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ナムジャイブログ

2011年05月30日

アンコールワットの雨漏り

 最初のカンボジア入国は密入国だった。タイのアランヤプラテート周辺に、多くの難民キャンプができていた時期である。もう30年も前になる。以来、何回となくカンボジアは訪ねた。正式に入国したこともあれば、パスポートにスタンプが捺されない越境もあった。
 その間、1回もアンコールワットは訪ねていなかった。元々、遺跡や観光地には興味がない旅行者である。
 はじめて訪れたのは3年前である。バンコクのスワンナプーム空港が黄シャツ派に占拠され、シュムリアップ空港から日本に戻った。そのとき、はじめてアンコールワットを見た。そして先週……。
 シュムリアップに用事があった。その空き時間に向かった。アンコールワットには申し訳ないが、いつも「ついで」である。
 アンコールワットの最上階である第3回廊にいたとき、突然、スコールがやってきた。近くにいた欧米人が、口を開いた。
「アメージング」
 周りに広がる深い森を見下ろすと、降る雨は煙ように動いていた。雨脚は強かった。頂にある回廊から降りることができなかった。なんだか得をしたような気分だった。勝手に雨宿りを決めこんだ。
 回廊の端に座って休んでいたのだが、肩のあたりに水滴が落ちてきた。天井を見上げると、石が濡れていた。雨漏りである。この建物は、石を積みあげてつくられている。その隙間を伝って雨が漏れるらしい。
 サマルカンドのモスクを思い起こしていた。アンコールワットが建設されてから100年ほど時代は下るが、そのモスクの天井はドーム型に石が組まれていた。互いに支え合うような形である。力学的に優れた設計だった。乾燥地帯に建っていたが、雨が降っても一滴の水も漏れないのだろう。サマルカンドには、当時の天文台も残されていた。
 アンコールワットの建築法やゴシック建築は、そのつくり方が、なんとなく想像できる。基本的には石を削り、積みあげていく。そして表面には彫刻を施していく。人間が普通に考えれば、こういう建物ができあがっていく。その意味では、どこか親しみすら感じる。
 しかしイスラム建築は違う。みごとなシンメトリーや緻密な構造からは、数学の匂いが漂ってくる。イスラム建築はかなり高度な技術に支えられていたのだろう。
 イスラム教徒たちの発想に、首を傾げることがときどきある。彼らは僕らとは違う脳の回路をもっているような気になるのだ。
 それは、アンコールワットとモスクの違いにも映ってしまう。雨漏りのする構造からは、どこか東南アジアの匂いが漂ってくる。
 そんなことを考えさせる、カンボジアのスコールだった。
  

Posted by 下川裕治 at 14:41Comments(1)

2011年05月23日

マジェスティックホテル103号室

 憧れの文体というものがある。僕にとってのそれは、金子光晴であり、開高健である。その内容もさるものながら、彼らの文体がもつ息遣いとか間には太刀打ちできない。
 文章というものは、ときに立ち上がることができないほど重い内容を綴らなくてはならないことがある。書くほうは酸欠状態にようになりながら筆を進める。読むほうも息が詰まる。そんなとき、ふっと息を抜いてくれる間のようなものを、ふたりの作家は身につけていた。天性の重みと軽さである。
 金子光晴の『マレー蘭印紀行』と開高健の『輝ける闇』は、頻繁に本を開く。そしていつも打ちひしがれる。
「もっと文章がうまくならないといけないないんだよな……」
 ページをめくりながら自戒する。
 いま、ホーチミンシティにいる。
 この街では、いつもデタム通りのゲストハウスに泊まっていた。しかし今回、妻も一緒に来ている。彼女ははじめてのホーチミンシティで、マジェスティックホテルに泊まってみたいといった。妻も50代で、ベトナム戦争の影響を受けた世代である。
 開高健はこの戦争に従軍記者として向かった。同行したのは朝日新聞の秋元啓一カメラマンである。ふたりが当時、サイゴンと呼ばれたホーチミンシティで泊まっていたのがマジェスティックホテルである。
 今朝、ホテルのなかを歩いていると、103号室に前に、開高健が泊まっていたことを示すパネルが貼ってあった。
 開高健はこの従軍を元に、小説の『輝ける闇』を書いた。そして、それに続く『夏の闇』を書く。
 この一連の作品は、3部作の構成要素を含んでいたが、3作目はついに完成することなく、彼は他界してしまった。
 今回、日本を離れる前、僕は新潮社の缶詰部屋に入っていた。新潮社のそれは、会社の近くの一軒家である。1階と2階がある。
 この1階の部屋では、開高健のおばけが出るといわれている。3部作の3作目を書くために、開高健はこの缶詰部屋に7ヵ月こもったのだが、1行も書けなかった。おばけとは、本を書けない作家の苦悩なのか、本を書いてほしい新潮社の思いなのか。
 僕もしばしば、この1階の部屋に缶詰になる。僕は感性が鈍いのか、いまだにおばけには出会っていない。
 日本を離れる前、缶詰になったのは2階の部屋だった。
 来週、日本に戻るが、また缶詰部屋に入れられそうな気配である。
 開高健が泊まっていたマジェスティックホテルの103号室の前で、東京の缶詰部屋を思い出し、ひとり落ち込んでいる。
  

Posted by 下川裕治 at 11:18Comments(2)

2011年05月16日

ビエンチャンの朝

 天性の性善説主義者なのかと思うことがある。世界のさまざまな街を訪ねる。おそらくすべての街でいい印象をもってしまうタイプなのだろう。
「暮らしてもいいかな」
 などと、街の風景を眺めながら呟いているのだ。
「もう2度と行きたくない街です」
 という人がいる。その感覚が僕にはわからない。
 知らない街を訪ねるから、ぼられることも多い。目的地になかなか着くことができないこともある。そのときは大変なのだが、喉元すぎれば……ということになってしまう。
 おそらく僕の、街を受け入れるストライクゾーンは、ものすごく広いのだろう。
 こういう性格だから、旅がちな人生を歩むことができたのかもしれない。いや、旅がこういう人間をつくってしまったのか……。
 いまラオスのビエンチャンにいる。
 市街地のちょっといいゲストハウスである。ビエンチャンに長い知人に教えてもらった宿である。
 昨日、ベトナムのホーチミンシティから飛行機で着いた。
 これまでいつも、タイから陸路でこの街にやってきていた。思い返してみても、飛行機でビエンチャンに入った記憶がない。
 ベトナムから飛行機でやってくると、この街は別の顔を見せる。
 ラオスという国は、ふたつの顔をもっている。政治や社会の仕組みはベトナムに近い。しかし性格は、タイ人を数倍おっとりさせたようなところがある。そして、欲のないラオスの人々に接して、
「いい街だよな」
 と呟いているのだ。
 タイでのロングステイの謳い文句は、「南の国でのんびり」である。しかしビエンチャンから眺めると、タイのどこがのんびりなのかと首を傾げてしまう。とくにバンコクはいけない。のんびりの対極にあるような大都会に映ってしまうのだ。
 路上にテーブルを出した店で朝食をとった。人のあたりが、不安になるほどおとなしい。控えめである。店員は僕を避けるかのように店の隅に立っている。
「コーヒーをもう1杯」
 そんな注文もしにくいほどだ。
 年をとったら、こんな街がいい。いつ来ても、この街が気に入ってしまう。
 これからラオスは変わりますよ。そんな話を昨夜、さんざん聞かされた。そうだろうか……と思う。
 今日、バンコクに行かなくてはならない。ちょっと気が重い。
 気持ちのいい朝である。
  

Posted by 下川裕治 at 13:39Comments(2)

2011年05月09日

生タマゴが嫌いだ

 僕には縁遠いことに映る。
 焼肉屋のユッケである。あるチェーン焼肉店でユッケを食べた人が、腸管出血性大腸菌によって食中毒を起こし、すでに4人が死亡してしまった。
 僕の記憶にあるかぎり、ユッケというものを食べたことがない。だいたい焼肉店に行くということがめったにない。人に誘われて行く程度だ。自分から行こうとは思わない。
 草食系ということだろうか。だいたい著述業という職業が草食系の証のような気もする。五月晴れのなか、部屋にこもって原稿を書いているのだから、どう考えてもエネルギッシュではない。
 ユッケを食べたことがない最大の理由は生タマゴである。あれが嫌いなのだ。だからタマゴかけごはんも苦手だ。昨年、タマゴかけごはんがちょっとしたブームになったが、あのときはずいぶん疎外感を味わったものだ。スタンド式のカレー屋や立ち食いそば屋で、生タマゴを頼んで割り入れる人がいるが、僕にはできない。
「どうして、そういうことをするの?」
 隣に立つ男性に向かって、心のなかで呟いている。
 我が友は沖縄のオバァやオジィである。沖縄で老人のことをこう呼ぶ。あるとき、家の人が食事に生タマゴを出した。するとオバァはこう叫んだという。
「おまえは私を殺す気か」
 沖縄は暑い。冷蔵庫もなかった時代を生きてきたおばぁたちである。生タマゴはたしかに腐ると危ない。
 もっとも僕は、危ないから……と嫌っているわけではない。味と食感が嫌いなのだ。
 タマゴもできるだけ食べないようにと思っている。そう思ったのはギリシャだったろうか。いやウズベキスタンだったろうか。ホテルに泊まると、バイキングスタイルの朝食がつくことが多い。並んでいたのは、酸味の効いたチーズ、ハム、ヨーグルト、オリーブ、野菜、果物だった。西欧やアメリカ、アジアのホテルの朝食には必ずついてくるタマゴがない。
「人間が食べる食事って、こういうもんじゃなくちゃいけないよな」
 タマゴは鶏のタマゴなのである。無精卵が多いが、本来は生命が誕生するタマゴなのだ。そういうものを、人間は食べてはいけないような気がするのだ。それが生き物と共存する人間が生きる筋ではないか……。木の実や穀物も種なのだが、なにか感覚が違う。
 中国のホテルもバイキング形式のところが多いが、必ずゆでタマゴが盛られている。これがなくては中国人は納得しない。そして朝だけで、5、6個は平気で食べる。部屋で食べるのか、昼食用なのかは知らないが、朝食を終えて出ていくときには、手にさらに数個のゆでタマゴ。彼らはお粥や包子ではなく、ゆでタマゴで生きているような気になる。だから中国人にはついていけないのだ。
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(4)

2011年05月02日

ひねくれ者のゴールデンウイーク

 日本はいま、ゴールデンウイークのただなかである。
 サラリーマンを辞めてから、連休とか休みというものと縁がなくなってしまった。仕事柄、海外に出ることは多いが、こういう時期は決まって日本にいる。
 航空券が高いからだ。それに席もとりにくい。夏休み、年末年始、そしてゴールデンウイークはいつも日本にいることになる。
 休日という概念すらなくなってしまった。世間の休日も、ただ、あたり前のように仕事をしている。いまも毎日、原稿書きに追われている。
 出版社の編集者は、基本的にサラリーマンだから、ゴールデンウイークは休暇をとる。そして締め切りは連休明けに設定されることが多い。
 結局、原稿用紙に向かうことになってしまうのだ。
 こういう生活を20年以上続けていると、性格というものがひねくれてくるような気がする。普通の暮らしができない体になってしまったといってもいいかもしれない。
 いま、信州の安曇野にいる。というと国内旅行と思われるかもしれないが、まったく違う。僕の実家が安曇野にあるだけのことだ。今回はいくつかの用事があり、数日を安曇野ですごすことになった。
 しかし世間はゴールデンウイークである。昨日、そばを食べにでかけた。実家の近くにある古民家をそば屋にした店だという。信州はそばの産地で、駐車場には、県外ナンバーの車がいっぱい停まっていた。
 建物は県の有形文化財に指定されているのだという。入ると土間があり、そこに土産品が置いてある。そばを食べるのは座敷。地元の名家だったのだろう。太い柱を使ったつくりはなかなかみごとだった。
 座敷に入ると、テーブルがいくつもおいてある。観光客はそこに座ってそばを食べる。
 一瞬、どこにいるのかわからなくなった。
 沖縄の赤瓦の民家を使ったそば屋にそっくりなのだ。もちろんそばは違う。家の構造や木彫りの装飾も違う。しかし、そこに流れる空気が一緒なのだ。作務衣のような制服を着た店員が注文をとりにくる。そこまで似ている。メニューの少なさも一緒だ。日本の観光地では、いま、こういう店が流行っている。
 日本という国は、どうしてこう一緒になってしまうのだろう。観光地の民家を使った店は、ことごとくこの雰囲気なのである。
 信州は震災の影響は受けていない。電気も中部電力の管轄だから、とりたて節電する必要はない。しかしスーパーやコンビニ、観光地の土産物屋……ことごとく薄暗い。東京と同じように節電モードなのである。
 そこに入るたびに、呟いてしまう。
「日本という国は、どうしてこう一緒になってしまうのだろう」
 しかしそういうことは、あまり大きな声ではいえない。世間というものは、そういうなかで動いているからだ。そして僕は、人が働いているときに、海外に出ることができる自由業の身である。世間とは違う時間感覚のなかで暮らしているのかもしれない。
 ゴールデンウイークは、ただ仕事に励む。最近はもう、いじけることもない。
   

Posted by 下川裕治 at 12:37Comments(2)