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ナムジャイブログ

2009年11月02日

民族を隠して生きるということ

 明るい踊りだった。沖縄のエイサーもいいが、どこか寒さを吹き飛ばすような楽天性が嬉しかった。
 チャランケ祭りに出させてもらった。毎年、中野で行われるアイヌと沖縄の祭りだ。はじまる前、カマイノミという儀式にも加わった。地上にあるさまざまな魂に感謝する儀式だ。炭火を囲み、どぶろくがまわってくる。
 祭りを眺めながらアイヌと話をした。
「しばらく前の数字ですが、関東には2000人ほどのアイヌが暮らしています。でも、これは、自分がアイヌだと表明した人の数。実際はその倍はいると思いますよ」
 20年前、いや30年前の沖縄だった。あの頃、沖縄の人々は出身を隠すように本土で暮らしていた。差別の構造が横たわっていたからだ。
 しかしその後、沖縄ブームが起きる。東京には次々に沖縄料理屋ができていく。沖縄の人たちも、その出身を隠さなくなった。
「沖縄ですか。いいですね」
 日本人がつくりあげた社会は、膨大な富を生んだが、同時に神と精神的な豊かさを失った。だから沖縄……という発想は、沖縄の人には受け入れられなかったかもしれないが、羨ましという視線を向けられることは嬉しかった。少なくとも差別されるよりは。
 しかしアイヌはまだその手前で立ちすくんでいる。
 祭りに出させてもらったのは理由があった。来年の2月に、チェンマイの北のチェンダオという町で、少数民族の祭りが予定されている。そこにアイヌと沖縄の人が参加しないか、という打診をしていたのだ。資金はないから、参加者は自腹である。
「アイヌは無理だよ。皆、貧しいから。日雇いも多い。去年の秋からの不景気で大変なんだ」
 僕には返す言葉がなかった。
 沖縄の人たちは自腹で参加すると手を挙げている。沖縄の人たちも同じように貧しい。
 この違いはなんなのだろうか。出身を隠して暮らすか、隠さないか。その違いのような気もするのだ。


Posted by 下川裕治 at 14:10│Comments(0)
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