2010/9/3)
日本を発って2週間が過ぎた。
中国のウルムチから2泊3日、列車に揺られ、カザフスタンのアルマトイ。そこからさらに2泊3日、ロシア製の列車でウズベキスタンのタシケント。やっとここまで来たのだが、全行程の半分を少し超えた程度だ。
アジアはやたら広い。
延々と続くステップを列車は粘り強く走り続ける。しかし車内は大変である。
まず暑い。ウルムチが思っていたより快適で、「これは楽かも」と期待を抱いてしまったが、西に向かうにつれて気温がぐんぐんとあがる。日中の気温は40度を超え、冷房のない車内は炎熱状態になっていく。コンパートメントのなかにいることができず、少しでも風の通る廊下に立ち続けるしかない。座る場所はどこにもなく、ただ、人の気配のないステップを眺めながら立って数時間。足が疲れてベッドに戻るが、やはり暑くてまた廊下に戻る。そんな旅が5日も続いた。
これでもウルムチから最も早い日程でタシケントに辿り着いた。日本で得た情報では、アルマトイからタシケントまでの直通列車はないということだった。しかしアルマトイの駅で聞くと、ロシアのノボリイビスクからタシケントに向かう列車に乗ることができるという。幸運だったが、それでもこれだけの日数がかかってしまう。
やはりアジアは広い。
救いは朝の気温だけである。乾燥地帯の寒暖差は激しく、朝方になると20度を下まわるような涼しさになる。深夜、小さな駅に停車すると、虫の鳴き声が聞こえてくる。これでも夏は終わりかけているのだ。
これから北上を開始する。というのも、西のトルクメニスタンからイランに抜けるルートは鉄道がつながっていない。カスピ海をフェリーで渡ることはできるが、列車の旅ではない。残されたルートは、タシケントから北に向かい、再びカザフスタンに入り、カスピ海の北端をまわっていくルートになる。
昨日、タシケント駅で、アトゥラウという街までの切符を買うことができた。そこまで2泊3日である。その先はうまくつながるかわからない。ここはウズベキスタンで、カザフスタンの列車になってしまうのだ。
はたしてスムーズにロシアのアストラハンに抜けることができるのか。でたとこ勝負の旅でもある。そして治安が安定しないカフカス地方を通過して、アゼルバイジャンのバクーを目指すことになる。
こんな地名を聞かされても、いったいどこなのか想像もつかないかもしれない。僕にしても、はじめての土地ばかりだ。カスピ海周辺や中央アジアの地図を見てもらうしかないルートである。
今夜、再び、ロシア製の古びた列車に乗ることになる。明日はまた、40度を超える熱気に包まれるのだろう。そう考えただけで気が重くなってくる。
(タシケント。2010/9/3)
Posted by 下川裕治 at
12:00
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