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ナムジャイブログ

2011年08月29日

945円の天ぷらそば

 先週、急ぎ足でソウルと上海をまわった。それぞれの街に用事もあったのだが、LCCといわれる格安航空会社の本もまとめなくてはならず、その搭乗記を書く目的もあった。
 月曜日に、今年になって成田空港に乗り入れたイースタージェットという韓国のLCCに乗ってソウルへ。片道で2万9700円だった。
 翌日、ソウルから上海。この航空券はスカイスキャナーというサイトでとった。検索すると、中国南方航空が最も安かった。片道で約1万9000円ほどだった。
 そして水曜日、中国のLCCである春秋航空に乗って日本の茨城空港に戻ってきた。片道が2万660円だった。
 合計で7万円弱──。
 予約を入れたのは数日前である。燃油代もあがってきている。もっと早くに予約をしていたら、1万円は安くなっただろうか。
 この運賃を安いと考えるかは難しいところだろう。というのも、僕は片道航空券をつなぐ形にしたからだ。
 それは予約の時点から悩んでいた。成田とソウルを結ぶイースタージェットは、ソウル往復で買うと3万8000円ほどですむ。片道航空券との差額は1万円ほどである。いったんソウルを往復し、また別の日に上海を往復することを考えなかったわけではない。足し算、引き算をしてみると、結局、成田ーソウルー上海ー茨城とまわったほうが安いことはわかったが、その差は1万円ほどだった。
 LCCのポリシーは、すべての航空券を片道から販売することだった。航空会社によっては、往復は単純に片道の2倍というところも少なくない。しかし日本が絡んでくると、そういう図式を描くことができなくなる。とくに日韓戦の片道航空券は不可思議さが募る。
 春秋航空で到着した茨城空港は、日本的問題のなかで四苦八苦していた。茨城空港と東京駅を結ぶ高速バスが、春秋航空到着に合わせて運行している。運賃は片道500円と安い。しかしこれは茨城県の補助があって実現したもので、1台しか走っていない。搭乗客をさばけないのだ。僕が到着した日のバスは、3週間前に満席になっていたという。バス会社は増発する前に県との交渉が必要なのだ。
 結局、路線バスでJRの石岡駅に出て、東京へ。3時間以上かかってしまった。
 路線バスの発車時刻まで時間があったので、空港ターミナル内のセルフサービス食堂でそばを食べた。普通の天ぷらそばが945円もした。きっと空港のテナント料が高額なのだろう。
 問題を突き詰めていけば、どうして茨城に空港をつくってしまったのかという問題に辿り着く。来年、成田空港は日本国内線のLCC拠点になる構想だが、茨城空港と同質の問題を抱えている。
 日本の空のLCC化は、日本的な問題を抱えたまま進んでいく。

  

Posted by 下川裕治 at 11:10Comments(1)

2011年08月22日

キャッシングの違和感

 円高である。いま、この原稿を書いている時点で1ドル75円台になっている。日本の産業界は大変かもしれないが、海外に出ることの多い僕のようなタイプは、つい「にんまり」してしまう。旅の出費がずいぶん抑えられるのだ。
 以前は空港や国境で、日本円やドルの現金から両替することが多かった。トラベラーズチェックから両替できないエリアに出向くことが多かったからだ。しかしその後、カード文化が急速に広まっていった。最近はクレジットカードのキャッシングを利用することが多い。
 両替窓口で円高を実感できなくなってしまったが、カードを使うようになったのは、両替手数料をとられたくないからだ。国や銀行によっては、引き出し手数料が必要だが、現金を両替したときの手数料よりはだいぶ安い。
 とくに中国は露骨である。空港に入っている銀行で現金から両替すると、一律50元の手数料をとられる。日本円で600円ほどになる。
 昨年、中国の深せんの空港にいた。3時間ほど前には香港にいた。財布のなかには、60香港ドルほどが残っていた。飛行機の出発には時間があったので、空港ロビーの喫茶店に入った。支払いの段になって、香港ドルを出すと、「これは受けとれません。あそこの銀行で両替してください」といわれた。
 その窓口に香港ドルを差し出した。
「手数料が50元かかりますけど、いいですか」
「はッ」
「渡せるのは中国元で9元ほどになってしまいますけど」
 これではコーヒー代も払うことができなかった。なんという手数料だろうか。
 それから数ヵ月後、上海の浦東空港にいた。小額の中国元が必要になった。銀行には人が並んでいた。見るとその横に、自動両替機があった。世界の空港では、ときどきこの機械を見かける。しかしなんとなく不安で使うことはあまりない。しかし小額だからいいか……と千円札を入れてみた。機械から出てきたのは、20数元の中国元だった。続いて出てきた控えを見ると、千円は70数元になるのだが、そこから手数料の50元が引かれていた。
「機械でも50元か……」
 文句をいっても、冷たい返事が返ってくるだけなのだろうが、なんだかぼったくり機械にも映るのである。
 こういうことが続くと、どうしてもクレジットのキャッシングに走ってしまうのだ。精算日が違うので、両替レートを比べることは難しいが、両替手数料だけはとられずにすむ。
 自衛のために、キャッシングになってしまうのはしかたのない流れなのだろうか。しかし、ATMからカタカタと現金が出てくる感覚には、いまだになじめない。昨年、グルジアのトビリシからアルメニアのギュムリに列車で向かった。ギュムリ駅に着いたのは午前4時半だった。銀行も閉まっている。駅舎を出ると、ATMの機械だけ電気がついていた。客など誰もいない暗い駅前の機械にカードを入れ、暗証番号や金額を打ち込むと、見たこともない紙幣が出てきた。
「便利な社会か……」
 見上げると満天の星空だった。
  

Posted by 下川裕治 at 13:56Comments(1)

2011年08月15日

高円寺のガード下から鶴見へ

 先週末、知人に連れられて、韓国風居酒屋に入った。東京の高円寺のガード下にある店だった。料理が1品500円もしない安い店だった。そこで何人かが頼んでいるのが、小ぶりの真鍮製やかんに入ったマッコリだった。
 店内はまさにソウルの下町だった。
 このマッコリの入ったやかんに出会ったのは、数年間のソウルだった。案内してくれたソウルっ子は、韓国風日本料理の店といったが、入ってみると、安めの民俗料理屋の趣だった。韓国のこの種の店には、宮廷料理系と庶民料理系があるように思う。庶民系になると、日本料理の韓国風が顔をのぞかせる。そんな店でこのやかんに出合った。韓国人にとってのレトロは、日本人にとってもレトロだった。
 そのやかんが、再び日本にお目見えしたわけだ。かつて日本から韓国に渡った真鍮製やかんは、日本に再上陸ということだろうか。そのやかんから注ぐマッコリは、どこか複雑な味でもある。
 それから2日後、横浜の鶴見にある南米料理屋に出かけた。
 鶴見の潮田という一画は、かつて沖縄タウンとして知られていた。戦前には600軒もの沖縄料理屋があったという。
 いま、東京のなかの沖縄料理屋はもう数えきれないほど多い。中野や高円寺がその中心だろうか。鶴見の沖縄タウンは廃れていく一方だが、そこに南米料理屋が店を開きはじめていた。メニューに並ぶのはボリビア料理が多いのだが。
 なぜ、鶴見に南米の料理店……? 彼らは沖縄から南米に渡った移民の2世、3世たちだった。戦前から戦後にかけ、多くの沖縄人が南米に渡った。ブラジルのコーヒー農場での過酷な労働が待っていたが、そのうちの一部は自立していく。そして沖縄の人々の一部はボリビアに移り、農場を経営していく。
 その後、日本の経済成長が進み、2世、3世のなかには、仕事を求めて日本に戻ってくる人が出てくる。彼らが縁のあった鶴見に南米の料理店を開いていくのだ。しかし皆、血は沖縄だから、南米の料理もあるが、沖縄そばもあるという、不思議な店が生まれていた。
 面白い店だった。スペイン語のメニューに沖縄料理が混じっている。テーブルを埋める客も鶴見ならではだった。キセツと沖縄の人が呼ぶ出稼ぎの若者が沖縄そばを啜っている。その隣のテーブルでは、南米人の家族が、インカコーラを飲みながら、南米の料理を食べているのだ。
 震災、そして電力不足に円高が加わり、日本の産業界の空洞化が加速している。経済を活性化するためには、外国人の労働者を受け入れるしかない──という動きの前に、日本の純血主義が立ちはだかる。
 しかし高円寺のガード下で懐かしい真鍮製のやかんでマッコリを飲み、南米から戻った移民2世、3世がつくる南米や沖縄料理を口にすると、いったいこの国のどこが純血なのかと思えてくる。日本も人の流動化のなかにいるのだ……と。

  

Posted by 下川裕治 at 12:46Comments(0)

2011年08月12日

【新刊案内】アジアでハローワーク



「アジアでハローワーク」
- そこは仕事探しのセイフティネットだった -


下川 裕治編・著
ISBN978-4-8272-0648-7
A5判・並製・224頁 2011年7月22日発行
1575円(税込)


新卒としてアジアで働きはじめた人もいる。
現地で採用された人もいる。
個人で会社を作った人も少なくない。
第二の人生をアジアに定めたシニアもいる。

アジアで働くことを、ことさらすすめるつもりはない。
やはり日本人は、日本で働きたいと思うだろう。
しかし、日本の労働環境は厳しい。
アジアで働く日本人の言葉に、セイフティネットとしての
アジアの存在を感じとってもらえればいい気がする。

「アジアでハローワーク」は、そんなに敷居の高いものではないからだ。

- はじめにより

下記リンクのアマゾンのサイトから購入することもできます。

えんぴつアジアでハローワーク

  

Posted by 下川裕治 at 14:20Comments(4)

2011年08月08日

オレンジ色の光の記憶

 1週間前の7月31日、バンコクのドーンムアング空港にいた。チェンマイに行こうとしていた。オリエントタイという航空会社を使ったため、ドーンムアング空港から乗り込むことになった。
 乗ったタクシーが、かつての国際線ターミナルのほうから空港に入ってしまった。
 初代のターミナルの前を通り、2代目のターミナルに差しかかった。めざす国内線ターミナルはまだ先である。
 2代目のターミナル1にさしかかったとき、DOMESTICという表示が目に入った。
「かつてのドーンムアング空港の国際線ターミナルを国内線で使う」
 という話を聞いていた。
「もう移転したのか……」
 タクシーを降りた。そこにいた職員から声をかけられた。
「オープンは明日からなんですけど」
「明日?」
 国内線ターミナルまで歩くしかなかった。
 翌日。チェンマイに1泊してバンコクに戻った。飛行機は2代目のターミナル1に到着した。2006年にスワンナプームに移転するまで、バンコクに到着し、バンコクを離れるときは、いつもこの空港だった。
 狭い通路を歩くと、コンコースに出た。
 あの頃……が一気に沸き起こってきた。
「Arrivals」、「 Baggage Claim」といった表示も当時のままだった。そのまま残していたのだ。先に進むと、イミグレーションのブースまで残っていた。
 まだ幼いふたりの娘を連れ、バンコク暮らしをはじめたとき、到着したターミナルもここだった。いつもはザックひとつなのだが、衣類などが入った段ボールを咎められないかとターンテーブルに出てきた荷物を台車に積んだものだった。
 政情が不安定なアフガニスタンでアメーバ赤痢に罹り、まだ完治しない体を引きずって降りたのもこのターミナルだった。
「バンコクに戻ればなんとかなる」
 そんな思いだけが頼りだった。
 バンコクをみてみたい……そんな知人と何回となく、イミグレーションの列に並んだ。彼らのうち何人かはバンコクで暮らしている。しかしそのなかには、辛い病に罹り自ら命を絶っていった知人もふたりいる。
 さまざまな思いが通路や表示のなかにこびりついている。当たり前な話だが、トイレの場所も同じだ。税関を出たところにある椅子の位置や色も当時のままだ。そう、この椅子に座って、日本からやってくる知人を何人待っただろうか。
 青白い灯りのスワンナプーム空港と違い、ドーンムアン空港のそれはオレンジ色だ。ターミナルを出たバンコクは、その光に照らされていた。当時のままに。
  

Posted by 下川裕治 at 13:44Comments(1)