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ナムジャイブログ

2011年10月31日

アイヌのロックンロール

 小春日和のやわらかな日射しに包まれていた。中野の新井薬師で、「チャランケ祭り」が開かれた。沖縄とアイヌの祭りである。今年で18回になる。今年は北海道の旭川と札幌から、20人ほどのアイヌもやってきた。
 この祭りでアイヌの踊りや歌を目にし、聴くたびに、複雑な気持ちになる。「保護されている」という感覚が、伝わってきてしまうのだ。
 アイヌに伝承された芸能が貴重だ。それを目の当たりにする機会はそう多くない。しかしその芸能が、現代という時代にフィットしていくか……というと首を傾げてしまう。
 バングラデシュ人の知人が見に来てくれた。彼はラカイン族という仏教徒で、バングラデシュのなかの少数民族である。沖縄とアイヌという人々に、自分の民族を重ね合わせていたのかもしれない。
 アイヌの踊りを見ながら、こういった。
「なんだかアフリカの踊りを見ているみたいですね」
 素直な感覚だった。その素朴さは、共通するものがあるのかもしれない。
 保護された芸能……。それは進化が止まった芸能でもある。新しいものをとり入れてしまえば、それは保護される対象ではなくなってしまうのだ。しかしそれは古典芸能という世界に入り込み、そのテンポは退屈で単調なものになってしまう。
 しかし沖縄の芸能は保護されていない。それだけ多くの人が親しんでいるということだろうが、その分、日々進化している。どんな音楽や踊りが受けるのか……という切磋琢磨のなかで、エイサーが人気を集め、ヒット曲も生まれる。「チャランケ祭り」では、そのふたつの芸能の差が浮き立ってしまうのだ。
 アメリカやカナダのネイティブ・アメリカンへの対応を思い浮かべてしまう。反抗する彼らに対し、アメリカやカナダは、徹底した保護政策をとった。手厚い援助を与えたのだ。彼らは政府が支払う金で暮らすことができるようになった。しかしその金で、男たちは酒を買い、アルコール中毒への道を進んでしまう。ひとつの民族を弱体化させるには、援助漬けにしていくという、ひとつの方法論が横たわっていた。それは保護された芸能にも当てはまってしまう気がするのだ。
 そんな消化不良を、出演した『アイヌアートプロジェクト』というバンドが吹き飛ばしてくれた。アイヌで構成されたロックバンドだった。年齢は若くない。しかしアイヌの伝承芸能をしっかりととりいれたロックンロールに仕立てていた。新井薬師の境内という場だから、音響はけっしてよくない。しかし、そんなものをものともしないアイヌのパワーが弾けていた。
 やっと出合った気がした。
 保護されてはいないアイヌの音楽。見ると、ついさっきまで、アイヌの古典芸能を演じていたアイヌも、ビートに合わせて踊っている。そこには古典を守るという民族の呪縛から解き放たれた明るさがあった。
 これがあれば、アイヌの音楽は大丈夫だ。
 日が落ちかけた新井薬師で呟いていた。

  

Posted by 下川裕治 at 14:54Comments(0)

2011年10月24日

温泉マークが消えていく

 韓国の田舎を数日ほど歩いてきた。スタートは釜山だった。いつものように、街なかで安い宿を探した。
 僕は韓国語を話すことも、読むこともできない。しかし、宿探しに苦労した記憶はない。温泉マークのある宿に入ればよかった。1泊2万ウオンから4万ウオン。日本円で1500円から3000円の宿が簡単にみつかった。
 しかし釜山の路上で僕は首を傾げていた。温泉マークは次々にみつかるのだが、泊まることができないのだ。1軒目と2軒目は廃業していた。3軒目はフロントに電話番号が掲げられていた。そこに連絡をしろという意味だ。4軒目は、近くにいたおじさんから、「いまは休業」といわれた。
 探した一帯がいけなかったのかもしれない。大通りを渡り、別のエリアで宿はみつかったが、頼りにしていた温泉マーク宿の先行きが不安になってしまった。
 温泉マーク宿は、韓国語でヨグァンという。旅館からきた言葉のように思う。フロントは、古いパチンコの両替所のような小さな窓である。その奥に老人がいる。敷きっぱなしの布団。そこで宿泊代を払うと……すべてが終わる。パスポートを提示する必要もないし、宿帳に記入することもない。
 老人の仕事は、空室の管理と宿代を受けとるだけである。部屋の掃除は通いのおばさんたちの仕事だ。住む家がなかったり、身寄りのない老人には都合のいい仕事だった。
 建物は古く、部屋はベッドひとつか床に布団を敷くオンドル部屋。設備がいいとはいえないが、一応、お湯の出るシャワーがある。
 かつては連れ込みの機能もあった気がするが、最近ではこぎれいなホテルができているから、そんな需要は減る一方だろう。フロントの老人の先は長くない。若い人で、この種の宿を引き継ぐ人もいないだろうから、1軒、また1軒と減ってきているのだろう。
 温泉マーク宿には、モーテルと看板を掲げた宿もある。ヨグァンに比べると、建物はもう少し立派なケースが多い。このモーテルは、日本流のモーテルもあるが、アメリカ式のモーテルもある。その辺はわかりづらい。連れ込み宿は曖昧宿ともいうが、韓国の安い宿は実に曖昧なのだ。もちろん普通のホテルもある。
 最近、ソウルで泊まるのは、ソウル駅前にある1軒の温泉マークである。仁川国際空港からソウル駅まで列車が繋がって以来、便利さも手伝って、ついこの宿に足が向いてしまう。もともと明洞が嫌いだった。日本人で埋まっているからだ。
 この宿は老人ではなく、中年の夫婦がフロントの奥の部屋で暮らしている。1泊2万5000ウオン。しかしこの宿の先行きも心許ない。
 僕が気に入る宿は、年を追って消えていく感じがする。旅人として年をとったということなのだろう。

  

Posted by 下川裕治 at 17:29Comments(0)

2011年10月17日

チャオプラヤーの水が流れるつくところ

水没が心配されるバンコクでこの原稿を書いている。今年のインドシナは、水害にあえいでいる。水没したアユタヤの映像は、世界に流れている。バンコクのビルや商店では土嚢の積みあげがはじまっていた。スワンナプーム空港も水没するという噂も流れている。
4日前。カンボジアに向かった。かなりのエリアが水没していた。上空から眺めたカンボジア平原は、まるで巨大な湖だった。どこがメコン川なのか、シュムリアップ川なのか、判別もつかない。
しかし飛行機は、なにもなかったかのように空港に到着した。
空港からトゥクトゥクで市内に向かった。重い雨が降ってきた。ところどころ道路が冠水しているが、それほどの量ではない。渋滞は起きていたが、街は賑わっていた。
「プノンペンは大丈夫。その代わり、シュムリアップが大変さ。メコン川の水が逆流しているからね」
プノンペンで会った青年は、平然とした面持ちでいった。心配そうにアユタヤの映像を見つめるバンコクっ子とはずいぶん違った。
アンコールワットに近いシュムリアップはトンレサップ湖に面していた。増水したメコン川の水はいま、この湖に流れ込んでいる。湖は日を追って大きくなり、シュムリアップの街も飲み込む勢いである。しかしそのおかげで、プノンペンが守られる。トンレサップ湖は、プノンペンの安全弁のような役割を果たしていた。
カンボジアの人々は、洪水に見舞われる土地を経験的に知っている。安全な土地にプノンペンがつくられたのだ。
プノンペンに着いた翌日、水没した田舎に出かけた。腰下まで水に浸かって、一軒の家を訪ねた。高床式のその家は、床上までは浸水していなかった。周りの家も、とりたて問題はない。家からの出入りが舟になるだけだった。このエリアには何回か訪ねているが、高床の高さが、タイのそれより高かった。そう、1・5倍は高いだろうか。おそらくこれも、経験的に導き出されたものに違いなかった。過去の水害が、高床の高さを決めていたのだ。
バンコクには、トンレサップ湖のような湖がない。かつて、水が流れ込んだバンナーやその先の湿地は、工場や空港になってしまった。おそらくバンコクという街も、経験的に導かれた安全なエリアがあったのだろう。しかし人が集まり、街は巨大化していった。自然の摂理を無視して街を大きくするしか方法はなかったのだろう。
バンコクに水が入るとすれば、それは人災ともいえるのだ。
その街の一画のビルのなかで、この原稿を書いている。インドシナを流れる水は、結局、現代が抱える問題に流れ着いてしまう。

  

Posted by 下川裕治 at 12:54Comments(2)

2011年10月10日

フェイスブックが浮き立たせるもの

「下川さんはフェイスブックやツイッターをやらないんですか」
 最近、よく聞かれる。笑ってごまかしているが、本心をいえば、やるつもりはない。
 その理由も薄々わかっている。
 僕は原稿を書くことを仕事にしてしまっているからだ。
 このブログにしてもそうである。ブログというものは、本来、日記のように身辺のできごとを語るところからはじまったものだ。しかし、そういう書き方が苦手だ。どうしても原稿になってしまう。
 不器用ということなのかもしれない。しかし、ただでさえ、日々、締め切りに追われ、格闘している身にしたら、器用にブログをこなす余裕がないというのが本音だ。
 自分のなかでは、パソコンなり、原稿用紙に書くということは、不特定多数の人に向かって書くことという流儀がインプットされてしまっている。
「でも、フェイスブックは違いますよ。限られたメンバーのなかでの交信ですから」
 それもわかっている。
 しかし、どうしてそのメンバーのなかで、交信をしなくてはいけないのだろう……という、なんだか根本的なところで立ち止まってしまうのだ。
「親しい人と交信したり、昔の知り合いとネット上で出会ったりできるんですよ」
「昔の知り合いと出会いたいとは、なぜか思わないんだよな。自分の昔なんて、恥ずかしいことばかりだし、それを知っている人と再び連絡をとるっていうのもね」
「それ、すごく暗くないですか」
「暗い?」
「そういう友だち、いないんですか?」
「友だちねぇ」
 できれば、人とあまり出会わず、ボーとしていたいタイプである。できればメールもしたくない。仕事上の連絡はしかたないと思う人間である。しかしひとりでは生きていけないことも知っている。ときに、人恋しさが募り、人と会うことはあるが、やはり最後はひとりで「ぽそッ」としてしまう。
 原稿を書くということは、最初から最後までひとりの仕事だ。人間嫌いの人恋いし……といった性格でなければ続かない。人との話ややりとりのなかでは、ヒントはみつかっても、そこで原稿が書けるわけではないのだ。
 フェイスブックをビジネスや自分のアピールのために使うという発想はよくわかる。しかし、そういうものを読まされるのも辛い気がする。
 インターネットは、文章を書くということを身近にさせた……という人がいるが、僕はその距離が遠のくばかりだ。皆がこぞって、フェイスブックだ、というのに、それについていけない自分が浮き立ってしまう。
 やはり暗い人間なのだろうか。

  

Posted by 下川裕治 at 12:14Comments(3)

2011年10月03日

情報が少なすぎる情報社会

 源氏物語絵巻の現状模写展にでかけた。東京芸大の日本画研究室の労作である。
 源氏物語絵巻は、平安末期に描かれたといわれる。もちろん国宝である。
 会場では、現状模写というものにかかわった学生たちが、その方法を説明してくれた。
 現状模写とは、その絵巻の絵をできるだけ忠実に復元していくことなのだが、なにしろ、もとの作品は国宝である。傍らに置いて模写するようなことはできない。写真をもとに復元を進めるのだが、その途中、30分だけ本物を目にすることができる。そのときの学生たちの話が興味深かった。
「写真では情報量が少なすぎる」
 そういうことなのだ。
 写真といっても、僕らがデジカメで撮るようなものとはレベルが違う。しかしそれでも、色の質感、文字のかすれ具合など、模写するためには、情報が少なすぎるのだという。やはり自分の目で、本物を見ないと、その部分は確認できない。
 その30分の閲覧のために、想定できるさまざまな色を用意し、本物の色と合わせていく。金箔はどのように貼られているのか凝視する。その情報がなければ、模写などとてもできないのだという。それでも、本物にはとてもかなわないというのだが。
 世のなかには情報が溢れている。インターネットで、人は膨大な情報を得ることができるようになった。しかし、そこに流れている情報というものは、本物を前にすると、あまりに薄っぺらなものに映る。
 僕がかかわる印刷物の世界も同様である。本や雑誌に印刷される写真の色ひとつとっても本物とは違う。しばらく前まで、なんとか本物の色に近づけようと、色校正というものをやっていた。しかしいまは、印刷代を安くするために、それすら省かれるようになった。ますます本物がもつ質感は、人の目に届かなくなってきている。
 本物……という視点でみれば、僕らが受けとる情報は、年を追って薄っぺらなものになってきている。それがなければ、これほどの情報が氾濫しなかったとみることもできる。誤解を恐れずにいえば、本物からどんどん遠くなってきたものを情報と呼ぶのかもしれない。
 薄々わかっているのだろう。だからCDやユーチューブがこれだけ氾濫しても、人はライブに足を運ぶ。ネットで簡単に情報が得ることができるようになるほど、「生」のものや「本物」への渇望が生まれてくるものらしい。
 僕がかかわる本の世界もそうなのかもしれない。文字は情報だが、そこに流れる息づかいが伝わらなくてはいけないのだろう。
 毎日、毎日、ゲラを見ている。10月末から11月にかけて出版される本のチェックである。窓を開けると、金木犀の香りが鼻腔に届く。そう、匂うような原稿──。そんなことをいっていた作家がいた。

  

Posted by 下川裕治 at 11:12Comments(1)