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ナムジャイブログ

2012年02月27日

生きるための仕事という陳腐さ

 このブログは、できるだけ明るい話題を選ぼうと思っている。辛い話は、書くほうも筆が重く、読む方も沈んでしまう。
 しかしそうもいかないときもある。
 2月22日はバンコクにいた。昼過ぎに宿に戻り、メールをつなぐと、大学時代の知人から連絡が入っていた。
 それは友人の死を知らせる内容だった。
 学生時代、大学の新聞会に所属していた。月1回、新聞を発行していた。当時の大学新聞は学生運動の影響をかなり受けていた。各セクトは、学生新聞の機関紙化を狙い、アプローチを繰り返していた。当時の言葉でいえば、オルグである。僕が新聞会に入ったときは、セクト色の強い新聞だった。その中心メンバーだった4年生が一気に卒業し、入って間もない僕らに執拗なオルグが続いた。
 左寄りの学生ではあったが、革命を職業に選んだかのようなセクトに人々にはついていけなかった。新聞は学生運動色が薄れ、学芸色が強くなっていった。
 その新聞を見て、新しいメンバーが少しずつ入ってきた。僕はやがて卒業したが、新聞の発行は続いた。しかしその後、再びセクトの論理に巻き込まれ、発行が難しくなっていってしまった。
 死を選んだ友人は、僕より4歳ほど歳下だった。学芸色が強い時代のメンバーだった。
 鬱であることは知っていた。
 大学を卒業し、僕らと同じように、マスコミのなかで生きていったひとりだった。あれは2年ほど前だったろうか。沖縄の本をつくりたいと僕にもちかけてきた。企画の意図がいまひとつわからないところがあったが、彼の鬱も少しずつ快復してきたのかもしれなかった。沖縄の波照間島に通っていることを別の知人から知らされていた。沖縄は彼の心を軽くしてくれていたのかもしれない。
 しかし22日の朝、奥さんが起きると、彼の姿はなく、10時過ぎに、警察から電車に接触したという連絡が入ったという。
 23日に帰国した。空港から電話を入れたのだが、すでに通夜は終わっていた。
 同じように新聞会に入ってきた友人のひとりも、鬱で自ら命を絶っていた。もう3年になる。その前年には、親しかった知人も鬱に命を奪われた。
 僕の周りでは、ひとり、またひとりと鬱にやられていく。同じようにマスコミのなかで働いてきた知人ばかりだ。
 鬱は生きようとするエネルギーを吸いとっていく。彼らはその犠牲になったが、3人の人生にかかわってきた僕も、少なからず、エネルギーを吸いとられていく。
 いま沖縄の宮古島にいる。
 友人がひとり、命を絶っても、僕は旅を続けなくてはならない。これが生きていくための仕事という言葉が陳腐に映る。
「死んだら終わりさ」
 宮古島の海に向かって呟いてみる。

  

Posted by 下川裕治 at 12:30Comments(1)

2012年02月20日

マカオでも行く場所がない

 久しぶりのマカオだった。そう、最後に訪ねてから、20年近くになるだろうか。
 当時、マカオから台湾の高雄までフェリーが就航していた。それに乗るためにマカオに渡った以来である。
 ギャンブルは持久力が続かず、世界遺産にもさして触手が動かない。こういうタイプの旅行者は、ついマカオが遠のいてしまうようである。香港へは数え切れないほど訪ねているというのに、そこからフェリーで1時間ほどのマカオは遠い土地だった。
 なぜ、そのマカオに?
 マカオには申し訳ないが、香港に行くためだった。バンコクからエアアジアで香港に向かおうとすると、けっこう高い。しかしマカオは、香港への片道運賃で往復できてしまうほどの運賃設定なのだ。マカオから香港までは、フェリーに乗れば1時間である。
 香港には用事があった。打ち合わせが終わり、九龍に出たが、その人の多さに圧倒されてしまった。日本からの観光客は一向に増えないというのに、香港は世界経済の動きなどどこ吹く風という勢いなのである。その内実を聞けば、なんだか香港の未来も暗いことがわかってくるのだが、とりあえずの金儲けで生き延びてきた土地である。これからもなんとか泳ぎきっていくのかもしれない。
 しかし舗道を埋める人の多さにはまいってしまった。香港には2泊しようと思っていたが、翌朝、逃げるようにマカオに向かうフェリーに乗った。
 ちょうど週末だった。
「金曜日と土曜日の夜は、カジノで遊ぶ人が大挙してやってくるから、ホテル代が一気にあがるんですよ」
 香港でそう聞いていたが、僕が下町で入った宿は、カジノなど無縁だった。広東語しか話さないおばさんが、忍び込んだ野良猫を足で蹴散らしながら、150という宿代を新聞紙の片隅に書くような安宿だった。
 さて、どこへ行こうか。フェリーターミナルでもらった地図を開いたのだが、載っているのは世界遺産ばかりである。
 世界遺産を嫌っているわけではない。しかし、そこを訪ねても、大陸からやってきた中国人で埋まっていることはわかっていた。ポルトガル風の建物の前で、ポーズをとって写真に納まる彼らを見るだけなのだ。
 いまの世界遺産は、あまりに観光化しすぎてしまい、どこかついていけないような世界になってしまった。
 僕がマカオでしたこと? 街のなかを歩きまわり、翌日、空港まで、どうバスを乗り継いでいくかを、バス停の表示から探っただけだった。
 僕のマカオはこうして終わっていった。

  

Posted by 下川裕治 at 17:15Comments(0)

2012年02月13日

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Posted by 下川裕治 at 15:26Comments(0)

2012年02月13日

ウイグルパンとカップ麺

 中国へ行くと、パンという存在にいつも悩んでしまう。パンは主食なのか、菓子なのかという問題である。
 アジアは米を主食にするエリアが多い。そこでのパンは菓子化が進む。タイではパンのことをカノムパンという。カノムとは菓子のことだ。名前からして菓子なのだ。日本も似たような歴史を辿ってきた。菓子パンというジャンルもある。しかしアジアはその後、欧米風のパンが入り込み、それなりの棲み分けができてきている。
 しかし中国は困る。
 中国国際航空の北京ーウルムチ間の飛行機に乗った。機内食が出た。メインは牛肉飯だったが、その横に丸いパンが載せられていた。通常の機内食である。だが、パンを食べようとちぎると、なかから餡が出てきた。あんパンだったのだ。
 この発想にはついていくことができる。米が主食のエリアでは、パンは菓子という認識に近づくからだ。
 だが中国は広い。北に進むと、米文化が薄れていく。西の乾燥地帯に入ると、インドのナンのような円形のウイグルパンの世界に入る。
 もともと北方のものだったマントウは、いまや中国では一般的なパンである。小麦に酵母を加えて発酵させた蒸しパンである。ホテルの朝食バイキングには、必ずといっていいほど顔を見せる。日本流にいえば、具なし肉まんといったところだろうか。お粥とマントウという組み合わせは、中国の朝食の定番でもある。
 このマントウは甘くない。菓子化するアジアのパンとは一線を画している。主食といっていい気がする。しかしお粥の米も主食。いってみれば、マントウとお粥という組み合わせは、主食と主食を食べていることになる。
 ウルムチから列車に乗った。僕の前にウイグル人の青年が3人座っていた。昼どきになり、彼らは用意していたカップ麺にお湯を注いだ。イスラム教徒用のカップ麺がこのエリアでは売られている。すると彼らは、鞄のなかから円形のウイグルパンをとりだし、それをちぎってカップ麺のスープに浸して食べはじめたのだった。
 ウイグルパンはカップ麺と出合っていた。
 このパンは本来、ケバブを挟んだり、羊肉のスープと一緒に食べていたはずである。それがカップ麺と……。
 翌日も列車のなかにいた。僕はウイグルパンにソーセージを挟んで食べていた。しっかりした味のウイグルパンを、カップ麺に浸すのは忍びなかったのだ。すると、向かいに座っていた中国人からこういわれた。
「カップ麺につけて食べないんですか?」
 漢民族のなかでは、ウイグルパンを麺のスープに浸して食べることは当然のことになっていたのだ。
 ここでも主食と主食がぶつかっていた。
 これを食の融合といっていいのだろうか。
  

Posted by 下川裕治 at 14:45Comments(0)

2012年02月06日

マイナス10度のケバブ

 どうしてこんなに寒いんだろう。昨日の最低気温はマイナス19度、最高気温はマイナス10度と表示されていた。
 細かい結晶のような雪が舞う。日本の新潟に降るそれとは違う、寒冷地の雪だ。
 この街にはこれまで、3回滞在している。なぜかいつも夏だった。気温は40度を超えたときもあった。ときおり、熱風が嵐のようにこの街を襲った。暑さの記憶しかない。
 しかしいま、マイナス10度を下まわる気温に包まれている。
 中国のウルムチにいる。
 目的地はこの街ではなかった。ウルムチから列車に6時間ほど乗り、そこから200キロほどのところに星星峡という街がある。中国語でシンシンシャという。その音の響きにも誘われたが、昔から、この街の説明が気になっていた。
「中国西北地区西部に位置する街。極めて荒涼とした光景が広がり、そこから先は果てしない異国といわれている。北緯41度49分東経95度17分」
 行ってみようか……。
 人は酔狂な旅と思うかもしれないが、その光景を見てみたかった。
 星星峡の周辺は、たしかに荒涼とした風景だった。鋭い岩山に囲まれていた。その地名通り、夜には満天の星空が広がっていた。
 東に100キロほど行くと敦煌がある。この街が栄えていた時代、星星峡から西は異国だったのだろう。砂漠が続く果てしない異国だったのだ。
 昔と同じように、いまもここに境界が引かれている。甘粛省と新疆ウイグル自治区の境界である。
 しかしいまは高速道路が、この星星峡を貫いていた。高速道路の料金所がある街にすぎなかった。トラック運転手向けの食堂と車の修理屋が街道に沿って並んでいた。
 この先は異国というのは、漢民族の発想である。そこにはウイグル系の人々が暮らす一帯があった。そしていま、漢民族はその異国に我が物顔で暮らしている。
 ウルムチの人口の大多数は漢民族なのである。暑い時期と寒い時期の温度差が60度にもなる厳しい気候をものともせず、漢民族はウルムチに高層ビルを建て、巨大な工場を建設していった。いまの中国では、最も景気がいい街のひとつといわれている。
 好景気に吸いつけられるように、次々と漢民族がこの街にやってくる。
 当然、ウイグル人との軋轢もあるのだが、いまの漢民族には、それを蹴散らしてしまうパワーがある。
 ウイグル人たちは、この寒さのなか、路上でケバブを焼くしかない。

  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(1)