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ナムジャイブログ

2014年10月27日

【イベント告知】◆下川裕治 スライド&トークショー◆

旅の本屋のまどから、下川裕治スライド&トークショーのお知らせです。

「週末沖縄の旅の楽しみ方」

 新刊『週末沖縄でちょっとゆるり』(朝日文庫)の発売を記念して、旅行作家の下川裕治さんをお招きして、ふらっと行く週末沖縄の旅の魅力についてスライドを眺めながらたっぷりと語っていただきます。
 前作『週末ベトナムでちょっと一服』ではバイクの波を眺めながらの路上の屋台コーヒー、バゲットやムール貝、ビーフシチューから漂うフランスの香りといった、ゆるくて深い週末のベトナム旅行の楽しみ方を紹介していた下川さん。
 本作では、アジアが潜む沖縄そば、脊髄反射のようにカチャーシーを踊る人々、マイペースなおばぁ、突っ込みどころ満載の看板など、日本なのになんだか東南アジアのようにゆるい週末の沖縄旅行の楽しみ方をオススメしています。
 基地問題で揺れ、LCCが離島にも就航し変貌する沖縄の今を描いた、下川さん独自の沖縄の旅の味わい方が聞けるはずです。下川ファンの方はもちろん、沖縄が大好きな方や週末国内旅行に興味のある方はぜひご参加ください!

※トーク終了後、ご希望の方には著作へのサインも行います。

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【日時】11月13日(木)
  19:30 ~ (開場19:00)

【場所】旅の本屋のまど店内

【参加費】900円
  ※当日、会場入口にてお支払い下さい 

【申込み方法】
お電話、ファックス、e-mail、または直接ご来店のうえ、お申し込みください。
  TEL&FAX:03-5310-2627
  e-mail :info@nomad-books.co.jp
(お名前、ご連絡先電話番号、参加人数を明記してください)

※定員になり次第締め切らせていただきます

【お問い合わせ先】
旅の本屋のまど TEL:03-5310-2627 (定休日:水曜日)
東京都杉並区西荻北3-12-10 司ビル1F
http://www.nomad-books.co.jp
  

Posted by 下川裕治 at 13:03Comments(0)

2014年10月27日

また香港に行く

 先週、北アルプスの徳本峠に登った話をした。峠から上高地側に降りてくると明神池があり、山小屋が建っている。そこでひとりの中年登山客のこんな言葉を聞いた。
「中国人より礼儀がいい」
 山小屋近くには野生の猿がいる。マイナス20度にもなる上高地の冬に備えて、木の実をいっぱい食べ、脂肪をつけた体はもっこりと太っていた。猿たちは休憩する登山客のじゃまをしないように、小屋の前庭の脇を通り、すっと木に登った。それを見た登山客が、そういったのだった。
 よほど中国人のマナーの悪さが気になっている人らしい。
 礼儀に欠ける中国人の話は、いまや世界のどこでも耳にする。パリでは、友人と食事をするとき、「そこは中国人がいない?」という会話が普通になっている。夏には沖縄の石垣島でも、中国人の話をきいた。
「あの人たちは、いったんなんなんですか」
 おそらく世界でいちばん敬遠されている観光客だろう。しかし彼らの金離れはいい。観光業にかかわる人たちは、彼らに笑顔を向ける自分が腹立たしくもあるのだろう。
 中国人のマナーの悪さを、僕は20年以上前から書いてきた。しかし彼らはいっこうに改めようとしない。
 それぞれの国には独自の習慣がある。そのまま振る舞うと、海外では顰蹙を買う。バブル時代の日本人がそうだった。しかし、しばらくたつと、そんな話も消えていく。おそらく日本人は、他人の視線を敏感に察する民族なのだ。
 そこへいくと中国人への苦言は消える気配がない。20年以上も世界を席巻している。
「あれだけの人口がいるんだからしかたないことでしょ」
「外国に何回も行った上海や北京の人はわかりつつありますよ」
 気遣いの声も聞こえてくるが、やはり皆が気になっている。それでも中国人批判が鳴りやまないのは、中国人が気にしていないからだろう。世界の人々が自分たちをどう見ているか……ということへの関心が薄いのだ。
 中国という国は、常に強い権力に支配されてきた。それはいまの中国共産党も例外ではない。そのなかで生きる人々は、いつも支配する人の顔色を窺っている。それは、周りの庶民が自分をどう見ているかという意識よりはるかに強い。周囲がなんといおうと、上が認めれば正義。それが中国人の論理のような気がする。だから旅先でも、自分たちの流儀で振る舞ってしまう。
 路上を占拠する香港の学生や民主派の意識の底にこの問題がある。しかし彼らもまた中国人なのだ。
 明日、香港に行く。金鐘や旺角に行ってみる。路上占拠を見るのは、これで2回目だ。またこの問題で悩んでみる。

  

Posted by 下川裕治 at 12:52Comments(0)

2014年10月20日

絶対味覚というもの

 ある作家が料理についてこんなことを書いていた。
「エッセイなどで、この店の料理がうまいといったことは書かないようにしている」
 その通りだと思う。だいたい世のなかにまずい料理というものは、まったくといっていいほどない。そしておいしいという感覚はきわめて主観的なものだ。それを基準に料理を評価するのは、つくった人に悪いと思う発想が生んだ言葉だ。その誠意は心地いい。
 昨日、北アルプスに登った。最近、山に登ると、途中、バテ気味になることがあった。しばらく休めば治るのだが、やはり体力が落ちている気がした。今回は徳本峠という、本格的に山に登る人にしたらハイキング程度のコースだったということもあったのだが、とくに体調の異変もなく登り終えることができた。
 山に登っていつも思うのだが、途中で飲む水はおいいしい。今回は運よく天候に恵まれた。前穂高から奥穂高の稜線を眺めて飲む水は、本当においしかった。登り終えて買うビールは格別だった。北アルプスは初冠雪を迎え、寒さのなかで口にする山小屋のうどんにも救われる思いがした。山に入ると、すべての食べ物の味が増す気がする。
 それは単純な論理だ。汗を流し、息を切らして体を動かすからだ。登り終えた後は達成感もある。そういう状況に体を置けば、口にするものはすべておいしくなる。
 食べ物の味とはそういうものだと思う。
 食べ物の味より、食べる前の体の状態のほうが、強く味を左右する。1杯の水も味を変えてしまうのだ。腹が減っていれば、なんでもおいしくなる。そんな話をすると、知人からこういわれた。
「それは下川さんが食いしん坊じゃないからですよ」
 たしかにそんな気もする。世のなかには、絶対味覚をもっている人がいる。たとえば、作家の開高健はそのひとりだった気がする。彼の文章を読むと、食べ物の描写に言葉を失う。彼は無類の食いしん坊でもあった。
 その発想でいえば、冒頭で紹介した作家は食いしん坊ではないのだろう。絶対味覚をもっていないのだ。そして、僕にも頼りにする味覚がない。
 しかし、社会には、食べ物情報が氾濫している。テレビ、ネット、食べ物ガイド……。その情報を発信している人の多くが、絶対味覚をもっていないはずだ。
 それはおそらく、味覚というものが、主観的なものだからだろう。軽く受け流すことができるという情報の薄さがあるから、無責任に「おいしい」といえるのだ。
 山に登る……。それは人にはわかってほしくない自己満足に浸れるからではないかとも思う。山で口にするもののおいしさを、ひとりで味わうことができるからだ。人はそういう部分をもっていないと生きることができない。絶対味覚をもっていない多くの人の楽しみがそこにある。

  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(0)

2014年10月13日

ネットの外側に広がる宿

 九州に行ってきた。ローカル線の各駅停車に乗り、駅前旅館に泊まる旅──という取材である。今回は日田彦山線、九大本線、豊肥本線、肥薩線に乗り、福岡県から鹿児島県まで道のりだった。
 これまで水郡線、只見線、身延線、大糸線といったローカル線に乗ってきたが、途中の駅近くにある駅前旅館探しに苦労する。
 理由は、この種の宿が、インターネット予約という世界の外にあるからだ。市役所や町役場に訊ね、地図で調べながら探していく。以前は数多くの駅前旅館があったが、廃業しているところも多い。
 駅前旅館の多くがインターネット予約できない理由は、高齢化である。パソコンを使わないという人もいるが、多くが、多くの客が泊まってしまうと対応できないのだ。だいたいが50代、60代といった女性が切り盛っている。ご主人は別の仕事というところが多い。一家で経営するほどの客が泊まらないのだ。いや、宿泊客が減ってしまったといってもいい。
 しかし駅前旅館は味わい深い。駅前のビジネスホテルにはない気楽さと温かさが流れている。切り盛る女性は、工事関係の人など、1ヵ月、長くなると1年という宿泊客を受け入れてきた。宿というより、下宿のおばさん風情が漂っている。1泊2食付で、5,000円から6,000円と値段である。
 酒類を部屋に持ち込んでもなにもいわれない。夕食が終わり、部屋で少し酒でも……というと、コップや氷を用意してくれる。すべて無料である。まあ、下宿なのである。
 九州の人吉では87歳のおばあさんの宿に泊まった。連絡すると、
「もう食事はつくれないので、泊まるだけならいいですよ」
 といわれた。昭和34年、1959年にできた宿だった。かつては道路工事の人が何ヵ月も泊まったという。高度成長の時代だった。公共工事が多かった。
「道がよくなって、工事関係の人も八代から車で通うようになりました。昔はこのあたりには30軒も宿があったんですけど」
 道をつくる公共工事で一時的に地方は潤うが、最終的にはその道によって地方の町が衰退していくという絵にかいたような構図が流れている。
 しかし長年、さまざまな客を受け入れてきたおばあさんの言葉は、マニュアルにはない温かさがある。人吉は温泉の町だが、この種の宿に温泉はない。家族風呂である。
「お湯をどんどん入れながら入ると、温泉みたいでよかですよ」
 おばあさんが笑いながらいう。
 翌朝、宿を出ようとすると、おばあさんが毛糸でつくったハンコ入れをくれた。
「食事が出せないお詫びです。これからもちょぼちょぼやっていきます。お互い頑張りましょうね」
 ネットが通じない宿には、こういう世界が広がっている。それがいまの日本でもある。
  

Posted by 下川裕治 at 10:32Comments(1)

2014年10月06日

香港に降るのは涙雨? それとも雨傘革命?

 香港にいる。本を書く仕事があり、先月も香港にいた。その予兆はあったのだが、10月1日の国慶節を前に、香港で路上占拠がはじまってしまった。やはり気になった。また香港行きの飛行機に乗ってしまった。
 香港には中国返還時に定められた「香港基本法」がある。そのなかで、民主化を徐々に進め、最終的には普通選挙で行政長官を選ぶことになっている。普通選挙とは、香港のトップである行政長官を、一般有権者が直接投票するスタイルである。
 この方向のなかで、中国返還以来、何回となく交渉が続けられてきた。そして2007年に中国政府は、「2017年の行政長官選挙では、普通選挙を実施してもいい」と発表した。しかし今年、中国政府は候補者を絞り込んだうえでの普通選挙という方針を打ち出した。つまり中国寄りの候補者のなかでの普通選挙である。これに香港の学生や民主派が反発し、路上占拠に発展した。この原稿を書いている10月3日、香港島の金鐘、中環という中心街と銅鑼湾、九龍半島側の旺角、尖沙咀の広東道が占拠されている。
 一時は警察が催涙ガスを使って占拠する市民を排除しようとしたが失敗。日を追って、路上占拠が広がってきている。
 毎日、占拠されたエリアを歩きまわっている。ときおり大粒の香港らしい雨が降る。
 あのときもそうだった。香港が中国に返還された翌日、僕は香港に入った。激しい雨に香港は洗われていた。
 涙雨──。香港人の思いを乗せたような雨だった。世界の植民地のなかで、独立や返還に反対する人々の声があがった唯一のエリアが香港だった。社会主義国である中国への返還だったからだ。大戦後、中国大陸から香港に移り住んだ人たちは、社会主義を嫌った人が多かった。
 中国政府は返還から50年の間、一国二制度を採用するとした。50年で香港と中国は同じレベルになる……という読みがあったといわれる。それは、香港の中国化なのか、中国の香港化なのか……誰にもわからなかった。
 2017年の普通選挙は、その第一段階とみる向きもある。
 路上占拠の先陣を切ったのは、返還前後に生まれた学生である。中国の息がかかった香港の歴代長官は、不動産に絡んだ悪い噂が絶えない。その反発もあっただろう。そんな不満へのガス抜きという人もいる。
 しかし学生たちは頑張っている。雨のなかで路上に居座り、集まった人に水を配り、ゴミを回収する。救護の学生が待機する。路上占拠はバンコクで経験しているが、集まる人が桁違いに多い。動員されている気配はまったくない。
 しかし普通選挙の要求を中国は呑めないだろう。それは中国の体制の根幹にかかわっているからだ。香港と違い、中国の政権は巨大で強い。
 また雨が降ってきた。
 催涙ガス弾を学生たちは雨傘で防いだことから、誰とはなく、この路上占拠は、「雨傘革命」と呼ばれるようになっている。

  

Posted by 下川裕治 at 14:44Comments(0)