2014年12月29日
【イベント告知】下川裕治トークイベント 「ミャンマー北部から最南端へ。少数民族のそれぞれの民主化」
日本アセアンセンターからイベントのお知らせです。
ミャンマー北部から最南端へ。少数民族のそれぞれの民主化
今年も旅行作家・下川裕治さんが、東南アジア旅について語って下さいます。
今回の旅先はミャンマーです。昨年、取材で訪れたミャンマー各地の様子を、写真を交えたトーク形式でお話いただきます。

--------------------------------
【日 時】:
2015年1月15日(木)
18:30~20:30(18:00受付開始)
【場 所】:
日本アセアンセンター
アセアンホール <アクセス>
【定 員】: 100名
*要事前申込み メールでお申し込みください。
「セミナー名」「お名前」を明記の上、
(Email: info_to@asean.or.jp)
*特に受付確認の返信をいたしませんが、定員に達し、受付できない場合のみご連絡差し上げます。
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ミャンマー北部から最南端へ。少数民族のそれぞれの民主化
今年も旅行作家・下川裕治さんが、東南アジア旅について語って下さいます。
今回の旅先はミャンマーです。昨年、取材で訪れたミャンマー各地の様子を、写真を交えたトーク形式でお話いただきます。

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【日 時】:
2015年1月15日(木)
18:30~20:30(18:00受付開始)
【場 所】:
日本アセアンセンター
アセアンホール <アクセス>
【定 員】: 100名
*要事前申込み メールでお申し込みください。
「セミナー名」「お名前」を明記の上、
(Email: info_to@asean.or.jp)
*特に受付確認の返信をいたしませんが、定員に達し、受付できない場合のみご連絡差し上げます。
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Posted by 下川裕治 at
12:15
│Comments(0)
2014年12月29日
「ホワイトクリスマス」にむっとする
北海道の留萌線。その終点の増毛にいた。先週のことだ。
列車がこの町に着いたのは朝の7時すぎだった。雪道を歩いて港まで行ってみた。
強風が吹いていた。ときに突風に体がもっていかれそうになる。気温はマイナス5度ぐらいだろうか。凍った道に足許をとられてしまう。漁連の倉庫の脇で風をしのいだ。軽トラックがのろのろとやってきて、漁港につないだ船の様子を見にきていた。
「今日は荒れる」
あとになって考えてみれば、漁師はその日の天候がわかっていたのだ。だから船をつなぐ綱を確認にきていたのだ。
どこか店に入りたかったが、まだ時刻が早かった。いや、増毛のような小さな町では、多くの店が冬場は休むのかもしれない。ましてや、今日はこの天気である。
風に雪が混じりはじめた。横なぐりの雪が顔にあたる。寒さはすぐに通りこして痛くなってくる。どこかでこの吹雪から避難しなくては……。増毛駅の待合室しかなかった。
増毛駅は、留萌線の終着駅だというのに無人駅だった。駅員はいないが、待合室は開放されていた。足や指の先はすでに感覚がなくなっている。頬だけが雪が吹き付けて痛さが伝わる。つい急ぎ足になってしまうが、ところどころに吹きだまりがあり、足がずぼりと入ってしまう。
「ふーッ」
待合室でひと息ついた。暖房はないが、風がないだけで救われる。
マイナス20度のシベリアやハルピン、雪に埋まったインドのスリナガル北部。寒い地域は何回か経験してきていたが、この風ははじめてだった。それなりの防寒対策はしてきたつもりだったが、この吹雪は、顔をすっぽり包むものが必要だった。北海道の日本海沿岸を襲う吹雪は、世界でもトップクラスのつらさをもっていた。
1時間ほど待合室にいた。しかし風雪は強くなるばかりで、町並みもまったく見えなくなってしまった。ホワイトアウトである。町を歩く人もまったくいない。
意を決して外に出た。どこかの店で暖かいものを胃に入れたかった。10メートルほど進んだだろうか。一緒にいるカメラマンに声をかけた。
「無理だ。戻るしかない」
前がまったく見えず、横殴りの雪で体は真っ白である。強風がこれほどつらいものだとは思わなかった。
吹雪には波があることがわかった。駅の待合室で震えながら見ていると、ぴたりと風が止まることがある。それが10分ほど続き、また視界がきかなくなる。その時間しか外に出ることができなかった。
その日は宗谷本線で美深まで北上した。駅前の宿に入り、テレビの天気予報を見る。
「24日の夜、日本海岸はホワイトクリスマスになりそうです」
お天気キャスターの言葉にむっときた。
列車がこの町に着いたのは朝の7時すぎだった。雪道を歩いて港まで行ってみた。
強風が吹いていた。ときに突風に体がもっていかれそうになる。気温はマイナス5度ぐらいだろうか。凍った道に足許をとられてしまう。漁連の倉庫の脇で風をしのいだ。軽トラックがのろのろとやってきて、漁港につないだ船の様子を見にきていた。
「今日は荒れる」
あとになって考えてみれば、漁師はその日の天候がわかっていたのだ。だから船をつなぐ綱を確認にきていたのだ。
どこか店に入りたかったが、まだ時刻が早かった。いや、増毛のような小さな町では、多くの店が冬場は休むのかもしれない。ましてや、今日はこの天気である。
風に雪が混じりはじめた。横なぐりの雪が顔にあたる。寒さはすぐに通りこして痛くなってくる。どこかでこの吹雪から避難しなくては……。増毛駅の待合室しかなかった。
増毛駅は、留萌線の終着駅だというのに無人駅だった。駅員はいないが、待合室は開放されていた。足や指の先はすでに感覚がなくなっている。頬だけが雪が吹き付けて痛さが伝わる。つい急ぎ足になってしまうが、ところどころに吹きだまりがあり、足がずぼりと入ってしまう。
「ふーッ」
待合室でひと息ついた。暖房はないが、風がないだけで救われる。
マイナス20度のシベリアやハルピン、雪に埋まったインドのスリナガル北部。寒い地域は何回か経験してきていたが、この風ははじめてだった。それなりの防寒対策はしてきたつもりだったが、この吹雪は、顔をすっぽり包むものが必要だった。北海道の日本海沿岸を襲う吹雪は、世界でもトップクラスのつらさをもっていた。
1時間ほど待合室にいた。しかし風雪は強くなるばかりで、町並みもまったく見えなくなってしまった。ホワイトアウトである。町を歩く人もまったくいない。
意を決して外に出た。どこかの店で暖かいものを胃に入れたかった。10メートルほど進んだだろうか。一緒にいるカメラマンに声をかけた。
「無理だ。戻るしかない」
前がまったく見えず、横殴りの雪で体は真っ白である。強風がこれほどつらいものだとは思わなかった。
吹雪には波があることがわかった。駅の待合室で震えながら見ていると、ぴたりと風が止まることがある。それが10分ほど続き、また視界がきかなくなる。その時間しか外に出ることができなかった。
その日は宗谷本線で美深まで北上した。駅前の宿に入り、テレビの天気予報を見る。
「24日の夜、日本海岸はホワイトクリスマスになりそうです」
お天気キャスターの言葉にむっときた。
Posted by 下川裕治 at
11:55
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2014年12月23日
駅のイメージを刷り込まれた『駅』
いま、秋田県の能代にいる。朝、7時台の東北新幹線に乗って古川。そこから陸羽東線と陸羽西線に乗って酒田。日本海に沿って羽越本線、奥羽本線を北上してきた。
古川からはすべて各駅停車。青春18切符の旅である。
各駅停車に乗り、駅前旅館に泊まる旅を続けている。明日は五能線から北海道へとさらに北に進んでいくつもりだ。
この旅に出る前、高倉健が主演する『駅』という映画を観た。そのロケ地でもある留萌線にも乗ってみるつもりだ。
映画を観ながら遠い記憶が蘇ってきた。20代の頃、この映画を観ていた。そして、僕のなかの駅というイメージがつくられていった気がする。
映画にはいくつかの北海道の駅が登場するが、たしかな記憶に残っていたのは上砂川だった。そこにいるのは、主演の高倉健ではなく、根津甚八という役者だった。
映画のなかで彼は犯罪者を演じている。赤いミニスカートの女を見ると異常な性欲を抑えきれずに暴行に走ってしまうという役どころだった。札幌で犯行に及び逃亡していた。彼は妹に連絡を入れ、上砂川の駅で会うことになる。
夜になり、ホームに立つ妹が、線路の上を綱渡りをするような恰好で歩いてくる兄をみつける。妹が駆け寄っていくのだが、周囲には妹が兄に会うことを知った警察が待機していた。
駆け寄る妹の背後に、警察が見える。しかし彼は逃げることができない。近づく妹を支えるように抱いてしまうのだ。捕まることがわかりながら、逃げることができない男。それを根津甚八が演じている。その表情が秀逸だった。警察がいることへの怯え、妹に連絡を入れてしまった後悔……。それでも妹が駆け寄ってくる。
北海道の炭鉱駅。線路を照らす灯……。
駅を思い描いたとき、いつも僕のなかで浮かびあがってくる光景だった。それを刷り込んだのが、この映画だった。
人には忘れることができない光景というものがある。それは風光明媚な眺めとか絶景といわれるものではない。自分の精神状態と普通なら通りすぎてしまう光景がシンクロしたとき、忘れえないものになる。それは映画のワンシーンということもある。そういう光景を人はいくつかもっているはずだ。
上砂川の駅はもうない。その後、テレビドラマのなかで悲別という架空の駅のロケ地にもなり、いまはちぇっとした観光地になっているという。そういう駅を見たくはない。イメージが崩れてしまう気がするからだ。
そういえば、根津甚八という役者を最近、映画やテレビで見ていない。調べると、鬱や椎間板ヘルニアなどを患い、闘病生活も送っていたという。
年月が経つということはそういうことなのかもしれないが、線路の上で演じた姿は僕の脳裡にしっかりと焼きついている。
能代駅についたときも、ホームから線路を眺めてしまった。東北の寒くて寂しい駅である。そのときも、なぜか上砂川の駅の光景を思いだしていた。
古川からはすべて各駅停車。青春18切符の旅である。
各駅停車に乗り、駅前旅館に泊まる旅を続けている。明日は五能線から北海道へとさらに北に進んでいくつもりだ。
この旅に出る前、高倉健が主演する『駅』という映画を観た。そのロケ地でもある留萌線にも乗ってみるつもりだ。
映画を観ながら遠い記憶が蘇ってきた。20代の頃、この映画を観ていた。そして、僕のなかの駅というイメージがつくられていった気がする。
映画にはいくつかの北海道の駅が登場するが、たしかな記憶に残っていたのは上砂川だった。そこにいるのは、主演の高倉健ではなく、根津甚八という役者だった。
映画のなかで彼は犯罪者を演じている。赤いミニスカートの女を見ると異常な性欲を抑えきれずに暴行に走ってしまうという役どころだった。札幌で犯行に及び逃亡していた。彼は妹に連絡を入れ、上砂川の駅で会うことになる。
夜になり、ホームに立つ妹が、線路の上を綱渡りをするような恰好で歩いてくる兄をみつける。妹が駆け寄っていくのだが、周囲には妹が兄に会うことを知った警察が待機していた。
駆け寄る妹の背後に、警察が見える。しかし彼は逃げることができない。近づく妹を支えるように抱いてしまうのだ。捕まることがわかりながら、逃げることができない男。それを根津甚八が演じている。その表情が秀逸だった。警察がいることへの怯え、妹に連絡を入れてしまった後悔……。それでも妹が駆け寄ってくる。
北海道の炭鉱駅。線路を照らす灯……。
駅を思い描いたとき、いつも僕のなかで浮かびあがってくる光景だった。それを刷り込んだのが、この映画だった。
人には忘れることができない光景というものがある。それは風光明媚な眺めとか絶景といわれるものではない。自分の精神状態と普通なら通りすぎてしまう光景がシンクロしたとき、忘れえないものになる。それは映画のワンシーンということもある。そういう光景を人はいくつかもっているはずだ。
上砂川の駅はもうない。その後、テレビドラマのなかで悲別という架空の駅のロケ地にもなり、いまはちぇっとした観光地になっているという。そういう駅を見たくはない。イメージが崩れてしまう気がするからだ。
そういえば、根津甚八という役者を最近、映画やテレビで見ていない。調べると、鬱や椎間板ヘルニアなどを患い、闘病生活も送っていたという。
年月が経つということはそういうことなのかもしれないが、線路の上で演じた姿は僕の脳裡にしっかりと焼きついている。
能代駅についたときも、ホームから線路を眺めてしまった。東北の寒くて寂しい駅である。そのときも、なぜか上砂川の駅の光景を思いだしていた。
Posted by 下川裕治 at
12:00
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2014年12月15日
いつも涙の香港人たち
12月11日、普通選挙を要求する民主派や学生たちの路上占拠が収束した。最後は警察に排除される形で、香港島の金鐘で75日続いた占拠は終わった。
その間に3回、僕は占拠された路上に立っていた。何人かの学生と話もした。彼らの何人かは、最後まで座り込みを続けていたかもしれない。
泣きながら警察に逮捕される学生の姿を見ながら、1997年の香港返還のときを思い出していた。あのときは香港らしい大粒の雨が降っていた。涙雨……。香港人の知人はそういった。中国に対抗する香港人たちの抵抗は、いつも涙で終わっていく……。
香港が中国に返還されてからの17年を辿ってみれば、それは小さな政府が大きな政府の翻弄されていく年月だった。
はじめて香港を訪ねたのは、もう40年以上前になる。まだ学生だったが、この街が放つ自由のにおいに圧倒された。日本よりはるかに自由な空気が、ビクトリア湾や尖沙咀に流れていた。イギリスの植民地だったが、管理するのは、小さな政府だった。その自由さのなかで、香港人の商才が実を結んでいく。香港はアジアの流通と金融のハブとして豊かさを手に入れていくのだ。アイデアと汗で豊かになることが可能な街だった。それが香港の魅力だった。
しかし返還された先の中国は、中国共産党による巨大な政府の管理国家だった。その中国が開放政策に転じ、高度経済成長を実現していく。中国に蓄積された資金は、その投資先を求めて、香港になだれ込んできた。中国に生まれた富にとって、一国二制度は好都合な構造だった。
中国人にとって、香港は憧れの街だった。その街への旅行が解禁されると、礼儀は知らないが、うなるような札束を手にした中国人が香港に大挙して現れるようになる。
そこで成功していったのが、香港の親中派だった。不動産業に進出した彼らに中国からの資金が集まり、香港には巨大な財閥が形つくられていった。土地は高騰し、香港社会は格差社会の道をまっしぐらに進んでいった。香港には富の集中を抑える法律やシステムはなかった。小さな政府だけがあった。
香港はその自由さゆえに、中国の資本に席巻されていく。返還から17年という年月の間に、その変化が香港を嵐のように吹き荒れていた。香港は結果として利用されてしまったという印象が強い。
イギリスが根づかせようとした欧米型民主主義。それを身につけた香港人は、中国の前で残酷に晒される。共産党の足許を揺るがす民主主義を、中国は受け入れることはできない。中国はこれからも中国式民主を香港に要求することしかできないだろう。
中国経済は早晩、その成長曲線が鈍っていく。そのとき足枷になってくるのが、大きな政府である。香港と中国の民主をめぐる攻防はまだまだ続く。
その間に3回、僕は占拠された路上に立っていた。何人かの学生と話もした。彼らの何人かは、最後まで座り込みを続けていたかもしれない。
泣きながら警察に逮捕される学生の姿を見ながら、1997年の香港返還のときを思い出していた。あのときは香港らしい大粒の雨が降っていた。涙雨……。香港人の知人はそういった。中国に対抗する香港人たちの抵抗は、いつも涙で終わっていく……。
香港が中国に返還されてからの17年を辿ってみれば、それは小さな政府が大きな政府の翻弄されていく年月だった。
はじめて香港を訪ねたのは、もう40年以上前になる。まだ学生だったが、この街が放つ自由のにおいに圧倒された。日本よりはるかに自由な空気が、ビクトリア湾や尖沙咀に流れていた。イギリスの植民地だったが、管理するのは、小さな政府だった。その自由さのなかで、香港人の商才が実を結んでいく。香港はアジアの流通と金融のハブとして豊かさを手に入れていくのだ。アイデアと汗で豊かになることが可能な街だった。それが香港の魅力だった。
しかし返還された先の中国は、中国共産党による巨大な政府の管理国家だった。その中国が開放政策に転じ、高度経済成長を実現していく。中国に蓄積された資金は、その投資先を求めて、香港になだれ込んできた。中国に生まれた富にとって、一国二制度は好都合な構造だった。
中国人にとって、香港は憧れの街だった。その街への旅行が解禁されると、礼儀は知らないが、うなるような札束を手にした中国人が香港に大挙して現れるようになる。
そこで成功していったのが、香港の親中派だった。不動産業に進出した彼らに中国からの資金が集まり、香港には巨大な財閥が形つくられていった。土地は高騰し、香港社会は格差社会の道をまっしぐらに進んでいった。香港には富の集中を抑える法律やシステムはなかった。小さな政府だけがあった。
香港はその自由さゆえに、中国の資本に席巻されていく。返還から17年という年月の間に、その変化が香港を嵐のように吹き荒れていた。香港は結果として利用されてしまったという印象が強い。
イギリスが根づかせようとした欧米型民主主義。それを身につけた香港人は、中国の前で残酷に晒される。共産党の足許を揺るがす民主主義を、中国は受け入れることはできない。中国はこれからも中国式民主を香港に要求することしかできないだろう。
中国経済は早晩、その成長曲線が鈍っていく。そのとき足枷になってくるのが、大きな政府である。香港と中国の民主をめぐる攻防はまだまだ続く。
Posted by 下川裕治 at
11:56
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2014年12月08日
四万十川の寝酒
寝酒というものがある。ナイトキャップなどともいわれる。これが昔から苦手だった。酒に抵抗があるという意味ではない。寝酒がだめなのだ。
因果な仕事だとは思うが、僕は自宅にいると、寝る直前まで原稿を書いていることが多い。そしてその仕事に、完了というものがない。もちろん、書き終える瞬間はある。短い原稿でも、1冊の本でも終わりがくる。
ひと仕事を終えた、という若干の達成感はある。眠る前である。そんなときに酒に手を伸ばしたとする。
するともういけない。「あそこは、こう直したほうがいいかもしれない」、「ずいぶんわかりにくい原稿を書いたのではないか」などと、直前まで書いていた内容が、頭のなかをぐるぐるとまわりはじめ、収拾がつかなくなってしまう。
ときには再び原稿に向かい直してしまうことすらある。眠るどころの話ではなくなってしまうのだ。
1日の仕事が終わった達成感のなかで、静かに酒を飲むことができる人が羨ましくてしかたない。そういうめりはりのある1日を送りたいといつも思う。
僕の仕事は、頭のなかをいつも、原稿というものが支配してる。終わりというものがない。あえていえば、時間切れ。諦めることが終わりである。
だから旅に出る?
僕は基本的に旅先では原稿を書かない。
昨夜、四国から東京に帰ってきた。ローカル線に乗り、駅前旅館に泊まる旅を続けている。一昨日の晩は江川崎という町にいた。四万十川沿いの小さな町。そこにある駅前旅館に泊まっていた。
駅前旅館のよさは気楽さである。夕食の後に、外で買った酒を部屋で飲んでもなにもいわれない。宿によっては、氷やお湯、コップまでもってきてくれる。駅前旅館は下宿のような宿だからだ。
昨夜は気心の知れたカメラマンと焼酎のお湯割りを飲んでいた。寒波に襲われた四国は雪景色である。ぼんやり眺めながら、お湯割りを飲む。酔いがまわってきたら、このまま寝てしまえばいい。旅先の部屋には原稿はないのだ。
これが寝酒というものかもしれない……と思った。仕事をする家では、寝酒が飲めないが、旅先でしっかり寝酒を飲んでいる。こうして僕は心の均衡を保っているのかもしれない。だから旅なのだろうか。
家で寝酒を飲むことができる人は、きっと旅など出なくてもいいのかもしれない。寝酒を飲みながら心の旅に出ているのだ。
つまりはそういうことなのだろうか。
いや、原稿を書くという仕事がいけない。きっとそうに違いない。
因果な仕事だとは思うが、僕は自宅にいると、寝る直前まで原稿を書いていることが多い。そしてその仕事に、完了というものがない。もちろん、書き終える瞬間はある。短い原稿でも、1冊の本でも終わりがくる。
ひと仕事を終えた、という若干の達成感はある。眠る前である。そんなときに酒に手を伸ばしたとする。
するともういけない。「あそこは、こう直したほうがいいかもしれない」、「ずいぶんわかりにくい原稿を書いたのではないか」などと、直前まで書いていた内容が、頭のなかをぐるぐるとまわりはじめ、収拾がつかなくなってしまう。
ときには再び原稿に向かい直してしまうことすらある。眠るどころの話ではなくなってしまうのだ。
1日の仕事が終わった達成感のなかで、静かに酒を飲むことができる人が羨ましくてしかたない。そういうめりはりのある1日を送りたいといつも思う。
僕の仕事は、頭のなかをいつも、原稿というものが支配してる。終わりというものがない。あえていえば、時間切れ。諦めることが終わりである。
だから旅に出る?
僕は基本的に旅先では原稿を書かない。
昨夜、四国から東京に帰ってきた。ローカル線に乗り、駅前旅館に泊まる旅を続けている。一昨日の晩は江川崎という町にいた。四万十川沿いの小さな町。そこにある駅前旅館に泊まっていた。
駅前旅館のよさは気楽さである。夕食の後に、外で買った酒を部屋で飲んでもなにもいわれない。宿によっては、氷やお湯、コップまでもってきてくれる。駅前旅館は下宿のような宿だからだ。
昨夜は気心の知れたカメラマンと焼酎のお湯割りを飲んでいた。寒波に襲われた四国は雪景色である。ぼんやり眺めながら、お湯割りを飲む。酔いがまわってきたら、このまま寝てしまえばいい。旅先の部屋には原稿はないのだ。
これが寝酒というものかもしれない……と思った。仕事をする家では、寝酒が飲めないが、旅先でしっかり寝酒を飲んでいる。こうして僕は心の均衡を保っているのかもしれない。だから旅なのだろうか。
家で寝酒を飲むことができる人は、きっと旅など出なくてもいいのかもしれない。寝酒を飲みながら心の旅に出ているのだ。
つまりはそういうことなのだろうか。
いや、原稿を書くという仕事がいけない。きっとそうに違いない。
Posted by 下川裕治 at
14:15
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