2014年11月24日
アジア人にいたわられた旅行者
朝日新聞社のウエブサイトである『&M』で連載を続けている。僕の旅を写真と文章、そして動画で紹介している。
いまの連載は、『駅前旅館に泊まる無人駅鉄道の旅』。アジアの旅が多いのだが、今回は日本。追ってアジアが登場してくる予定だが。
この連載には、動画がつく。同行するカメラマンが撮るのだが、当然、僕が映り込んでしまうときがある。
次回の動画を観て、かなり落ち込んだ。九州の久大本線の北山田駅近くにある駅前旅館に入っていくシーンが映っているのだが。
腰が曲がっているのだ。
なんだかよぼよぼと歩いている。
僕はこんな歩き方をしているのか……と60歳になって知らされた。
そのとき、10歳の頃に母親にいわれた言葉を思い出した。
「どうしてそんなに腰を曲げて、老人のように歩くの? もっと子供らしく歩きなさい」
僕はどうも、子供の頃から、よぼよぼと歩いていたらしい。腰が曲がり、上半身が前に傾いている。もう50年も、こういう歩き方をしてきたのだ。
知り合いと会ったとき、たまにこういわれることがある。
「ずいぶん疲れているみたいだね」
まったく疲れていないときも、そういわれるから、答えに困るときがある。ひょっとしたら、知人は僕の歩き方を見ていたのかもしれない。たしかに元気溌剌といった歩き方ではない。自分でいうのもなんだが、表情もさえないことが多い。そこでまた、母親にいわれた言葉を思い出した。
「あなたは表情が杜撰なんです。もっと子供らしく、嬉しいときは嬉しく、悲しいときは悲しい顔をしなさい」
僕はどうも、子供のときから、よぼよぼ歩き、表情がなかったようなのだ。つまり年老いた子供である。自分のなかでは、いつか年相応になると思っていたが、まだそう思えないということは、子供の頃、80歳ぐらいの雰囲気をもっていたのだろうか。いや、そんなことはあるまい。
老けて見えることで得をしたこともあると思う。僕は大学を卒業して、新聞社に勤めたが、「なにも知らない若い記者」と見られることは少なかった。実はなにも知らなかったのだが。いや、それは新聞記者としてはマイナスだったかもしれない。知らないことを素直に訊いたほうが、いい記事を書くことができるからだ。
新聞記者を辞めてから、旅がちな人生を送ってきたが、大きなトラブルにも見舞われずに、なんとかやってこれたのは、この老人臭い歩き方や表情が効いたのかもしれない。つまり、アジアの人たちがいたわってくれたのだ。
つまりそういうことか……。
動画のなかで、よぼよぼと歩く自分の姿を見ながら、そんなことを考えていた。
いまの連載は、『駅前旅館に泊まる無人駅鉄道の旅』。アジアの旅が多いのだが、今回は日本。追ってアジアが登場してくる予定だが。
この連載には、動画がつく。同行するカメラマンが撮るのだが、当然、僕が映り込んでしまうときがある。
次回の動画を観て、かなり落ち込んだ。九州の久大本線の北山田駅近くにある駅前旅館に入っていくシーンが映っているのだが。
腰が曲がっているのだ。
なんだかよぼよぼと歩いている。
僕はこんな歩き方をしているのか……と60歳になって知らされた。
そのとき、10歳の頃に母親にいわれた言葉を思い出した。
「どうしてそんなに腰を曲げて、老人のように歩くの? もっと子供らしく歩きなさい」
僕はどうも、子供の頃から、よぼよぼと歩いていたらしい。腰が曲がり、上半身が前に傾いている。もう50年も、こういう歩き方をしてきたのだ。
知り合いと会ったとき、たまにこういわれることがある。
「ずいぶん疲れているみたいだね」
まったく疲れていないときも、そういわれるから、答えに困るときがある。ひょっとしたら、知人は僕の歩き方を見ていたのかもしれない。たしかに元気溌剌といった歩き方ではない。自分でいうのもなんだが、表情もさえないことが多い。そこでまた、母親にいわれた言葉を思い出した。
「あなたは表情が杜撰なんです。もっと子供らしく、嬉しいときは嬉しく、悲しいときは悲しい顔をしなさい」
僕はどうも、子供のときから、よぼよぼ歩き、表情がなかったようなのだ。つまり年老いた子供である。自分のなかでは、いつか年相応になると思っていたが、まだそう思えないということは、子供の頃、80歳ぐらいの雰囲気をもっていたのだろうか。いや、そんなことはあるまい。
老けて見えることで得をしたこともあると思う。僕は大学を卒業して、新聞社に勤めたが、「なにも知らない若い記者」と見られることは少なかった。実はなにも知らなかったのだが。いや、それは新聞記者としてはマイナスだったかもしれない。知らないことを素直に訊いたほうが、いい記事を書くことができるからだ。
新聞記者を辞めてから、旅がちな人生を送ってきたが、大きなトラブルにも見舞われずに、なんとかやってこれたのは、この老人臭い歩き方や表情が効いたのかもしれない。つまり、アジアの人たちがいたわってくれたのだ。
つまりそういうことか……。
動画のなかで、よぼよぼと歩く自分の姿を見ながら、そんなことを考えていた。
Posted by 下川裕治 at
18:35
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2014年11月17日
僕は香港で解放された
人にはいえない好物というものがある。貧相な食べ物であることが多い。カルピスがけご飯が好物という画家に会ったことがある。そのとき、彼は60歳を超えていて、もう周囲の視線が気にならない年齢だったのかもしれない。
この種の好物は、男の場合、多くがひとり暮らしのときに刷り込まれている。貧しい食生活の所産でもあるのだが、一度、味覚に刻まれてしまうと、そこから抜け出ることは難しい。
僕の好物は、インスタントラーメンパンである。インスタントラーメンは、サンヨーのサッポロ一番塩ラーメンが望ましい。パンは買ってから2~3日経ったものがいい。
あまりに簡単な食べ物である。インスタントラーメンをつくり、なにもつけない食パンと一緒に食べる。コツといえば、インスタントラーメンのスープを、やや濃い目につくることだろうか。
独身時代に、舌に刷り込まれた味である。ひとりで暮らしていると、米を炊くということが面倒になる。そこから生まれた組み合わせだ。トラーメンは、丼に入れす、鍋から直接食べると、あの時代が蘇ってくる。丼を洗うのが鬱陶しかった。
長く人前では口に出せなかったが、アジアの旅の途中で、心強い同士に出会った。香港人である。
香港で僕はよく茶餐廳に入る。この店は定食屋、そば屋、カフェ……と外食のすべてに対応した便利な店だ。それに安い。香港の街のなかには、いたるところにある。
ある朝、茶餐廳に入った。近くのテーブルを見ると、ひとりの男が朝食を食べていた。それがインスタントラーメンとトーストという組み合わせだった。茶餐廳でインスタントラーメンといえば、だいたいが出前一丁である。もとは日本から輸出されたものだが、香港人の味覚にぴったりとはまり、インスタントラーメンの代名詞になった。メニューに出前一丁と書く店は多かった。いまでは公子麺という表記も増えているが。
一緒に食べていたのは食パンではなく、トーストだった。店にしたら、さすがに食パンだけでは出せなかったのかもしれない。
いや、そういうことではなかった。日本では口にするのが気が引けたものを、香港人は堂々と食べていたのだ。その後、何回となくインスタントラーメンパンを食べている人を見て、僕は心を強くした。
そして解放された。
日本ではバカにされるかもしれないが、僕の背後には香港人が控えている……。
茶餐廳の朝の定番といえば、マカロニスープとパンである。このマカロニスープが、いったいどうしたものか……と天を仰ぐほどまずい。こういうものを毎朝食べる香港人の味覚には一抹の不安があるのだが、彼らはインスタントラーメンパンも好物なのだ。
旅はするものだ。
この種の好物は、男の場合、多くがひとり暮らしのときに刷り込まれている。貧しい食生活の所産でもあるのだが、一度、味覚に刻まれてしまうと、そこから抜け出ることは難しい。
僕の好物は、インスタントラーメンパンである。インスタントラーメンは、サンヨーのサッポロ一番塩ラーメンが望ましい。パンは買ってから2~3日経ったものがいい。
あまりに簡単な食べ物である。インスタントラーメンをつくり、なにもつけない食パンと一緒に食べる。コツといえば、インスタントラーメンのスープを、やや濃い目につくることだろうか。
独身時代に、舌に刷り込まれた味である。ひとりで暮らしていると、米を炊くということが面倒になる。そこから生まれた組み合わせだ。トラーメンは、丼に入れす、鍋から直接食べると、あの時代が蘇ってくる。丼を洗うのが鬱陶しかった。
長く人前では口に出せなかったが、アジアの旅の途中で、心強い同士に出会った。香港人である。
香港で僕はよく茶餐廳に入る。この店は定食屋、そば屋、カフェ……と外食のすべてに対応した便利な店だ。それに安い。香港の街のなかには、いたるところにある。
ある朝、茶餐廳に入った。近くのテーブルを見ると、ひとりの男が朝食を食べていた。それがインスタントラーメンとトーストという組み合わせだった。茶餐廳でインスタントラーメンといえば、だいたいが出前一丁である。もとは日本から輸出されたものだが、香港人の味覚にぴったりとはまり、インスタントラーメンの代名詞になった。メニューに出前一丁と書く店は多かった。いまでは公子麺という表記も増えているが。
一緒に食べていたのは食パンではなく、トーストだった。店にしたら、さすがに食パンだけでは出せなかったのかもしれない。
いや、そういうことではなかった。日本では口にするのが気が引けたものを、香港人は堂々と食べていたのだ。その後、何回となくインスタントラーメンパンを食べている人を見て、僕は心を強くした。
そして解放された。
日本ではバカにされるかもしれないが、僕の背後には香港人が控えている……。
茶餐廳の朝の定番といえば、マカロニスープとパンである。このマカロニスープが、いったいどうしたものか……と天を仰ぐほどまずい。こういうものを毎朝食べる香港人の味覚には一抹の不安があるのだが、彼らはインスタントラーメンパンも好物なのだ。
旅はするものだ。
Posted by 下川裕治 at
11:27
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2014年11月10日
グーグルの波も消えた?
いまになってはじまったことではないのだが……。いや、最近、規制が強くなってきのだろうか。中国のインターネットである。検閲をめぐって中国政府とグーグルとの折り合いがつかず、グーグルが中国から撤退したのは4年ほど前。それ以来、何回か中国に出向いた。たしかに中国でのグーグルの接続は不安定だった。Gメールも同様である。
波のように……。中国を訪れた外国人がよく使う言葉だった。インターネットの接続が波のようなのだ。波がきているときはつながるのだが、一定の時間がすぎると、波が消えてしまう。
インターネットの接続に詳しくはない。だから、「波」という表現になってしまう。しかし中国にやってきた旅行者の間では、しばしば話題になった。
「いま波がきています」
そういう連絡が入る。慌てて、メールを立ち上げたことが何度もある。
「いや、その波もないんです」
先週、上海に行ったが、その少し前に中国を訪ねた知人が伝えてくれた。なんでも天安門事件から25年で、規制を強めているという話なのだが。上海に着き、ホテルでネットにつないでみた。メールを見た。届いたメールのタイトルはわかるのだが、内容を開くことができなかった。波がくる予感はまったくなかった。
和平演変という言葉がある。情報の交流、経済支援などを通して、社会主義国の民主化を進めるという自由主義圏の発想である。どこか東西冷戦時代が蘇ってくる言葉だが、中国はこの和平演変を極端に嫌っている。
かつての社会主義国の多くは、和平演変を嫌っていた。しかし西側社会から入り込む情報を遮断することは難しかった。
中国は、旧ソ連や東欧は和平演変によって社会主義が崩壊したととらえている。そう分析する以上、中国は自由主義圏からの情報の浸透をくい止めなければならない。
しかしそれはとんでもなく大変なことのように映る。とくにインターネットが普及してから、その負荷はさらに増したはずである。ネット情報を遮断するために、いったいどれほどの人が係わっているのだろうか。
いまの世界で、政治的な意図によって、外国からのネット情報を遮断しようとしている国は多くない。中国と北朝鮮はその数少ない国でもある。
それは人間の知りたいという欲求への挑戦でもある。制度やシステムを超えたところにその心理はある。
しかし中国に暮らす外国人たちはなかなか頼もしい。そのなかでしっかりと情報を得ている。フェイスブックやラインが使えないという不自由はあるかもしれないが、それ以外の方法でしっかりネット情報を得ているし、海外との連絡もネットを使っている。規制などどこ吹く風といった感がある。慌てるのは旅行者だけだ。
もっとも僕は、ネットが通じないことをいいことに、軽い足どりで上海の街を歩いていたのだが。
波のように……。中国を訪れた外国人がよく使う言葉だった。インターネットの接続が波のようなのだ。波がきているときはつながるのだが、一定の時間がすぎると、波が消えてしまう。
インターネットの接続に詳しくはない。だから、「波」という表現になってしまう。しかし中国にやってきた旅行者の間では、しばしば話題になった。
「いま波がきています」
そういう連絡が入る。慌てて、メールを立ち上げたことが何度もある。
「いや、その波もないんです」
先週、上海に行ったが、その少し前に中国を訪ねた知人が伝えてくれた。なんでも天安門事件から25年で、規制を強めているという話なのだが。上海に着き、ホテルでネットにつないでみた。メールを見た。届いたメールのタイトルはわかるのだが、内容を開くことができなかった。波がくる予感はまったくなかった。
和平演変という言葉がある。情報の交流、経済支援などを通して、社会主義国の民主化を進めるという自由主義圏の発想である。どこか東西冷戦時代が蘇ってくる言葉だが、中国はこの和平演変を極端に嫌っている。
かつての社会主義国の多くは、和平演変を嫌っていた。しかし西側社会から入り込む情報を遮断することは難しかった。
中国は、旧ソ連や東欧は和平演変によって社会主義が崩壊したととらえている。そう分析する以上、中国は自由主義圏からの情報の浸透をくい止めなければならない。
しかしそれはとんでもなく大変なことのように映る。とくにインターネットが普及してから、その負荷はさらに増したはずである。ネット情報を遮断するために、いったいどれほどの人が係わっているのだろうか。
いまの世界で、政治的な意図によって、外国からのネット情報を遮断しようとしている国は多くない。中国と北朝鮮はその数少ない国でもある。
それは人間の知りたいという欲求への挑戦でもある。制度やシステムを超えたところにその心理はある。
しかし中国に暮らす外国人たちはなかなか頼もしい。そのなかでしっかりと情報を得ている。フェイスブックやラインが使えないという不自由はあるかもしれないが、それ以外の方法でしっかりネット情報を得ているし、海外との連絡もネットを使っている。規制などどこ吹く風といった感がある。慌てるのは旅行者だけだ。
もっとも僕は、ネットが通じないことをいいことに、軽い足どりで上海の街を歩いていたのだが。
Posted by 下川裕治 at
12:00
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2014年11月03日
わかりあえない香港と上海
香港からバンコクに戻り、上海に1泊して昨夜、東京に戻った。上海に着いたのは10月31日の夕方。強い雨に包まれていたが、街はハロウィンに浮かれていた。
上海からしばらく足が遠のいてしまっていた。日本の嫌中、つまり中国を嫌う空気は相変わらずで、上海にいる日本人の知人たちも元気がない。上海に行くきっかけをみつけられずにいた。
中国にしばらく行かないと、不思議なことに中国に批判的になっていってしまう。おそらく世界に流れている中国情報は、嫌中になびいているからだろう。
1年ぶりだった。携帯電話のシムカードや地下鉄に乗る交通カードの残額など、確認しなくてはいけないことがいくつかある。それらが整って、さて上海。1年の間に、上海は進化していた。いつも泊まるホテルは、改装されて少しきれいになっていた。それでも宿代は1泊200元。日本円で2500円ほどですんでしまう。ホテルの周りには、こぎれいな食堂やカフェも増えた。
しかし今回は、どうしても香港で路上を占拠する学生や民主派のことが上海の街にだぶってしまう。上海が整っていくことに、どこか引っかかるものが生まれてしまう。
中国人は、香港のことは知っている。しかし詳しい情報は届いていない。テレビも新聞も報道はごくわずかだ。政府は香港からの情報に神経を使っているのだろう。「なるべく香港に行かないように」という通達も出ているという。
それも影響しているのかもしれないが、上海の人たちは、香港の状況に冷淡だった。要求する普通選挙に対しても「無駄」のひとことで片づけてしまうようなところがあった。
普通選挙は中国共産党の根幹を突く要求だから、たしかに無駄だった。しかし、それにあえて挑む香港人へのシンパシーは薄い。そしてなにも考えずに、「今晩はハロウィンで仮装して騒ごう」なのである。
またしても路上で悩んでしまう。香港の学生の多くは、上海の空気を知らない。そして上海の人々も香港の若者が抱える閉塞感を理解することができない。そのずれは、中国という社会を眺めると陳腐に映る。
上海は香港に比べれば味わい深い街だ。プラタナスの街路樹はもうじき色づく。人民公園のイチョウは黄を強めはじめていた。
しかし香港では、多くの学生が路上のテントで寝泊まりしている。香港が返還されたとき、こんな状況を誰が想像しただろう。
わかりあえないふたつのエリア。この溝はいったいいつになったら埋まる気配が生まれるのだろうか。
上海からしばらく足が遠のいてしまっていた。日本の嫌中、つまり中国を嫌う空気は相変わらずで、上海にいる日本人の知人たちも元気がない。上海に行くきっかけをみつけられずにいた。
中国にしばらく行かないと、不思議なことに中国に批判的になっていってしまう。おそらく世界に流れている中国情報は、嫌中になびいているからだろう。
1年ぶりだった。携帯電話のシムカードや地下鉄に乗る交通カードの残額など、確認しなくてはいけないことがいくつかある。それらが整って、さて上海。1年の間に、上海は進化していた。いつも泊まるホテルは、改装されて少しきれいになっていた。それでも宿代は1泊200元。日本円で2500円ほどですんでしまう。ホテルの周りには、こぎれいな食堂やカフェも増えた。
しかし今回は、どうしても香港で路上を占拠する学生や民主派のことが上海の街にだぶってしまう。上海が整っていくことに、どこか引っかかるものが生まれてしまう。
中国人は、香港のことは知っている。しかし詳しい情報は届いていない。テレビも新聞も報道はごくわずかだ。政府は香港からの情報に神経を使っているのだろう。「なるべく香港に行かないように」という通達も出ているという。
それも影響しているのかもしれないが、上海の人たちは、香港の状況に冷淡だった。要求する普通選挙に対しても「無駄」のひとことで片づけてしまうようなところがあった。
普通選挙は中国共産党の根幹を突く要求だから、たしかに無駄だった。しかし、それにあえて挑む香港人へのシンパシーは薄い。そしてなにも考えずに、「今晩はハロウィンで仮装して騒ごう」なのである。
またしても路上で悩んでしまう。香港の学生の多くは、上海の空気を知らない。そして上海の人々も香港の若者が抱える閉塞感を理解することができない。そのずれは、中国という社会を眺めると陳腐に映る。
上海は香港に比べれば味わい深い街だ。プラタナスの街路樹はもうじき色づく。人民公園のイチョウは黄を強めはじめていた。
しかし香港では、多くの学生が路上のテントで寝泊まりしている。香港が返還されたとき、こんな状況を誰が想像しただろう。
わかりあえないふたつのエリア。この溝はいったいいつになったら埋まる気配が生まれるのだろうか。
Posted by 下川裕治 at
14:11
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