インバウンドでタイ人を集客! 事例多数で万全の用意 [PR]
ナムジャイブログ

2024年09月30日

韓国ドラマを支えるウリ文化

 韓国ドラマが好きか……と訊かれると答えに困る。妻や娘がときどき、韓国ドラマを観ているときがある。夕食のときにその話題になったりする。最近では娘が「涙の女王」にはまっていた。
 忙しいときは、できるだけその会話に耳を貸さず、ドラマも観ないようにする。観はじめるとつい引き込まれてしまうからだ。僕はいまだ「涙の女王」を観ていない。
 そんなことが何回かあった。話題の韓国ドラマを周回遅れで観ることになる。やはり面白い。引き込まれていく。しかし最後のほうになるとがたがたと興味が崩れていく。ドラマを盛りあげてきた無理が目だってくる。辻褄が合わないというより、無理やりエンディングにもち込んだような粗が気になってしまう。
 だから多くの韓国ドラマを2度観ようとは思わない。再度観るときは、「なぜこうなったんだろう」という謎が残り、その回を早送りで確認する程度だ。
 2度観ようとは思わない……ということはそれほどの評価に値しないということでもある。日本や欧米のドラマには、2度以上観たものがいくつかあるが、韓国ドラマは1本もない。しかし観ているときはずんずん引き込まれる。
 韓国ドラマとはなんなのだろうか。
 一冊の本を読んだ。『ドラマで読む韓国』(金光英実著。NHK出版)。それを読み進めるうちに、そのわけが少しわかったような気がした。
 韓国ドラマの構造は、韓国社会に根ざしているように映ったからだ。筆者は韓国を「ウリ文化」の国だという。ウリとは「私たち」という意味になるそうだが、フォローする範囲は広い。ある種の共同体といってもいい。中国と日本に挟まれた韓国の人たちは共同体意識が強い。そしてひとつのウリだと認識すると、簡単に信じてしまう。それが犯罪の温床にもなる。簡単に騙されてしまうのだ。
 韓国ドラマは、そこから復讐していくストーリーが多い。それを観る韓国の人たちは、自分の代わりに騙した相手に復讐してくれると思い込む節がある。それを韓国語で「代理満足」というのだそうだ。
 程度の違いはあれ、社会というものには騙されることがついてまわるから、それを観る世界の人々も面白いと思う。
 ではなぜ「代理満足」ドラマを日本人はあまりつくらず、韓国は次々につくっていくのだろうか。そこにあるのもウリ社会という気がしないでもない。ひとつのデフォルトをその社会のなかで進化させていく。
 しかし話は復讐だから結末はどうであれ、単純さがついてまわる。スタートからして答えがある世界なのだ。その意識が、隘路に入り込んでしまった日本のドラマ製作者とは違う気がする。なかなかうまくいえないが、そんな想像力を刺激させられる本でもある。
 それはこの本で紹介されているマスターの存在にもいえるのかもしれない。マスターというのは「推し活」のトップに君臨するような存在だ。中小のプロダクションの俳優やアーティストが人気を集めていくにはマスターの存在が大きいという。マスターは撮影現場キッチンカーやコーヒーカーを送ることは珍しくないようだ。日程に合わせ、さまざまな許可をとり、「推し活」を支援する。それが韓国のファン文化だという。この文化は序列をつくり、マスターを応援するファンまで出てくる。やはりウリ文化なのだ。

■YouTub「下川裕治のアジアチャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCgFhlkMPLhuTJHjpgudQphg
面白そうだったらチャンネル登録を。
■ツイッターは@Shimokawa_Yuji


  

Posted by 下川裕治 at 11:49Comments(0)

2024年09月23日

16時間で失効した渡航書

 パスポートを紛失してしまった。気づいたのは、日本に帰るために、バンコクのスワンナプーム空港に向かう電車のなかだった。パスポートを出しておこう……とパスポートケースを出したが、その中身がない。慌ててバッグやザックのなかを探した。
 ない……。
 バンコクは1週間ほどの滞在だった。パスポートを出したシーンを思い起こす。1回だけだった。宿の近くのロータスという量販店にあるAISという携帯電話店に行ったときだった。そこでシムカードを入れた。パスポートが必要だったので、ケースからパスポートだけをはずして持参した。
 あのときか……。
 とすれば部屋にあるかもしれない。急いで戻った。
 いやこんなに冷静に振り返っていたわけではない。これまで海外でパスポートを紛失したことは1回もなかった。気が動転というほどではないが、やはり心は乱れる。
 部屋に戻ったが、やはりなかった。再度、バッグやザックのなかを入念に探す。
 やはりない……。
 飛行機に乗ることはできない。知人に連絡をとった。まず警察で紛失証明をつくり、そして日本大使館へ。そこで帰国用の仮パスポートをつくってもらうという流れだった。
 翌朝、大使館に電話を入れた。申請書、紛失証明書、戸籍謄本、帰りの航空券、写真の5点が必要だった。申請書は大使館のフォームに入力して出力。戸籍謄本はとりあえず、日本からPDFやJPEGなどで送ってもらったもののプリントでいいという。
 朝、AISのオフィスに出向いた。やはりなかった。その場で妻に電話をかけ、戸籍謄本を写真に撮り、メールで送ってもらうように頼んだ。その足でトンロー警察に向かった。
 朝の警察はすいていた。これまでも何回かタイの警察で証明書をつくってきた。いつも盗難届だった。紛失届はそれよりも簡単だった。ものの10分ほどでつくってくれた。それから知人の旅行会社向かい、申請書、日本から届いた戸籍謄本などをプリントし、航空券の予約確認書を受けとって日本大使館に向かった。
 着いたのは11時頃だった。面談室に通された。パスポートを紛失した場合はここで面接を受けるらしい。書類はOKだった。
「通常は翌日なんですけど、飛行機が今晩。今日中にできるか訊いてきます」
 職員は面談室を出て行った。それから5分ほどがすぎ、「今日の午後1時半から受けとれます」という返事が耳に届いた。
 午後2時。ベージュ色の「帰国のための渡航書」と旧パスポート番号が記された書類を受けとった。費用は630バーツだった。パスポートの顔写真ページは同じつくりだった。出入国スタンプを捺す査証欄4ページある。こんなに早く受けとった話は聞いたことがない、と知人からいわれた。
 その日の夜のスワンナプーム空港。チェックイン、出国審査は時間がかかった。なにしろ本来のパスポートがないのだ。出国審査はブースの裏のテーブルで受けた。「帰国のための渡航書」、旧パスポート番号が記された書類、航空券、そして紛失証明書。とくに紛失証明書は重要なようだった。
 そして日本の空港。最近は自動化ゲートを通過するが、そこは使えない。外国人用ブースのひとつが、こういう日本人向けの審査も受けもっていた。そこで入国スタンプが捺された。
 バンコクのなかをバイクタクシーで走りまわり、手にした「帰国のための渡航書」は、16時間がたったこの時点で失効した。

■YouTube「下川裕治のアジアチャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCgFhlkMPLhuTJHjpgudQphg
面白そうだったらチャンネル登録を。
■ツイッターは@Shimokawa_Yuji


  

Posted by 下川裕治 at 11:15Comments(0)

2024年09月16日

バンコクは魔界だろうか

 バンコクにいる。「歩くバンコク」の編集が大詰めである。今回から動画を掲載することにした。誌面に動画のQRコードを掲載し、読者はそこにスマホをあてると、バンコクの動画を観れる仕組みだ。切符の買い方、店内の様子、ボートから眺めるバンコクの風景などが動画で再現される。
 ガイドブックにしたら、画期的な試みではないかと思っている。20年以上、紙で発行されるガイドブックは、ネット情報に席巻されつづけてきた。売り上げは低迷し、やがて消えていくのではないかと思っていた。しかしネット文化の発展が、紙媒体のガイドブックに光をあててくれはじめたようにも思う。いや、それほどでもないか。
 作家や編集者は、本を発行するたびに、今回は売れるのではないか、といつも期待を抱く。裏切られることに慣れてしまったが、僕はいまだ本を書き、ガイドブックの編集に携わっている。次の本はきっと売れる……。なんという極楽とんぼだろうか。
「歩くバンコク」で、その思いを共有してくれた編集者がいた。Fさんだ。彼はかつてDACOというフリーペーパーの編集者だった。僕は「歩くバンコク」の編集をDACOに依頼し、その窓口に立ってくれたのがFさんだった。
 彼がいた頃、僕はずいぶん楽をさせてもらった。彼がすべてを手配し、ページを組み立ててくれた。「ゲラが出ました」という彼の言葉を聞いて、僕はチェックのためにバンコクに向かうだけでよかった。
 はじめの頃はよく売れた。しかしネット情報に押され、売りあげは年を追って落ちていった。Fさんと一緒に、さまざまなアイデアを練った。彼とは編集者の意識を共有していた。しかし彼の精神は変調しはじめる。その後、DACOから離れたが、「歩くバンコク」の編集はつづけてくれた。打ち合わせで、彼のアパートがあったランナム通りのカフェに向かう。朝10時。彼の息はすでに酒臭かった。酒で心の均衡を保っていたのだろうか。
 やがて彼は帰国する。実家に戻ったが、思うような仕事がなく、東京に出る、と伝えてきた。それから半年……。
 彼の訃報が届いた。彼は東京にいた。体調を壊し、病院に担ぎ込まれたという。
 その後、世界をコロナ禍が襲う。その嵐の終わりが見えはじめた頃、僕はバンコクにきた。休刊状態だった「歩くバンコク」が再開されることになった。その下準備だった。そこでYさんという女性編集者に会った。僕はFさんの後任を探していた。その打診は明確な返事を得られず、再度、打ち合わせになったが、それから2ヵ月後、Yさんが姿を消してしまった。なにかつらいことがあったのだろうか。彼女は日本に帰ったと思っていた。今回、バンコクにきて、Yさんの訃報に接した。彼女は日本に帰ってはいなかった。ずっとバンコクにいた。死因は循環器と呼吸器不全。病院に搬送され、バンコクで息を引きとった。今年の6月のことだったという。
 Yさんの顔がFさんとだぶった。ふたりともバンコクが好きだった。そして10年以上暮らした。バンコクとはなんなのだろうかとひとり呟いた。魔界にも映る。単なる偶然とも思えないのだ。バンコクに50年もかかわった僕はただ黙るしかない。
 後任の編集者はいまだみつからない。ゲラの細かい文字と日々格闘している。もっと強い老眼鏡に替えなければ……。深夜、ゲラからふと顔をあげ、そんなことを呟いている。

■YouTube「下川裕治のアジアチャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCgFhlkMPLhuTJHjpgudQphg
面白そうだったらチャンネル登録を。
■ツイッターは@Shimokawa_Yuji


  

Posted by 下川裕治 at 10:20Comments(0)

2024年09月09日

旅が家畜化してしまった?

 いま、会津宮下駅という無人駅の待合室で原稿を書きはじめている。会津宮下駅は、会津若松と小出を結ぶ只見線の途中にある。
 このブログは週に1回のペースで書いている。これまでいろんなところで書いてきた。東京の自宅がいちばん多いと思うが、旅先の宿、空港で書くことも多い。日本の無人駅で原稿を書いたこと……はじめてだと思う。
 東日本大震災の年、地震や津波とはまったく関係なく、福島県と新潟県を結ぶ只見線は水害に遭い、一部の線路や橋梁が流されてしまった。以来、その区間をバスが代行でつないでいたのだが、2022年、11年ぶりに復旧。全線運行が再開された。JRは赤字路線の廃線を進めているが、それとは逆行した再開は奇跡ともいわれた。
 といっても只見線は赤字路線である。再開されたが1日6本の運行しかない。いま次の小出行きを待っているが、それは1時間半後だ。今日はそこから長岡まで向かうつもりだが、小出でもかなり待つ。原稿が終わるのは小出の駅、それとも長岡の宿だろうか。
 今日は日曜日ということもあると思うが、会津若松から乗り込んだ只見線はシニア一色だった。再開只見線はそこそこ人気があるようだが、若者は街に出、シニアはローカル線に走るという構図。僕がここにきたのも、シニアの旅向けの本を書くためだから、その意味では本の企画意図と合っているということだろうか。
 車内で耳に届くのは、シニアたちの旅談義である。JRの割引切符である「大人の休日倶楽部」や「青春18きっぷ」などにかなり詳しい。北海道に行くときは「どう組み合わせれば安い」といった話で盛りあがり、盛岡で食べたわんこそばに話題が飛ぶ。
 金曜日に、『日本ときどきアジア 古道歩き』(光文社知恵の森文庫)のトークイベントがあった。そこで僕は、「そういう旅はつまらない」と口にしたばかりだった。
 シニアになり、ある程度時間にゆとりができて出る旅が、旅情報の追体験なのだ。盛岡に行ったらわんこそばというのは、あまりに旅の想像力に欠ける。知らないことが多い若者はそれでもいいのかもしれないが、シニアにとっては寂しい気がする。
 そこで話したのが、自己家畜化論だった。どこかダーウインの進化論を超えるにおいがして、以前からこの理論には興味があった。最近、ようやくNHKがとりあげ、僕もその番組を観た。
 自己家畜化論──。たとえばオオカミとイヌの関係だ。オオカミのなかで、人間社会にすり寄った種が増えていく。イヌである。自己家畜化をとり込んだわけだ。反対に自己家畜化できなかった種は消えていく。オオカミである。
 この自己家畜化で種を増やしたのが人類だといわれる。人は自己を家畜化することで社会をつくり、そのなかで生きていく。仮に自己家畜化の最たる仕組みを会社社会だとしてみる。退職し、ようやくその世界から逃れ、自由に旅ができるというのに、追体験の旅を求めてしまう。本能まで家畜化したということだろうか。そんな話をした。
 ではシニアで埋まった只見線に乗る僕は、どの立ち位置にいるのだろうと考えると、僕の発想に未熟さに辿り着く気もする。ここから新しい旅を描けるのか。旅はなかなか難しいものだ。
(会津宮下から小出までは長かった。3時間もかかった。列車は2両編成のワンマンカーだった。3時間のうち、2時間以上は僕を含めて乗客ふたり、そして運転手ひとりという3人列車状態だった。これも只見線の現実である。原稿は一応、その車内で最後まで辿り着いたが)

■YouTube「下川裕治のアジアチャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCgFhlkMPLhuTJHjpgudQphg
面白そうだったらチャンネル登録を。
■ツイッターは@Shimokawa_Yuji

  

Posted by 下川裕治 at 12:08Comments(1)

2024年09月02日

古道歩きのために、日々、精進?

『日本ときどきアジア 古道歩き』(光文社知恵の森文庫)のトークイベントがある。
 9月6日の19時半から。
http://www.nomad-books.co.jp/event/event.htm
 トークイベントでもその話に触れると思うが、熊野古道を歩いたとき、僕の右膝は限界に近かった。予感は、熊野古道歩きの1日目の午後からあった。2日目の昼すぎには、違和感は痛みに変わっていた。力がなかなか入らず、くだり坂で右膝に負担がかかると痛みが右足全体を走った。途中でリタイアを考えたほどだった。
 僕が歩いたのは中辺路(なかへち)。このルートの終盤、展望台から、かつて熊野本宮大社があった大斎原(おおゆのはら)を見おろすことができる。かつて浄土といわれたエリアだった。この眺めをめざして僕は歩いたようなものだった。
 展望台にベンチがあった。そこにあがって大斎原の写真を撮ろうと思った。しかしベンチにあがることができなかった。右膝がいうことを聞いてくれなかった。
 僕の右膝には古傷がある。高校時代、僕は山岳部に所属していた。高校は信州の松本だったから、山には恵まれていた。入部してまもなくの5月か6月、春の北アルプスに登った。小蓮華山に向かう稜線で滑落してしまった。落ちたのは10メートルほどで大事には至らなかったが、右膝を強く打った。
 その山行ではザック麻痺にもなっていた。ザック麻痺というのは、背負うザックのベルトが肩の骨を押し、血管や神経を圧迫してしまうことだった。骨の奇形が原因である。血行が滞った左腕は力が入らなくなってしまった。荷物はほかの部員に振り分けられ、僕は個人装備だけという身軽な状態だった。そこで滑落である。リーダーや顧問の教師は、僕が山行の足を引っ張ることを予感したはずだった。
 下山しリハビリをつづけた。体力をつけるために、毎日、10キロの荷物を背負って高校に通った。なんとかお荷物にならずに山に登れるようになったのは、高校2年の秋頃からだった。
 高校を卒業してから、何回か山に登っている。右膝はまったく異常はなかった。ただ山とは関係なく、梅雨どきや冷え込む冬、右膝に違和感を覚えることはあった。さして気に留めなかったが、70歳になる直前、熊野古道を歩いて、その右膝の古傷が、のっそりと頭をあげてきたような気がした。
 65歳すぎから古道歩きに開眼した。登山に比べれば、筋肉への負担も少ない。僕の体力でもこなせるような気もしていた。しかし古道歩きは、意外にきつい。ときに山登り並みになる。昔の人々の足腰の強さに言葉を失ってしまう。
 右膝に負担がかからない歩き方……それはわかっている。しかしそのためには筋力が必要になる。スクワットか……。日々、精進ということか。

■YouTube「下川裕治のアジアチャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCgFhlkMPLhuTJHjpgudQphg
面白そうだったらチャンネル登録を。
■ツイッターは@Shimokawa_Yuji


  

Posted by 下川裕治 at 12:05Comments(0)