2009年12月15日
25年間、ありがとう
昨夜。
つまり12月14日の夜。
僕はマイハウスホテルの214号室にいた。閉鎖されることは知っていた。バングラデシュから戻る飛行機が混み合っていて、14日しか席がとれなかった。
マイハウスホテルの最後の夜。
訊くと泊まることができるという。
夕方、空港からホテルに着いた。すでにレストランの椅子やテーブルは、一部が片づけられていた。ホテルの前のネオンも暗かった。目を凝らすと、ネオン看板そのものがもうなかった。
「明日は片づけだから、チェックアウトは早めにしてね」
そういわれて部屋に入った。
214号室はよくあてがわれる部屋だった。
知人を呼んで、部屋で飲み明かそうかとも思ったが、やはりひとりでいたかった。
ここに泊まったさまざまな夜が蘇ってくる。30代から50代まで、僕のバンコクはこのホテルが拠点だった。昔はよく、夜に出歩いていたが、最近はホテルでぽつねんとしていることが多い。僕も年をとったのだろう。
朝、いつもように、バートンコーと豆乳を買いにいくと、フトントはきれいに片づけられていた。着々とホテルは閉じられていく。空室になった部屋からシーツや備品が次々に運びだされていく。
この原稿を書いたら、チェックアウトしないといけないのだろう。最後は「25年間、ありがとう」というつもりで、荷物をまとめて部屋を出た。ルームサービスのおばさん、フロントのおばさんから……次々に「ありがとう」と先にいわれてしまった。
マイハウスホテルの最後だった。
つまり12月14日の夜。
僕はマイハウスホテルの214号室にいた。閉鎖されることは知っていた。バングラデシュから戻る飛行機が混み合っていて、14日しか席がとれなかった。
マイハウスホテルの最後の夜。
訊くと泊まることができるという。
夕方、空港からホテルに着いた。すでにレストランの椅子やテーブルは、一部が片づけられていた。ホテルの前のネオンも暗かった。目を凝らすと、ネオン看板そのものがもうなかった。
「明日は片づけだから、チェックアウトは早めにしてね」
そういわれて部屋に入った。
214号室はよくあてがわれる部屋だった。
知人を呼んで、部屋で飲み明かそうかとも思ったが、やはりひとりでいたかった。
ここに泊まったさまざまな夜が蘇ってくる。30代から50代まで、僕のバンコクはこのホテルが拠点だった。昔はよく、夜に出歩いていたが、最近はホテルでぽつねんとしていることが多い。僕も年をとったのだろう。
朝、いつもように、バートンコーと豆乳を買いにいくと、フトントはきれいに片づけられていた。着々とホテルは閉じられていく。空室になった部屋からシーツや備品が次々に運びだされていく。
この原稿を書いたら、チェックアウトしないといけないのだろう。最後は「25年間、ありがとう」というつもりで、荷物をまとめて部屋を出た。ルームサービスのおばさん、フロントのおばさんから……次々に「ありがとう」と先にいわれてしまった。
マイハウスホテルの最後だった。
Posted by 下川裕治 at 18:22│Comments(1)
この記事へのコメント
ブログ楽しみに読ませていただいております。定宿をなくしてしまうことはなんだかつらいですね。今まで私はプラディパットホテルの横のバンコクコンドーテルという宿に泊まってきました。この10年ぐらいのあいだで随分様子が変わりました。以前は隣の古いお屋敷の庭が一望できる作りでいつもそちら側に泊まっていたのですが5年ほど前マンション建設のため庭に重機が入り美しい庭はほんの1週間で消えて、その後ルンピニプレイスという高層マンションが建ちました。窓からは隣の駐車場が見えるようになりその後足が遠のいています。
Posted by さむ at 2010年02月12日 12:34
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