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ナムジャイブログ

2013年06月24日

夏のはじまりの高校野球

 暑い。
 とんでもなく暑い。
 そんな沖縄の那覇にいる。かつてこの街にあった日本人町の痕跡を探して、毎日、歩きまわっている。
 沖縄の日本人町? そう思う人はいるかもしれない。沖縄は日本じゃないの?
 この話になると、かなりの説明が必要になってしまう。しかし明治、いや大正の時代になっても、那覇には日本人町があった。那覇の人はそういう感覚のなかで暮らしていた。
 その痕跡の多くは、太平洋戦争末期に焼失してしまったのだが。
 しかし梅雨が明けた沖縄の街歩きは辛い。夏至の時期である。天頂に達した太陽から鋭角に光線が肌に刺し込む。差すのではない。刺されるという感覚のほうがぴたりとくる。
 昨日、再開発の噂のある農連市場を歩いてみた。店にだらりと座るおばぁが口を開く。
「暑いねー。夏だからさ」
 あまりにあたり前な表現に、返す言葉もみつからない。市場のなかに、「ゆくいどぅるく」と看板が掲げてあった。木製のベンチが置かれている。「ゆくいどぅるく」。休み処とでもいったらいいだろうか。そこに座って休んだ。地元の高校生に声をかけられた。
「写真甲子園に出品する写真を撮る練習に来ているんです。写真を撮っていいですか」
 僕は暑さにやられ、あごが出てしまった表情をつくっていたのかもしれない。
 しかし1日、外にいると、同じ暑さも刻々と変わっていくことがわかる。
 午前中は雲が動く。立っている場所が日陰になったかと思うと、すぐ暴力的な日射しが降り注ぐ。そんな状態が続く。
 しかしまだしのぎやすい。風があるのだ。木陰に座り、ひとすじの風に心が軽くなる。
 しかしその雲も風も午後になるとなくなってしまう。太陽だけの世界になってしまう。
 どうしてこの辛い時期に沖縄と思うかもしれない。今回は取材があったのだが、夏の甲子園の沖縄予選もはじまっていた。以前、石垣島の高校野球の話を本にまとめて以来、暑いこの時期に野球を観ることが僕のなかでの恒例になってしまった。
 しかしこの時期の野球観戦は辛い。選手も大変かもしれないが、観る側も覚悟がいる。太陽との闘いを強いられるのだ。
 スタンドの日陰席が確保できても、フィールドからの照り返しがある。観ていると、肌が焼けていくのがわかる。そして顔や腕が熱をもってくる。
 いつの間にか、この感覚を味わうことが、僕のなかでの夏のはじまりのようになってしまった。
 こういう沖縄の高校野球ファンもいる。本土の人も、そして沖縄の人もわかってくれないのかもしれないが。

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Posted by 下川裕治 at 11:15Comments(2)

2013年06月17日

愚痴の日々がはじまるのか

 タイ人が日本入国のビザが免除されることが決まった。6月10日の夜、僕はバンコクにいた。日本から連絡が入った。翌朝、発表されるという。
 安倍政権の景気刺激策のひとつだった。タイ人とマレーシア人のビザを免除し、観光客を増えることの経済効果を期待していた。
 さて、翌朝。さっそく、タイのテレビを観たタイ人から電話がかかってきた。質問がふたつあった。ひとつはいつからビザが不要になるのか。そして、空港で入国拒否に遭うことはないのか。
 ビザ免除の発表では、時期を特定していなかったためだ。どうも夏ぐらいから実施されるようだが、正確なところはわからない。韓国と台湾のビザ免除は名古屋の万博に合わせて実施された。なにかマスコミ受けするようなイベントに日本政府は合わせたいところだろうが。
 空港での入国拒否……。これはどうだろうか。おそらくビザが免除されるのは、2週間程度の短期滞在である。日本への観光目的のタイ人へのビザ免除だから、1ヵ月や3ヵ月という期間にはならない気がする。ビザは2国間の交渉で決まるが、基本的には平等の概念がある。日本人はいま、ビザなしでタイ1ヵ月滞在が可能だ。2週間というのが妥当な気がする。
 この期間なら、それほどチェックは厳しくないように思う。通常の入国審査ではないだろうか。また、そうなってもらわないと、経済効果も期待できない。
 これで僕もずいぶん楽になる。いま、年に4、5回はシーロム通りにあるビザセンターに出向いている。ビザの申請書類を書いてあげる役目である。それから解放される。
 そう思いめぐらせながら、悪い予感が膨らんでくる。かつて日本で不法就労をしていたタイ人の知人たちだ。もう日本は無理と思っていた彼らの瞳に光が差し込んでしまうニュースでもあった。
 やはり電話がかかってきた。
「俺たち、また行けるかな」
「名前が登録されているから、無理だと思うけど」
「そうか……」
 その後の沈黙が不気味だった。きっと新しい名前でのパスポートづくりを画策しはじめるのに違いなかった。
 不安は連鎖する。成田空港から電話がかかってくる日々が戻ってくる気がした。
「ユージ。元気? いま空港。今晩からのホテルをとってないんだけど」
 僕はタイ人の間ではユージと呼ばれているのだ。そして、携帯電話の番号は、かなり広まっている。親しい知人たちは、こういって僕の番号を伝える気がする。
「日本へ行ったら、ここへ電話すれば大丈夫だよ。いい奴だから」
 僕はそれほど暇じゃない。しかしそういうことをまったく無視して、タイ人は電話をかけてくる。ビザをとらなければ日本に入国できなかったときのほうが、ずっと楽ではなかったか。また愚痴の日々がはじまるのか。

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Posted by 下川裕治 at 17:11Comments(0)

2013年06月10日

バンコクに荷物は届かなかった

 バンコクにいる。
 宿にこもって原稿に追われている。
 バンコクへは、北京経由の中国国際航空を利用した。最近の日本―バンコク線は混み合っている。直行便の安いクラスは、早々に埋まってしまう。経由便ということになることが多い。
 バンコクのスワンナプーム空港で預けた荷物を待っていた。ターンテーブルにはまだ荷物が残っていたが、職員に声をかけられた。荷物が出てこないことを知らされた。ロストバッゲージである。北京からバンコクに向かう便に、僕の荷物は乗っていなかったのだ。
 2年に1回ぐらいの割合で、ロストバッゲージの憂き目に遭う。荷物がないまま、バンコクの宿に入り、知人にそういった。
「私なんか、これまで1回も荷物が出てこなかったことはありませんよ」
 僕はそういう星のもとに生まれた旅行者なのだろうか。
 予感はあった。成田空港の出発が1時間遅れた。乗客が乗り込んでから、北京空港の天候不良が原因で遅れることが伝えられ、成田空港の片隅に飛行機は移動し、機内で待つことになった。予定では北京空港での乗り換え時間は1時間半である。それが30分になる。乗り換えがうまくいくだろうか。不安を抱えて北京に向かった。
 北京空港では職員に急かされ、なんとか乗り継いだ。荷物が気になったが、移し換えるのは北京空港の職員だから、僕はどうすることもできない。はたして30分で積み換えられたのだろうか。
 ところが出発が2時間遅れた。例によって機内に乗り込んでから伝えられた。これだけ時間があれば大丈夫だろうか。
 しかし荷物はバンコクに届かなかった。
 航空会社はわかっていた気がする。30分での積み換えは、北京空港では無理なのだ。しかしそれを乗客に伝えるわけにもいかない。
 同じようなことが数年前にあった。グルジアのトビリシから、ウクライナのキエフ経由でパリに向かった。ウクライナ・インターナショナルという航空会社だった。キエフでの乗り換え時間は1時間だった。
 パリには僕の荷物は届かなかった。
「乗り換え時間はどのくらい?」
 職員に訊かれた。
「1時間」
 そう答えると、諸君は意味ありげな表情を浮かべた。キエフ空港では、1時間で荷物を積み換えるのは難しいと、荷物を届ける会社の担当者から知らされた。毎日のようにロストバッゲージがあるのだという。
 北京からの荷物は、翌日、宿に届いた。正確にいうと、翌々日の午前1時。それまで同じものを着て過ごした。
「下川さん、そういうときは、航空会社にがんがんいわないとダメですよ。洗面道具とかをくれたり、買った衣類代を負担してくれることもあるって聞いたことがあります」
 バンコクに住む知人からいわれた。中国国際航空が? 僕はその種の飛行機ばかり乗っている気がする。航空会社への期待のレベルが低いらしい。ちょっと切なかった。

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Posted by 下川裕治 at 15:51Comments(0)

2013年06月03日

やはりアジアは救いの土地らしい

『クアラルンプールの夜明け』という映画を観た。セリフの少ないいい映画だった。
 海外を舞台にした原稿を書いている人間だから、セリフまわしが気になる。実際に海外に出たときは、言葉の壁がある。相手のいうことが、あまりわかっていない。会話も少ない。想像力で補いつつ、ドラマが生まれていく。しかしそれを原稿や映画で表現していくことは難しい。読者なり観客がわかってくれないのではないか……という不安が頭をもたげてきてしまう。
 だからときどき、どうしてこの主人公は、こんなにも相手のいうことがわかるのだろうか……という作品に出合うことになる。そこにリアリティはない。海外を舞台に日本人が登場する作品は、寡黙なほどリアリティが出てくる。それを補うのが、役者の演技力であり、原稿でいったら文章力である。
 細井尊人という監督は、寡黙な作品をつくった。それがどんなに大変なことか。スクリーンを追いながら考えていた。
 張り巡らされた伏線。それをセリフではなく、観客にわからせていく。その苦労が痛いほどわかる。
 セリフが少ないいい映画とは、そういうことなのだ。
 アジアに死に場所を求める日本人は少なからずいる。アジアという世界は、日本の合わせ鏡のように思うことがある。この映画もその流れのなかにある。仕事も家族も失った男は、弟に向かって、「死ね」という。兄を慕う弟は、マレーシアという土地で死を選んでしまう。その死にかかわってしまったマレーシア人たち。弟を捜して、マレーシアを歩く男の前に、彼らが現れる。
 マレーシア人たちは、日本社会の閉塞や日本人の葛藤をどこまで理解しているのか。この映画は答を出さない。弟を捜す兄は、アジアという土地で救済されたのか。その答もない。いや、答などなにもない。これからも生きていかなくてはいけない事実だけが残っているだけだ。
 しかし不思議なほど、この映画は明るい印象を残す。つい自分の子供をなぐってしまうマレーシア人の女。弟や自分の子供の手を挙げてしまう日本人の男。許されることもない業を抱えながら、やはり生きていくしかないというさわやかな諦め。この映画はそんな一点に収斂していくように映る。
 やはりアジアは救いの土地らしい。
 

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Posted by 下川裕治 at 18:11Comments(0)