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ナムジャイブログ

2010年10月25日

僕らの旅はかなりゆっくりだったらしい

 アルメニアのギュムリから、グルジアのトビリシに戻ることにした。列車は夕方5時の発車だった。僕はそれに乗るかどうかで悩んでいた。列車でユーラシア大陸を横断する旅である。列車に乗るのが筋だろう。
 疲れていた。
 その日、ギュムリに着いたのは、午前4時だった。その前にグルジアからアルメニアへの入国手続きがあった。僕らは国境でビザもとらなければならなかった。それが終わったのが午前2時。僕らはあまり寝ることができずに、ギュムリに到着した。
 駅の待合室で夜明けを待った。
 寒かった。
 グルジアに比べると、アルメニアの標高は高い。駅のベンチで横になったが、ほとんど眠ることができなかった。
 そして夕方5時発の列車。その時間を推し測ると、トビリシに着くのは、午前2時ぐらいになる。
「また駅で夜明けを待つことになる……」
 気がめいった。ロシアのアストラハンを出発したのが、午前4時だった。ほぼ徹夜の感じでアゼルバイジャンのバクーに着いた。そしてその日の夜行でトビリシ。そして夜行でアルメニア……。揺れないベッドの上で眠りたかった。
「ひとり50ドルで行くよ」
 昼飯でも食べようとギュムリの繁華街までやってきた僕の耳に、タクシー運転手が囁くようにいう。たしかにギュムリからトビリシは、300キロほどしか離れていない。タクシーが走ってもおかしくない。
 タクシーの誘惑に負けた。
 快適だった。整備された道が、丘陵地帯に延びている。そこを時速100キロを超えるスピードで進んでいく。
 速かった。
 列車のスピード感覚が身についてしまった体は、100キロという速度についていけない。
 出入国もあっという間だ。これまでは列車の乗客全員が終わるのを待って発車するということの繰り返しだったが、今回はカメラマンとふたりだけである。さして時間もかからないのだ。
 4時間でトビリシの街に着いてしまった。
 昨夜、僕らは8時間をかけて列車に揺られた。その距離を車なら4時間……。
 僕らはなにか、拍子抜けしたよう気分だった。これまでの僕らの旅は、どうもそんな速度だったらしい。時代は列車から車へと着実に移っているようだった。
 夕方にトビリシの街に着いてしまった。
 トビリシは美しい街だ。中央を川が流れ、その周りに街が広がっている。城壁に上がり、ぼんやりと夕陽を眺めていた。
 サハリンを出発して、もう何日めだろうか。
 今日は揺れないベッドで眠ることができる。
        (トビリシ。2010/9/17)
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(1)

2010年10月18日

虐殺の歴史のなかで線路は錆びついていた

 目的地はアルメニアのギュムリだった。アルメニアの首都であるエレンバンより列車で4時間ほど手前の駅だった。かつてトルコ側を出発した列車は、このギュムリに出た。そこからトビリシに向かったのだ。
 この国境が閉鎖された背後には、アルメニア人虐殺の問題があった。トルコとアルメニアの間で主張は食い違う。しかし60万人から80万人が犠牲になったと見る人が多い。
 虐殺が起きたのは19世紀末と20世紀初頭である。現在のトルコ領内にいたアルメニア人が強制移住や迫害を受けた。トルコ内では少数派で、アルメニア正教というキリスト教を信ずるアルメニア人に対し、多数派イスラム教徒であるトルコ人の迫害が続いた。そこにはアルメニアの独立運動も絡んでいた。アルメニア人は、ナチス・ドイツが行った大虐殺に近いものだと考えている。
 長く閉鎖されていた国境は、2009年、当然の国交樹立で風向きがかわった。まずトルコとアルメニアを結ぶ鉄道の再開が約束された。
 この路線がつながれば、ヨーロッパとアルメニア、グルジア、アゼルバイジャンといった国々が、鉄道で結ばれることを意味した。
 僕らはギュムリ駅からタクシーをチャーターして、国境に向かった。
「ここだよ」
 ドライバーが車を停めたのは、牛の放牧場だった。放牧場を仕切っている柵だと思っていたものが、国境だったのだ。
「ロシア」
 ドライバーは指さした先には見張り台があった。そこでロシア軍兵士が警備にあたっていた。牧場のなかには、草でカモフラージュした戦車も2台あった。
 トルコとアルメニアの国境──。アルメニア側を守るのは駐屯するロシア軍だったのだ。
 アルメニアはそういう国だった。
 車はアフクリアン駅という表示に沿って脇道に入った。しばらく進むと、線路をまたぐように橋脚が組まれ、そこに錆びついたクレーンがとりつけられていた。
 ここだった。ロシア側の広軌からヨーロッパの狭軌へ、列車の台車を替える場所だった。ロシアの線路幅は、ヨーロッパのそれに比べるとかなり広い。そこを走ってきた列車は、ここでヨーロッパ型の狭い線路幅に合わせた台車に交換していたのだ。
 クレーンの一部は新しいペンキが塗られていた。国交が樹立し、ここを列車が通るようになれば、台車のつけ替え作業が再開される。その準備に入っていたようだった。
 しかし塗られたペンキは一部だった。途中で作業は中断してしまったのだ。雑草が生い茂るホームに立ってみる。錆びついた線路の間も草で埋まっていた。
 欧米の後押しで成立した両国の雪解けは、あっという間に障害に乗りあげてしまった。虐殺という重い歴史が頭をもたげてきてしまったのだ。
 この路線の再開は難しそうだった。残るルートは、グルジアとトルコの間だった。僕らは再び、トビリシに向かった。
        (ギョムリ。2010/9/17)
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(1)

2010年10月11日

紛争地帯の狭い回廊を列車は進む

 アゼルバイジャンのバクー駅から、グルジアのトビリシ行きの列車に乗った。
 バクー駅には始発駅の趣があった。線路は北のロシア方面、南のイラン方面、西のグルジア方面に延びている。しかし東側はカスピ海になってしまう。ヨーロッパから中央アジアをめざそうとすると、ここが終着駅である。
 しかし線路はあっても、列車の運行は少なかった。北側のロシア方面はチェチェンやダゲスタンというテロ頻発地域になる。僕らもそのテロのとばっちりを受けていた。南に向かう線路はイラン手前でこと切れている。
 西側エリアも政情不安を抱えていた。トビリシに向かう線路の南側は、地雷原が広がっていた。アルメニアがアゼルバイジャンに侵攻した一帯である。その向こうにはアゼルバイシャンの飛び地もある。北側は南オセチアなど、コーカサスの紛争地帯である。
 バクーからグルジアに抜ける線路は、紛争地帯に挟まれた、狭い回廊に敷かれている。
 しかし車内の空気は平穏だった。微妙なバランスが支配していることを忘れそうだった。イミグレーションや税関職員の顔つきや態度から威圧感も薄れていた。
 国境を通過する時刻も午前中に設定されていた。乾燥地帯を抜け、ブドウ畑やオリーブ畑が車窓に広がっている。
「これが普通なんだよな」
 緩やかな丘陵地帯を眺めながら呟いていた。
 中央アジア、そしてカスピ海沿岸……。そこを覆う自然は過酷だった。国境を通過するときは無言の圧力があった。そういったストレスが車内から消えていた。
 列車は予定通りにトビリシ駅に着いた。その足で切符売り場に並んだ。ここから南下し、アルメニアに入る。無駄だとわかっていたが、アルメニアとトルコの国境にいってみたかった。そこにはかつて、トルコからアルメニアに抜けていた鉄道の線路が残っているはずだった。いや、その線路は修復が進んでいるのだろうか。
 ユーラシア大陸の東端から西の端までの列車旅──。それを思いついたのが、この国境だったのだ。
 昨年、トルコとアルメニアの国交が樹立した。そしてこの国境を、国際列車が走ることになっていたのだ。   
        (トビリシ。2010/9/16)
  

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2010年10月04日

ロシアを脱出にた先にあったバクーバブル

 アストラハンに戻った僕らは、オーバーステイというトラブルに巻き込まれることになる。僕らのミスに端を発したものだったが、そのいきさつは、とてもこのボリュームでは書ききれることではない。やがてこの旅は本にまとまるので、そちらで読んでもらうことにして、旅を進めることにしよう。
 ロシア出国拒否に遭った僕らは、飛行機でアゼルバイジャンのバクーに出るしかなかった。午前4時、42人乗りというプロペラ機は、アストラハンの空港をのろのろと飛び立った。乗客は9人しかいなかった。
 さして離発着便が多くないアストラハンの空港で、なぜ午前4時にスケジュールを設定したのか、首を傾げてしまう便である。もっといい時間帯なら、少しは乗客も増えると思うのだが。
 バクーの空港に着いたのは午前6時だった。時差の関係で午前7時と教えられたが、まだ暗い。やっと昇りはじめた朝日を眺めながらバクー市内に入った。
 戸惑っていた。
 僕は13年前、この街を訪ねていた。旧ソ連から独立してそれほど年数が経ってはいなかった。石造りの建物には、ソ連軍と戦った弾痕が生々しく残っていた。雑駁な街はイラン人を思わせる顔つきの人々がひしめいていた。
 ところが空港からの道は整備され、1000年も昔からあるという旧市街は、みごとなばかりに修復されていた。もう、一人前の観光地である。
 その背後には高層ビルが並び、建設中のビルもあちこちに見える。中心街にはヨーロッパのブランドショップが並んでいる。
 バクーバブル──。
 僕は何度もこの言葉をかみしめながら街を歩いた。
 石油だった。カスピ海油田をめぐって、世界の金が流れ込んでいた。カスピ海の浜は緑豊かな公園になり、格好のデートコースになっていた。ロシアを脱出した僕らは、居場所すらみつからないような感覚に襲われるのである。
 街には物資が溢れている。夕方になると、公園のなかのテラスに男たちが集まってくる。ラマダン中だというのに、そんなことは別世界のことのようにビールを呷るイスラム教徒の男たち。
 その自由さに、僕は改めて、ロシアを抜けたことを確認する。カスピ海の風に吹かれて飲むビールはなかなかうまい。
         (バクー。2010/9/15)
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(3)