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ナムジャイブログ

2010年11月29日

マルセイユはゴミに埋まっていた

 季節はずれのリゾートは寂しいものだ。ニースの周辺には、モナコ、カンヌといった僕でもその街の名前を知っているリゾートが続いている。しかしそんなきらびやかなイメージは、夏に限ってのことらしい。
 街には冷たい風が吹き、雨まで降ってきた。こんな時期に来るところではないらしい。
 列車旅にも暗雲が垂れ込めていた。ユーロ圏全域で起きたストライキだった。これは年金の需給年齢を上げることに反発したストライキだった。とくにフランスでトラブルが起きていた。
 ニース駅。僕はここからポルトガルまでの切符を買おうとした。しかしそれどころではなかった。
 ルートはまずマルセイユに出て、そこからボルドー。南下を開始してスペイン、ポルトガルに向かう方法が一般的のようだった。しかし駅員は、コンピュータの画面を僕のほうに向けて、
「ほらね」
 といった。マルセイユからボルドーまでの区間が、画面に出てこないのだ。
「とにかく切符を手配できない。たぶん、ストライキの影響だと思う」
 公務員のストライキの影響が列車に出ていたのだ。
 しかたなかった。僕は翌日のマルセイユまでの切符を買うしかなかった。うまくいけば接続するかもしれないと早朝便を選んだ。
 まだ暗いニースの駅で列車を待った。定刻に入線し、乗り込んだのだが、いっこうに出発しない。ときおり、車内放送はあるのだが、フランス語だけで様子がつかめない。女性の車掌が現れ、また説明を繰り返すのだが、やはりフランス語。乗客はただ聞くだけで、文句ひとついわない。
 結局、ニース発は1時間遅れ。マルセイユに着いたときは1時間半近く遅れていた。
 急いで切符売り場に並んだ。しかし長蛇の列である。どうも切符を売る職員も少ないらしい。そこで1時間ほど待ったが、その間にボルドー行きの列車の発車時刻はすぎてしまった。はたして運行されているかもわからなかったのだが。
 翌日の切符しか買うことができなかった。
 マルセイユの街にでた。駅から坂道が港に向かって延びている。きれいな街のはずだった。しかし広がる街の光景に目を疑った。
 きたないのだ。
 路上にゴミがあふれているのだ。
 これもストライキだった。マルセイユ市のゴミを回収する職員がストライキに入り、もう2週間もゴミが放置されているのだという。
 積み上げられたゴミの一部は、燃えた跡が黒くなっている。浮浪者が暖をとったらしいのだ。ネズミが路上を走りはじめているという。街にはペストの噂も流れていた。
 そのなかを宿を探して歩く。風に舞ったゴミが飛んでくる。
 大変なことになっていた。
       (マルセイユ。2010/10/26)
  

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2010年11月22日

僕が乗る車両は連結されていなかった

 列車が遅れ、通過するはずだったブルガリアのソフィアに途中下車することになってしまった。日本人はビザをとる必要はなかったが、もしビザが必要な国だったら……。列車の遅れとは、そんな危うさももっていた。
 セルビアのベオグラード行きは、その夜に出発することになった。再び寝台車の夜である。翌朝、ベオグラード駅で、イタリアのベネチア行きの切符を買った。
 イタリア──。心が軽くなるのがわかった。遠くシベリアからここまで、トルコを除いて、すべて旧社会主義圏を列車で越えてきた。それぞれの国には、それなりの自由と秩序があった。しかし鉄道という国家管理の色彩が強い世界は、まだ多くの社会主義を引きずっていた。
 いや、そんな社会分析の話ではない。単純に旅の終わりが見えてくるような気がしたのだ。イタリアの先はフランス、そして……。イタリアは訪ねたことがない国だったが、旅の終わりにつながっているような気がした。
 だが東欧や旧ユーゴスラビア諸国は、そう簡単に、僕をイタリアに出させてはくれない。
 ベオグラードから乗った車内で、車掌はこう伝えてくれた。
「この列車はザグレブまで。でも心配しないでいい。接続列車があるから」
 僕はクロアチアの首都、ザグレブでまたしても途中下車をしなくてはならなかった。列車は夜の10時すぎにザグレブに着いた。寂しい駅だった。僕は水を買いたかったのだが、手許にはユーロとドル、そしてセビリアの金しかない。駅前の店に入ったが、どの紙幣を見せても首を振るだけだった。
 ホームに戻った。どうもブダペストからやってくる列車が接続するようだった。列車が入線し、僕は切符に印字された車両番号を探した。先頭の気動車に近づくにつれて、426、425、424と車両番号は若くなっていった。そしてその先に気動車が連結されていた。
「ん?」
 切符に視線を落とす。車両番号は423。僕が乗るはずの車両はみつからない。424の車両のデッキで切符をチェックしていた女性の車掌に、切符を見てもらった。423だからこの前の車両……といった感じで身を乗り出した。
「ワオ」
 僕が乗る車両は連結されていなかったのだ。どうも忘れたらしい。車掌たちが集まってきた。しかし表情は暗くなかった。だいたいブダペストやザグレブから列車でベネチアに向かう人などそう多くないようで、車内はすいていたのだ。結局、僕は424車両で寝ることになった。
 翌朝、ベネチアに到着。すぐに切符売り場に行くと、ミラノ、ジェノバ、ベンティミーリアで乗り換え、1日でニースまで行くチケットをつくってくれた。僕は旧社会主義エリアを脱出したようだった。こういうチケットがすぐに発券される世界に入ったのだ。しかしそのおかげで、イタリア料理は、ミラノの乗り換え時間に、駅にあったピザリアというチェーン店で急いで食べたピザだけだった。
 夜の8時近くにフランスのニースに着いた。しかし季節はずれのリゾートは来るものじゃない。街でレストランを探したのだが、開いていたのは、できあいの料理を温めるだけという中華料理屋だけだった。従業員はタイ人。僕は味の濃い焼きそばを啜るしかなかった。
         (ニース。2010/10/25)
  

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2010年11月15日

ベオグラード行きは発車してしまった

 トルコの列車は、なにもかもが新鮮だった。それまであまりに長く、ロシア製の列車に揺られてきたからかもしれない。
 車掌も少なかった。検札はするが、駅に停車したとき、ドアをあけるのも客だった。中国からロシア……。車内では車掌の目が光っていた。どこか管理されている世界でもあった。僕らはそんな世界から、ようやく脱出したらしい。
 車内販売や駅の売店も少なくなった。食事は食堂車──。そんな世界だった。僕らはこれまでの列車旅よろしく、カルスの街で、パンやチーズ、サラミなどを買い込んでいた。それを車内で食べることが、なんとなく恥ずかしい世界だった。
 考えてみれば、これが普通なのだろう。
 なだらかな丘陵が続くトルコの風景は美しかった。ポプラの葉が黄に色づく農村が延々と車窓に広がっていた。
 気になることがあった。列車はすいていたが、乗客の半数近くが、ヨーロッパからやってきたバックパッカーだったのだ。中国から列車を乗り継ぎ、クリスマス前にイギリスに帰るという青年。トルコ内を列車でまわっているフランス人もいた。僕らは列車にこだわった旅を続けていたが、彼らは単純に安さに惹かれて列車を選んでいた。バスよりも安いのだ。しかしトルコ人の利用は少なかった。理由? 簡単なことだった。列車は遅れるのである。それが嫌う原因だった。
「アドベンチャー」
 どうもそれは、列車の遅れをさしているようだった。
 僕らは幸運だったのだろうか。カルスを発車した列車は、2日後の朝、予定より2時間遅れてイスタンブールのハイデラパス駅に到着した。ボスポラス海峡に面した駅である。この程度の遅れならなんの問題もない。船で海峡を渡り、イスタンブール駅から、セビリアのベオグラード行きに乗る。トルコの列車だった。深夜にトルコを出国し、ブルガリアに入って夜が明けた。この時点で、すでに4時間遅れていた。
 列車がソフィアに到着する少し前、車掌が僕らのところにやってきた。
「ベオグラード行きはもう発車してしまった」
「はッ」
 どうも僕らは、ソフィアでベオグラード行きに乗り換えることになっていたらしい。ところが列車が大幅に遅れ、ベオグラード行きは待ちきれずに発車してしまったようだった。
「で、僕らは……」
「後の列車を手配します。それまでソフィアにいてもらうことになるんです」
 アドベンチャーとは、こういうことをいっていたのだった。
        (ソフィア。2010/10/22)
  

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2010年11月08日

それはアドベンチャーだ

 車はグルジアとトルコの国境に向かって、未舗装の道を進んでいた。暗闇のなかに、車のライトの筋だけが見える。ひとつのピークを越えると、斜面にへばりつくようにいくつかの灯りが見えた。
 あれが国境?
 車は暗いゲートの前で停まった。ここがイミグレーションの入り口なのだろうか。しかし周囲に人はいない。車もない。トルコ側に抜ければ、車があるのかもしれない……。しかし、なかったら、僕らはどこへいったらいいのだろ。
 不思議だった。いったいどこにいたのかわからないのだが、突然、1台のワゴン車が現れたのである。男がふたり乗っている。車が通るのを目にして、追いかけてきたのだろうか。
「トルコまで行く」
 ひとりの男がいった。僕らの立場は弱かった。僕らもトルコに抜けたかった。しかしその足は、目の前のワゴン車1台しかない。値切ろうにも、ほかに選択肢がないのだ。トルコの鉄道駅があるカルスまで170キロ──。
 120ドルで手を打った。
 相場より高いことはわかっていたが、ほかに方法がなかった。ガソリンはポリタンクで買っていた。車を斜面に停めて傾けないと、ガソリンが入らない。これがカルスまで走るんだろうか……。
「星がきれいだ」
 ワゴン車の窓から夜空を眺める。だいぶ気温が下がってきた。国境から一気に坂道を降り、高度が低くなってきたというのに、気温は下がる一方だった。僕らは内陸に向けて進んでいるということらしい。
「カルス」
 運転手がはるか前方の灯りを指差していった。僕は時計を見た。夜の11時。今朝、トビリシの駅で、ヴァレ行きの列車は運休になったと聞いてから12時間しかたっていなかった。
 やはり車の移動は抜群に早い。世界はもう、そういう時代になっているのだろうか。
 翌朝、僕らはカルス駅の切符売り場にいた。イスタンブールまでの列車の切符を買うためだった。駅員が紙に書いて説明してくれる。
──スタンダードタイムで37時間30分。しかしときどき遅れて42時間かかることもある。
 トルコに入国するとき、イミグレーションの係官が口にした言葉を思い出した。
「今日はどこまで?」
「カルスまで」
「それから?」
「イスタンブール」
「飛行機で?」
「いえ、列車で」
「それはアドベンチャーだ」
「アドベンチャー?」
 その意味がわからないまま、列車は定刻の午後3時15分、カルス駅を出発した。
        (カルス。2010/10/19)
  

Posted by 下川裕治 at 15:00Comments(2)

2010年11月01日

2ヵ月前に列車は運休になっていた

 悩んでいた。グルジアのトビリシから先の鉄道ルートだった。
 アルメニア方面は閉ざされていた。トルコ方面への鉄道はあるが、国境まで。その先はトルコの鉄道駅まで陸路を進むしかなかった。ロシア方面は絶望的だった。線路は延びているのだが、グルジアからの独立を主張するアブハチア共和国を通らなければならず、列車は運行されていなかった。グルジアとロシアは緊張関係が続いている。国境に近づくこともできなかった。
 僕らは仕事の都合もあり、いったん日本に戻った。ルートの確認も必要だった。
 トビリシから国境のヴァレへの鉄道に乗ることにした。そこから陸路でトルコのカルスに出、トルコの鉄道に乗るルートである。ヴァレとカルス間の鉄道建設がはじまっているとも聞いた。
 2週間後、僕らは再びトビリシ駅の切符売り場の前に立った。
「ヴァレまで今日の切符を?」
「ありません」
「はッ? 満席?」
「いえ、列車がないんです」
「はッ?」
 2週間前、この切符売り場でアルメニアのギュムリ行きの切符を買った。そのとき、窓に時刻表が貼ってあり、そこにはヴァレという行き先と時刻まで出ていた。その時刻表はまだ貼ってある。
「それは古いものなんです」
「……」
「乗客が少ないんで、2ヵ月前に運行が中止されました」
 ポプラの木々がみごとに色づいていた。そのなかを、ミニバスは線路と絡むように進んでいく。ヴァレまでの線路は、貨物の運行はあるようで、駅には長い車列があった。だが客車はない。
 線路をぼんやり眺めるしかなかった。
 2ヵ月前ならこの線路を走っていた……。
 しかしグルジアの風景は息を呑むほどの秋一色である。紅葉の谷をミニバスは登っていく。終点のアハルツィヘからタクシーに乗り換えた。
 日が落ちた。ヴァレの村を過ぎ、タクシーは真っ暗な道を進んでいく。対向車は1台もない。道の舗装もなくなった。周りに人家はなく、灯りひとつ見えない。
 この先にグルジアとトルコの国境があるはずだ。しかしこの暗闇のなかに、イミグレーションは開いているのだろうか……。
        (トビリシ。2010/9/18)
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(0)