インバウンドでタイ人を集客! 事例多数で万全の用意 [PR]
ナムジャイブログ

2010年12月27日

「人間嫌いの人恋し」の忘年会

 忘年会が嫌いだ。
 これまでも、なにかの口実をつけて避けてきた。年末に海外に出ることがあると、どこかほっとするところがあった。
「これで忘年会をいくつかキャンセルできる」
 宴会というものが嫌いなのだ。パーティーなどというものは、できるだけ避けようとする。僕は本を書いているが、出版記念パーティーというものも開いたことがない。ひょんなことから、出版記念の会になってしまったことが1回だけあるが。
 大勢の人がいるなかで、気を遣うのが嫌なのだ。知らない人と出会い、世間話をするのも気が重い。
「出会いが大切だ」
 と人はよくいう。わからないわけではない。しかしその場が、忘年会やパーティーの場とは思えないのだ。
 自分がそうだからというわけではないが、世間の人は皆、宴会やパーティーが好きなのだろうか。誰だって、2、3人の飲み会のほうが楽しいのではないか。
 こういうことを書くと、僕の甘さを露呈しているようなものだと思う。
「私だって、忘年会やパーティーは気が重い。でも仕事。つきあいもある。それにそんな出会いから仕事が生まれるかもしれない。厳しいんですよ。ちょっとでもチャンスがあれば、それを大切にしなくちゃいけない」
 それは選んだ仕事の違いかもしれない。ものを書くということは、「人間嫌いの人恋し」といった性格でなければ続かない。評価されるのは原稿だけであって、人間関係は二の次のようなところがある。人間的に破綻していても、面白い原稿さえ書ければ認められる世界なのだ。
 人とつきあうことが苦手だから、人が書けるということかもしれない。甘いとわかっていても、どうすることもできないのだ。そんな自分を認めているわけではない。仕事と割り切って、宴会をうまくこなせる人たちへのコンプレックスが物書きのなかには渦巻いているのだ。
 ひとつだけ、すすんで加わる忘年会がある。中野で開かれる三線愛好会の忘年会だ。これは実に気楽である。三線を弾きながらの沖縄民謡を習っている人たちと、関係者が集まるのだが、皆、なにがしか芸がある。ギターを演奏する人もいれば、スタンド・バイ・ミーを歌う人もいる。いってみれば、大人の学芸会みたいなものだ。
 本人が楽しければそれでいいのだ。
 こういう会の原型をつくったのが、新里愛蔵という老人だった。僕は彼の本を書いたから、そのあたりがよくわかる。
 皆、楽しければそれでいい。
 僕は泡盛を飲みながら、その世界に浸る。なにも演奏できないから、ただ聴くだけだ。それなのに妙に楽しい。
 もの書きの忘年会はこのくらいがいい。
(2010/12/27)   

Posted by 下川裕治 at 13:03Comments(4)

2010年12月20日

旅の代償とはいわないが

 長い旅が終わり、日本に戻ると、山のような仕事が待っていた。わかっていたことでもあるのだが、来年の3月までに6冊の本を書かなくてはならない。そのうち1冊は共著だから荷は軽いが、それ以外は……。
 無理である。
 本というものは、原稿を書いただけでは終わらない。初稿、再校とゲラのチェックが続き、写真や装丁の打ち合わせもある。原稿を書き終えてから2ヵ月は、そんな作業に追われることになる。
 やわらかな冬の陽射しをぼんやりと眺めながら、「あの締め切りは延びるだろうか」などと勝手な皮算用を繰り返す。
 ほとんど葉が落ちた木を見ているうちに、旅の精算が終わっていないことに気づいた。7月から11月にかけ、いったい何カ国を土地を踏んだのだろう。アゼルバイジャン、グルジア、アルメニア、トルコ、セルビア、クロアチア、スロベニア……。それぞれの国で使った金は多くないが、それぞれに通貨があるから、両替レートを計算し、領収書の金額をエクセルに打ち込んでいかなくてはならない。それは気が遠くなるような作業である。
 そんなとき、妻と次女がロンドンに行ってしまった。いま、長女がロンドンにいる。彼女に会いながら、クリスマスはパリという日程をたて、僕が長い旅で貯めたマイレージを使ってでかけてしまったのだ。
 掃除、洗濯、猫の世話……。
 新潮社の缶詰部屋に入っていた。締め切りが迫った物書きが入る部屋である。外界とは遮断され、ひたすら原稿用紙に向かう。ときおり、編集者が、「進んでますか」などと顔を見せるだけである。
 そこから帰還すると、玄関に猫が座って待っていた。
 はじめからわかっていたことだから、旅の代償などというのはおこがましい。原稿を書いて飯を食っているのだから、素直に受け止めなくてはいけないこともわかっている。
 ぐずぐずいわずに、原稿用紙を埋めていくしかない。
 自宅の近くに教会がある。今日は日曜日だから、礼拝があり、賛美歌が流れてくる。クリスマス前だから、その練習にも熱が入っている。
「主は来ませり」
 猫は日溜まりで眠り惚けている。
(2010/12/20)   

Posted by 下川裕治 at 15:44Comments(1)

2010年12月13日

旅は終わった

 トンネルをいくつも越えた。山中に刻まれた線路の上を、列車はゆっくりと南下していく。山の中腹には靄が漂い、赤い屋根小さな家が点在している。ポルトガルが、こんなにも山がちな国だとは思わなかった。
 昨夜、スペインに入国し、リスボン行きに乗り換えた。快適なベッドで僕が夢をみている間も、列車は南西に向けて走り続けていた。
 早朝の5時頃、ポルトガルに入国したはずだった。イミグレーションや税関の職員に起こされることはもうなかった。考えてみたら、ユーロ圏のなかではじめて乗る夜行列車だった。出入国の手続きがないと、こんなにも穏やかに眠ることができるのだった。
 リスボンのオリエント駅に着いたのは、午前10時21分。時刻表通りだった。
 旅の終点はリスボンの街ではなかった。リスボンから西に延びる線路があった。リスボンの郊外電車のようなものなのだが、その終点のカスカイスという駅が、ユーラシア大陸の最西端の駅だった。しかしこれにも異説があった。シントラから大西洋に向かって走る路面電車があり、週末だけ運行されるのだという。その終点が最西端ではないか……と。
 そこにもまわってみるつもりだった。
 週末ではなかったが、動いているかもしれなかった。
 リスボン市内のカイス・ド・ソドレ駅から電車に乗る。線路はテージョ川に沿って延びていた。
 川といっても河口域で、まるで港のように広い。電車は4月25日橋を左手に見て、西に進んでいく。沿線はまさに港で、コンテナが積まれ、沖合には貨物船が何隻も停泊していた。
 シベリアのワニノの港を思っていた。そこを出発したのが7月のことである。仕事の関係で、途中で2回、日本に戻ったが、いまはもう10月の末である。4ヵ月もかかってしまった。いまごろワニノの港は凍りつき、マイナス20度を超す寒風に晒されているだろう。
 35分ほどで終点のカスカイスに着いた。東京の郊外駅のような小さな駅だった。
 もう、ここから先に線路はない。
 カスカイスは大西洋に面した小さな港町だった。リゾートでもあるらしく、小さなホテルが海岸線に沿って並んでいる。
 海が見えるテラスに座った。
 不思議な感覚だった。昨夜はしっかり眠り、疲れているわけでもなかった。しかしこのテラスに座ると、もう腰が動かなかった。
 観光客なら、ここからバスに乗り、ユーラシア大陸の最西端のロカ岬にいくだろう。僕らは路面電車も確認しなくてはいけないのかもしれない。
 しかし動く気力がどこからも湧いてこないのだった。旅を共にした阿部稔哉カメラマンの顔を見た。
「もういいよな」
「………」
 旅の作家なら、最後まで見届けないといけないのかもしれない。旅のカメラマンなら、最後までシャッターを押さなければいけないのかもしれない。
 しかし、どうしても、その椅子から立ちあがることができなかった。
        (リスボン。2010/10/27)
※この旅行記は来年の春、新潮文庫から発売される予定です。
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(0)

2010年12月06日

敷かれていたシーツに旅を思う

 ゴミに埋もれたマルセイユを出発し、ボルドーに向かう。方向からすると、ちょっと無駄のように思えるが、列車の本数や接続を考えるとこれしかなかった。
 ストライキでマルセイユ駅の切符売り場には長い列ができていたが、男性職員は親切だった。さまざまなルートを調べてくれた。TGVというフランスの新幹線でパリまで出る方法もあった。
「でもTGVは高いからな。できるだけ安くしたいんでしょ」
 僕の風体を見て、勝手にそんなことをいう。異存はなかったが……。
 こうしてマルセイユからボルドーに出、そこからスペインのイルンへ。そこでリスボン行きの夜行列車に乗り継ぐルートが決まった。チケットは通しで買うことができた。
 リスボンと印字されたチケットを手にしたとき、なんだか旅が終わったような気分になった。この先、どんなトラブルが待っているのかわからないのだが、ここはフランス、スペイン、ポルトガルである。ロシアのような理不尽なトラブルやコーカサスで味わった運休はもうないだろう。
 ストの影響で遅れるかもしれないと思っていたが、ほぼ定刻にボルドーに着いた。駅のレストランの定食は、ボルドーらしくワイン付きだった。
 夕方ボルドーを発った。TGVで一気に南下していく。やはり早い。夜の8時には、フランスとスペインの国境を通過し、イルンの駅に到着した。別のホームにリスボン行きの夜行列車が停車していた。それに乗り込んだ僕は、一瞬、戸惑った。これまで乗った夜行列車のなかでいちばん豪華だったのだ。部屋はふたり用の個室。室内に洗面コーナーがあり、すでにベッドメイキングもできていた。いままで上段に登るには梯子だったのだが、部屋には引き出し式の階段が収納されていた。車掌は僕らに鍵を渡しながら、「朝食は朝の8時からです。朝の8時にドアを叩きますから」といった。
 これまでもう数えるのも嫌なぐらい乗った夜行を思い出していた。
 ベッドにシーツが敷いてある列車など1回もなかった。いつも車掌がシーツや枕カバーをもってきて、自分たちで敷いた。車掌がドアをノックして起こしてくれることなどなかった。僕らはイミグレーションや税関の職員に無理やり起こされてきたのだ。
 朝食がついた夜行列車もはじめてだった。
「今晩はよく眠れそう」
「最後の夜行ですからね」
 列車はスペインの大地をゆっくり進みはじめた。
        (イルン。2010/10/26)
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(0)