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ナムジャイブログ

2011年03月28日

皆で頑張る国に帰ってきた

 ふつか前、ホーチミンシティから東京に戻った。その前はバンコクにいた。
 バンコクを発つ前の日の晩、タイ人と夕食をとった。テレビでは、東京で起きている水の買い占めの映像が映っていた。水道水に含まれる放射性物質の量が増えたからだ。それを見ていたタイ人がこういった。
「日本人はあんなに水を飲むのか?」
 彼は何回も日本に行っている。原発の話もタイの報道である程度は知っている。
 答えに困った。彼のなかに、「買い占め」という発想がないのだ。タイ人の多くは水道水を飲まない。あまりきれいではないのだ。飲み水は買う人が多い。しかしまとめて買うという話はあまり聞かない。食糧も安いときに多めに買う程度で、「買い占める」という発想はない。暑い気候である。ためた食糧は腐ってしまうという発想は刷り込まれている。そこに、先のことを考えて行動することが苦手という性格が加わる。だから日本人の行動がなかなか理解できない。
 翌日、ホーチミンでベトナム人の奥さんをもつ日本人からこんな話を聞いた。
「テレビで計画停電の報道があって、点灯しない信号が映ったんです。そのとき妻が、『どうしてこれがニュースになるの?ホーチミンシティじゃ珍しくないじゃない』って首を傾げているのんですよ」
 たしかに東南アジアでは停電は珍しくない。計画停電が日常に織り込まれている街も少なくない。
 焦る日本人の行動が理解できず、ぼんやりとテレビを眺めるアジア……そこから飛行機に5時間ほど乗って成田空港に着いた。
 都心に向かう電車は休日ダイヤで運行されていた。駅も薄暗い。エスカレーターも停まっていた。節電である。
 その日の夜、イベントがあった。会った人々が、「街が暗いでしょ」と口々にいった。その口調は、どこか申し訳なさそうに響いくことが気になった。
 日本人は皆、大震災の復興に向けて頑張り、不便さを我慢している。そういうことができる国民である。おそらく、これまでの世界の被災地とは比べものにならない早さで復興が進んでいるのだろう。ひとつにまとまることのできる国の強みである。
 しかし2ヵ月、3ヵ月という時間が流れるにつれ、その性格が足かせになっていくことも、また日本人は知っている。皆が復興に向かわなければいけないという思いがストレスになっていってしまうのだ。その重い空気を、僕は阪神・淡路の大震災で体験した。
 どこかの時点で、復興支援から自活の発想に切り替えていかないと皆が辛くなる。政府というものを信ずることができない国ばかり歩いていると、どうしてもその発想に傾いていってしまう。国を信ずることのできない人々のパワーに見倣うことも多い。
  

Posted by 下川裕治 at 11:23Comments(2)

2011年03月21日

フクシマから寒さが出ている

 バンコクにいる。
 タイ人に会うたびに地震の話を投げかけられる。皆、心配してくれている。
 ありがたいことだと思う。
 そして話は原発に移る。彼らは日本全域が危険だと思っている。放射能に汚染され、生きていくこともできない国になったような感覚で眺めている。
 タイのテレビを見る。レポーターが東京の山手線のホームに立ち、ガイガーカウンターのスイッチを入れ、放射能の数値を示す。
 レポーターは決死の覚悟で東京取材を進めているという緊迫感を伝えようとする。
 タイ政府は救援物資を運んだ飛行機で、日本にいるタイ人を本国に戻そうとした。危険な日本からタイ人を非難させようとしているのだ。
 タイには原発がない。
 無理もないことなのかもしれない。
 しかし彼らは、放射線や放射能に汚染された物質についての知識はほとんどない。原発という単語を知らない人も多い。すべてがフクシマになっている。
 それなりの知識があるタイ人に訊き、原発というタイ語を教えてもらった。単語は長いが、「ランシー」でだいたいの人がわかるのではないかといわれた。
 会うタイ人にこの単語を伝えてみた。しかしほとんどがわからなかった。そういうレベルの話なのだ。
 人のことはいえない。僕自身、原発については詳しくない。シーベルトという測定単位も今回、はじめて耳にした。放射線と放射能の違いもあやふやだ。原理に疎いから、どうしたら防ぐことができるのかという方法も受け売りにすぎない。しかしタイ人に比べたら若干の知識はある気がするが。
 今日、タクシーに乗った。運転手は僕が日本人とわかると、さっそく、地震、そしてフクシマに話になった。
「日本はすごく危険だ。ずっとバンコクにいたほうがいい」
「来週は帰るよ」
「嘘だろ。死に行くようなもんだろ」
「そんなことはないよ」
「あれだけ寒いんだから」
「………?」
「フクシマからどんどん寒さが出て、雪も降って、皆、死んじゃうんだろ」
「フクシマから寒さが出る?」
「そうさ」
 運転手は日本が寒いのは、福島の原発が原因だと思っているようだった。放射能は寒さのことだと思い込んでいる節がある。
「寒さとフクシマは関係ないよ」
「そんなことはない。テレビでそういっていたからな」
 いくら話しても無駄だと思った。
 タイ人は寒さを怖がる。一両日、バンコクは涼しい日が続いた。その原因もフクシマから発せられる寒さが原因だとまくしたてるのだった。
 笑い話ですますことができない状況がやはり切ない。
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(3)

2011年03月14日

東北にももうじき桜の花が咲く

 地震である。
 そのとき、東京のオフィスにいた。昨夜は電車が停まり、中野駅まで歩いた。僕は中野駅に自転車を置いていた。
 明治通り、早稲田通り……。どこも歩道は帰宅を急ぐ黒い人の群れで埋まっていた。
「二年参りのときの初詣のようだ」
 一緒に歩いた事務所のスタッフがいった。
 国内の携帯電話は通じないというのに、なぜかタイからの国際電話がよくかかってきた。タイ人たちは心配して電話をかけてきてくれた。どこか間延びしたようなタイ語にちょっと救われた。しかしなぜ、国際電話だけがかかってくるのだろうか。
 そしていま羽田空港にいる。
 これから那覇に向かう。少し前に出版した『新書 沖縄読本』にちなんだ講演を頼まれている。
 昨夜、東京の街を歩きながら、神戸の震災を思い出していた。本を書くために、地震後、1ヵ月近く神戸や芦屋を駆けまわっていた。
 膨大な援助物資が届けられた。その配分に市役所の職員は奔走することになる。徹夜が続いていた。
 全国からさまざまなものが届く。食糧は助かるが、衣類や生活物資は膨大な負担を現場に強いてしまう。正直なところ、衣類などはそれほど必要としない。なかには、捨てようとしたものを送ってくる人もいて、まるでゴミのような袋には、送った人の感性を疑ったこともある。
 何枚かの畳にも、市役所のスタッフは悩んだ。避難所の床は板だから寒い。たしかに畳はうれしいのだが、何百人もいる避難所に数枚の畳を持ち込んだときの、人々の反応を気にしたのだ。いったい誰が畳を使う権利を得たらいいのだろうか。避難民の心情は揺れている。そこに、争いの火種を持ち込むようなものではないか……。市役所のスタッフは悩んだ。
 送った人はよかれと思っているのだから、その気持ちを無駄にはしたくない。しかしなかなかすんなりと配ることができないのだ。
 東北地方には、今後、膨大な物資が届くだろう。
 地震の前では、人間はあまりに無力だ。科学は発達し、災害への対応が整えられても、今回のような規模の地震の前では、なす術もない。あっという間に、津波が町を襲っていた。そのスピードは、人間の対応をはるかに超えていた。
 どうしようもない虚しさが被災地を覆う。ときに人の人生すら左右していく。
 しかし人間はたくましい。そこからなんとか立ち上がろうとする。
 神戸の震災のとき、いちばんありがたかった援助物資のひとつに、花の鉢植えがあった。避難所に置かれた鉢植えに、避難民が水をあげていた。
 自然の前で人は無力だ。しかし打ちひしがれた心を救ってくれるのも、また自然なのだ。人がつくったものではない。
 東北にもまもなく春がくる。
 被災地にももうじき桜の花が咲く。
  

Posted by 下川裕治 at 14:00Comments(2)

2011年03月07日

ビジネスマンの性

 ひとりの元商社マンが亡くなった。境克彦。癌だった。
 彼はバンコクで新しい事業を立ち上げようとしていた。バンコクのロンポーマンションにレンタルオフィスを開設し、そこを中心にさまざまな展開を考えていた。
 会ったのは2ヵ月ほど前だろうか。1ヵ月前にも彼のオフィスを訪ねたが、体の節々が痛いと訴え、寝入っていた。そのすぐ後、定期検診を繰り上げる形で日本に帰ったが、バンコクに戻ることはできなかった。
 先週、見舞いに行こうと、奥さんに連絡をとると、すでに意識がない状態だった。
 病院の近くの喫茶店で奥さんに会った。聞いた彼の半生は、日本のビジネスマンそのものだった。
 境がタイに赴任したのは、1973年、34歳のときだった。日本経済がまだ輝いている頃である。僕がはじめてバンコクに向かったのは、その3年後。まだ大学生だった。
 日本人の知り合いに、シーロム通りやタニヤ通りを案内してもらった。そこで出会った日本人ビジネスマンは、体からエネルギーをパチパチと放電しているかのようだった。会社の海外進出を背負う男たちは、そのプレッシャーをものともしないようなたくましさをみなぎらせていた。
 毎晩のようにタニヤ通りで酒を飲み、翌朝は、酒臭い息を吐きながらも営業に走っていくようなタイプが多かった。
 ひねた学生だった僕は、そんな姿を斜に構えて眺めていたが、日本の経済は、彼らのエネルギーに支えられていたのだ。
 境はバンコクに13年も駐在した。そして日本に帰国後、選択退職制に応募し、会社を辞めてしまう。49歳のときだった。
 当時、元気なビジネスマンのなかに、そんなタイプがいた。現地では、社長業のような責務をこなし、さまざまな判断を自分で下してきた。しかし、東京の本社に戻ると、中間管理職である。なにかをしようと思っても、いくつかの手続きを踏み、会議を重ねなければならない。「こんなまどろっこしいことをやってられるか」というタイプは、会社という組織からスピンアウトしていったのだ。すでに勢いを失いはじめていた日本企業という経済環境もあった。
 境はバンコクに戻る。会社を立ち上げ、それから20年近い日々をタイを舞台に動きまわることになる。
 癌が発覚したのは、60代の後半だった。バンコクで手術を受ける。リハビリのために2年ほど日本に戻った。しかしその間に癌の転移がみつかった。手術で取り除いたものの、そのとき、境は腹をくくったような気がする。
 再びバンコクへ行く。
 そして新しい会社を立ち上げるのだ。静かに死んでいくことを選ばなかった、あの時代のビジネスマンの性。あの時代は、確実に終わりつつある。
   

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(2)