インバウンドでタイ人を集客! 事例多数で万全の用意 [PR]
ナムジャイブログ

2014年12月15日

いつも涙の香港人たち

 12月11日、普通選挙を要求する民主派や学生たちの路上占拠が収束した。最後は警察に排除される形で、香港島の金鐘で75日続いた占拠は終わった。
 その間に3回、僕は占拠された路上に立っていた。何人かの学生と話もした。彼らの何人かは、最後まで座り込みを続けていたかもしれない。
 泣きながら警察に逮捕される学生の姿を見ながら、1997年の香港返還のときを思い出していた。あのときは香港らしい大粒の雨が降っていた。涙雨……。香港人の知人はそういった。中国に対抗する香港人たちの抵抗は、いつも涙で終わっていく……。
 香港が中国に返還されてからの17年を辿ってみれば、それは小さな政府が大きな政府の翻弄されていく年月だった。
 はじめて香港を訪ねたのは、もう40年以上前になる。まだ学生だったが、この街が放つ自由のにおいに圧倒された。日本よりはるかに自由な空気が、ビクトリア湾や尖沙咀に流れていた。イギリスの植民地だったが、管理するのは、小さな政府だった。その自由さのなかで、香港人の商才が実を結んでいく。香港はアジアの流通と金融のハブとして豊かさを手に入れていくのだ。アイデアと汗で豊かになることが可能な街だった。それが香港の魅力だった。
 しかし返還された先の中国は、中国共産党による巨大な政府の管理国家だった。その中国が開放政策に転じ、高度経済成長を実現していく。中国に蓄積された資金は、その投資先を求めて、香港になだれ込んできた。中国に生まれた富にとって、一国二制度は好都合な構造だった。
 中国人にとって、香港は憧れの街だった。その街への旅行が解禁されると、礼儀は知らないが、うなるような札束を手にした中国人が香港に大挙して現れるようになる。
 そこで成功していったのが、香港の親中派だった。不動産業に進出した彼らに中国からの資金が集まり、香港には巨大な財閥が形つくられていった。土地は高騰し、香港社会は格差社会の道をまっしぐらに進んでいった。香港には富の集中を抑える法律やシステムはなかった。小さな政府だけがあった。
 香港はその自由さゆえに、中国の資本に席巻されていく。返還から17年という年月の間に、その変化が香港を嵐のように吹き荒れていた。香港は結果として利用されてしまったという印象が強い。
 イギリスが根づかせようとした欧米型民主主義。それを身につけた香港人は、中国の前で残酷に晒される。共産党の足許を揺るがす民主主義を、中国は受け入れることはできない。中国はこれからも中国式民主を香港に要求することしかできないだろう。
 中国経済は早晩、その成長曲線が鈍っていく。そのとき足枷になってくるのが、大きな政府である。香港と中国の民主をめぐる攻防はまだまだ続く。


Posted by 下川裕治 at 11:56│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。