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ナムジャイブログ

2017年09月25日

ロヒンギャ難民で得をする国

 ミャンマーからバングラデシュへのロヒンギャ難民が急増している。ミャンマーがロヒンギャの人権を侵害しているという姿勢をとる論調が多い。
 発端はミャンマー西部に住むアラカン族とロヒンギャの対立だった。ミャンマー軍が治安の維持にあたっている。その過程での難民流出。ミャンマー軍がロヒンギャを迫害しているという図式が見えてくる。
 人権──。長くアラカン族やロヒンギャとかかわってきた経験からすると、そうひとことでいい切れないものを僕は抱えている。
 僕らのグループは、バングラデシュの南部のコックスバザールで、20年以上、小学校を運営している。もともとは、現地に住む少数民族であるアラカン族を支援するところからはじまった活動である。
 年に1回はコックスバザールを訪ねている。つきあうのはラカイン族である。彼らの主張は明確だ。
 彼らにいわせると、ロヒンギャはチッタゴン丘陵にいたベンガル人である。実際、ロヒンギャはベンガル語を話している。
 しかしそこには、大国に翻弄された民族の痛みがある。多くのロヒンギャがミャンマーに渡ったふたつの時期がある。ひとつはイギリス植民地時代。ミャンマーとバングラデシュはともにイギリスの植民地だったから、移動は難しくなかった。ミャンマーにはその後、日本軍が侵攻する。それに対抗させるために、イギリスはロヒンギャをミャンマーに送ったともいわれる。
 第2次大戦後の混乱期にもロヒンギャはミャンマーに移住している。流れをつくったのはミャンマーの軍事政権という話もある。軍事政権に反発するラカイン族を押さえるためだったともいわれる。
 つまりラカイン族の論調からすれば、人権を侵害されたのはラカイン族となる。ロヒンギャはその手先だったと。
 植民地時代から大戦後にかけて迫害されたのがラカイン族。いま人権侵害を受けているのがロヒンギャ……。そんな図式だ。
 この話は決してかみ合うことはない。それぞれの主張の時代が違うのだから、交わることがない。遡れば、植民地時代という負の歴史になるが、いま、ラカイン族やロヒンギャが宗主国だったイギリスを非難したところでなにもはじまらない。
 時代の違う人権問題は、世界の歴史そのもののように思う。危うい地盤の上にいまがあると思っていい。そのなかでなぜ、ロヒンギャ難民が急増してしまうのか。
 あるラカイン人はこんな話をする。
「今回の難民騒動でいちばん得をするのはバングラデシュ」
 ひとつの見方だと思う。

■このブログ以外の連載を紹介します。
○クリックディープ旅=世界の長距離列車の旅。アメリカの列車旅がはじまる。
○どこへと訊かれて=人々が通りすぎる世界の空港や駅物。
○東南アジア全鉄道走破の旅=苦戦を強いられている東南アジア「完乗」の旅。難関のミャンマーの列車旅。いまは番外編を連載。
○タビノート=LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記
  

Posted by 下川裕治 at 12:18Comments(3)

2017年09月18日

異質な中国人たち

 カンボジアの列車に乗ってきた。シアヌークビルからプノンペンまで230キロほどだ。東南アジアの全鉄道に乗るという酔狂な旅はまだ続いている。第1弾で『東南アジア全鉄道制覇の旅 タイ・ミャンマー迷走編』が刊行されたが、東南アジアの鉄路線はまだまだ残っているのだ。
 軽い気持ちではじめてしまったが、これが予想以上に時間がかかり、そうこうしているうちに、カンボジアの列車が走りはじめてしまったのだ。修復のために全面運休していたのだが。
 乗車記は、追って本で読んでもらうとして、今回はシアヌークビルの中国人の話である。
 シアヌークビルへはタイから陸路で向かった。バンコクを深夜に発車する夜行バスでトラートへ。そこからソンテオという乗り合いトラックで国境。カンボジアに入国し、乗り合いタクシーに乗ってシアヌークビルに着いた。列車を確認するために駅で降ろしてもらった。発車は午前7時。駅に近いホテルに泊まった。
 着いたのは昼ごろだった。昼食をとろうと宿を出た。緩い坂道に沿って新しくつくられた数階建てのビルが並び、1階が店舗になっていた。食堂は数軒あったが、1軒のインドネシア料理の店を除いて、残りはすべて中国料理だった。その間にあるのは中国人向けのスーパー。カンボジア式の食堂が1軒もないのだ。
 最近のカンボジアやラオスでは、ときおりこういう一画に出くわす。中国人労働者のための街が、郊外にできあがっているのだ。
 いまのカンボジアは、中国なくして成り立たない。橋や道路、工業団地など、中国の援助で建設が進む。中国から労働者がやってくる中国スタイルの援助である。アセアンは南沙諸島をめぐって中国に抗議する声明を出したかったが、カンボジアが強硬に反対した。カンボジアを歩くと、反対せざるを得ない状況がよくわかる。
 しかたなく中国料理の食堂に入った。中年のおじさんふたりで切り盛りしていた。写真付きのメニューから、ワンタンそばを頼んでみた。するとおじさんは、
「グットチョイス」
 と英語を口にして笑顔をつくった。珍しく愛想のいい中国人だった。夕方、中心街まで行こうとすると、激しいスコールが街を洗っていた。しかたなく、宿に近い中国料理の食堂に入った。壁には魚や肉の高そうな1品料理の写真が掲げられていた。なにか定食のようなものはないだろうか。30代の店長らしき中国人がスマホで英訳してくれる。焼きそばに落ち着き、ビールも1本頼んだ。すると彼はサービスだといってピーナツとザーサイを小皿に盛ってきた。
 彼らは労働者や観光客とは違う。カンボジアに住み、中国人相手の商売をはじめた人たちだ。背水の陣で移り住む中国人が多いという。カンボジア社会でそれなりに苦労しているのかもしれない。中国の進出を支えている商売魂。反感を買う中国人団体客とは異質な中国人たちだった。

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○どこへと訊かれて=人々が通りすぎる世界の空港や駅物。
○東南アジア全鉄道走破の旅=苦戦を強いられている東南アジア「完乗」の旅。難関のミャンマーの列車旅。いまは番外編を連載。
○タビノート=LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記
  

Posted by 下川裕治 at 11:48Comments(1)

2017年09月11日

こんなにも脆弱な……

 先月に発売された『東南アジア全鉄道制覇の旅 タイ・ミャンマー迷走編』のトークイベントがあった。たくさんの人が集まってくれた。そのなかに懐かしい顔があった。バンコクでの知り合いである。
「バンコクを引き払って、日本に帰ってきたんです」
 このところ、こんな話をよく聞く。アジアで頑張っていた人たちなのだが。
 イベントが終わり、終電で羽田空港に向かった。朝6時発の香港行きというつらい飛行機に乗るためだった。チェックインは午前3時半にはじまった。
 香港では知人に会った。
「ここ1年で、10人ぐらい日本に帰りました。デザイナーとかコーディネイターをやっていた人たちが多いかな。物価が高くなって、日本からのギャランティでは暮らすことができなくなってきたんです」
 香港には1泊もせずにシンガポールに向かった。
「私ももう、シンガポールを出ないといけないかもしれません。政府がシンガポールで働く外国人は、TOEICでそうとう高い点をとることを条件にするみたいなんです」
 ヨーロッパで働いていた日本人が次々に帰国した時期があった。ユーロ高の影響で日本からの収入では生活できなくなってしまったからだ。彼らは通訳、ライター、デザイナーやコーディネイターなど、基本的に会社に所属せずに働いていた人たちだ。そのうち何人かはアジアに移っていった。
 そのアジアもしだいに生活が大変になってきている。各国の事情は違う。中国やシンガポールのように、働くための条件が厳しくなってきたところもある。しかしベースにあるのは、現地の生活レベルの上昇が日本をしのいでいることだろう。日本からもらうギャラでは暮らしが厳しくなってきている。
「じゃあ日本はいいかっていうと、厳しいんですよ。日本にいる知人に訊くと、皆、そろって帰ってくるなっていう。とくに私みたいな40代の女性は。逆に生活が少し苦しくてもシンガポールで働きたいって相談されますからね」
 アジアでも苦しく、日本でも仕事がみつからない……。おそらくアジアと日本の経済格差が急速に縮まっているのだ。となれば滞在資格などの心配がない日本に……という流れが生まれてくる。
 しかしアジアは離れづらい土地だ。アジアで生きる40代、50代の日本人は、仕事だけではない魅力をアジアに見出していた。外国で暮らすなんて……という20代の日本の若者とは違うのだ。
 しかし、その世代が日本に傾いてきている。アジアと日本。その関係の脆弱さを目にすると、やはりつらい。

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○クリックディープ旅=世界の長距離列車の旅。カナダの列車旅を連載中。
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Posted by 下川裕治 at 12:51Comments(1)

2017年09月04日

二日酔い

 二日酔いでこの原稿を書いている。昨夜知人と会った。居酒屋からカラオケというコース。日曜日の夜である。東京の都心はシャッターをおろす店は多いが、そのカラオケ店はひっそりと灯がついていた。おじいさんがひとりで切り盛る店だった。60歳は超えているように見える風貌である。こんな店があることが不思議だった。
「3時間3000円です。歌い放題、飲み放題です。飲み物はウーロンハイと緑茶ハイと水割り。ビールは別料金です」
 10人も入ればいっぱいになる店だった。
「いちばんきついとき、もう、考えてもしかたないって女房とこの店に来たんです。あの頃、電話が鳴って、話し終えるたびにトイレに駆け込んでました。下痢でね。水道局の人がやってきた。いつもは6000円ぐらいなのに、先月は1万円を超えているって。どこかで水漏れしてるんじゃないかって」
 彼が経営する会社が倒産した。
 長いつきあいになる。もう30年以上だろうか。旅行会社を経営していた。インターネットやLCCが登場する前に知り合っている。当時は、格安航空券といわれる航空券が全盛だった。団体用の航空券をバラ売りするスタイルだった。日系航空会社は「違法な航空券」というキャンペーンを張ったが、安い航空券を求める動きは止まらなかった。その中で彼の会社は急速にのびていった。いや、当時はまだ社長ではなかった気もする。さまざまな国籍の人たちに航空券を売る部署を任されていたように思う。
 その頃、僕のデビュー作である『12万円で世界を歩く』の連載がはじまった。航空券はいつも彼の会社から買った。月が変わるごとに航空券が安くなっていく時代だった。僕の連載は、そんな時代だから実現した。
 僕らはよく酒を飲んだ。西荻窪の店に行くことが多かった。小さな店だった。そこからカラオケに流れた。僕は自分からカラオケに行くタイプではないが、いつも彼の後をついていった。
 いろんなことがあった。航空券の世界も大きく変わった。個人がインターネットで買う時代になった。大きな流れでいえば、その動きに彼の会社も呑み込まれたことになる。
 彼は会社を失った。しかし、利用者には一切迷惑をかけなかった。だからニュースにはならなかった。彼らしい終わり方だった。
「8キロ痩せたよ。食べても、食べても出てっちゃうからな」
 倒産から約1ヵ月。やっとこんな冗談が出るようになった。
 いくら飲んでも酔えない酒というものはある。しかし酒精は澱のように溜まっていくから翌日になって応える。
 彼の40年は旅行業の成長という酔いのなかにあったのかもしれない。

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Posted by 下川裕治 at 18:26Comments(0)