2020年07月29日
花を植える
バングラデシュ南部のコックスバザールでひとりの知人が死んだ。新型コロナウイルスとは関係がない。心臓疾患だった。昼食後、急に様子がおかしくなった。夕方、病院に担ぎ込まれた。それから2日後に他界した。
名前をモン・ラ・トゥンという。僕と同じ60歳代の半ばだった。
彼の仕事は、パゴダの周辺を整備することだった。
コックスバザールの街の中央に小高い丘がある。そこにはいま、パゴダが3基の建っている。土地はこの周辺に1万人ほどが暮らしている少数民族、ラカイン族のものだ。
仏教徒の彼らにとって、このエリアは、そう、日本人にとっての寺の境内のようなものだった。パゴダは信仰の象徴である。
この丘が少しずつ削られている。土地のない貧しいイスラム教徒が、斜面を削り、小屋のような家を建ててしまうのだ。ラカイン人たちは何回も役所に足を運び、不法占拠を訴えたが、バングラデシュはイスラム系のベンガル人の国である。役人の言葉の歯切れは悪く、崖の途中の家は増えている。このままいったらパゴダが倒壊するかもしれないともいわれている。
10年ほど前だろうか。ラカイン人のひとりがモン・ラ・トゥンを連れてきた。植物に詳しいという触れ込みだった。彼にパゴダエリアに花を植えてもらい、ベンガル人たちにパゴダエリアの大切さをわかってもらおうという発想がそこにはあった。
彼はそれから毎日、パゴダの丘に登り、少しずつ整備していった。いまではパゴダを囲む生垣がつくられ、そのなかに花畑があるちょっとした庭園になった。不法占拠を止められたわけではなかったが。
丘からの眺めはいいから、コックスバザールに遊びにやってきたベンガル人も訪れる。彼らはそこで休憩し、ゴミも捨てる。彼らイスラム教徒は知らないのだ。そこが仏教徒にとってどれほど大切なエリアなのか、教えられていない。
「毎日、丘の整備をしているモン・ラ・トゥンにゴミ捨てを注意してもらえない?」
ラカイン人のひとりが口を開く。
「彼には無理だよ。なにがあったか知らないけど、ベンガル人を怖がっている」
彼は仕事が終わった夕方、僕が泊まっているラカイン人の家に姿を見せた。1日50タカの給料をもらうためだ。日本円にすると70円ほどだ。いつも1合ほどの焼酎をもってきた。それを水で割って仲間で飲む。彼は英語をほとんど口にしなかった。わかるのだがしゃべらない。いつも静かな酒だった。
以前は奥さんや子供もいたというが、パゴダ周辺の整備をする頃は、お姉さんの家での居候だった。お姉さんがこっそり酒を売っていた。その酒を毎晩、ただでわけてもらってきていた。
ベンガル人を注意もできず、ただ黙々と花を植えていた。そんな男の死は堪える。
■このブログ以外の連載を紹介します。
○クリックディープ旅=沖縄の離島のバス旅がはじまります。
○旅をせんとやうまれけむ=つい立ち止まってしまうアジアのいまを。
○アジアは今日も薄曇り=沖縄の離島のバス旅シリーズがはじまります。
○タビノート=LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記
■ツイッターは@Shimokawa_Yuji
名前をモン・ラ・トゥンという。僕と同じ60歳代の半ばだった。
彼の仕事は、パゴダの周辺を整備することだった。
コックスバザールの街の中央に小高い丘がある。そこにはいま、パゴダが3基の建っている。土地はこの周辺に1万人ほどが暮らしている少数民族、ラカイン族のものだ。
仏教徒の彼らにとって、このエリアは、そう、日本人にとっての寺の境内のようなものだった。パゴダは信仰の象徴である。
この丘が少しずつ削られている。土地のない貧しいイスラム教徒が、斜面を削り、小屋のような家を建ててしまうのだ。ラカイン人たちは何回も役所に足を運び、不法占拠を訴えたが、バングラデシュはイスラム系のベンガル人の国である。役人の言葉の歯切れは悪く、崖の途中の家は増えている。このままいったらパゴダが倒壊するかもしれないともいわれている。
10年ほど前だろうか。ラカイン人のひとりがモン・ラ・トゥンを連れてきた。植物に詳しいという触れ込みだった。彼にパゴダエリアに花を植えてもらい、ベンガル人たちにパゴダエリアの大切さをわかってもらおうという発想がそこにはあった。
彼はそれから毎日、パゴダの丘に登り、少しずつ整備していった。いまではパゴダを囲む生垣がつくられ、そのなかに花畑があるちょっとした庭園になった。不法占拠を止められたわけではなかったが。
丘からの眺めはいいから、コックスバザールに遊びにやってきたベンガル人も訪れる。彼らはそこで休憩し、ゴミも捨てる。彼らイスラム教徒は知らないのだ。そこが仏教徒にとってどれほど大切なエリアなのか、教えられていない。
「毎日、丘の整備をしているモン・ラ・トゥンにゴミ捨てを注意してもらえない?」
ラカイン人のひとりが口を開く。
「彼には無理だよ。なにがあったか知らないけど、ベンガル人を怖がっている」
彼は仕事が終わった夕方、僕が泊まっているラカイン人の家に姿を見せた。1日50タカの給料をもらうためだ。日本円にすると70円ほどだ。いつも1合ほどの焼酎をもってきた。それを水で割って仲間で飲む。彼は英語をほとんど口にしなかった。わかるのだがしゃべらない。いつも静かな酒だった。
以前は奥さんや子供もいたというが、パゴダ周辺の整備をする頃は、お姉さんの家での居候だった。お姉さんがこっそり酒を売っていた。その酒を毎晩、ただでわけてもらってきていた。
ベンガル人を注意もできず、ただ黙々と花を植えていた。そんな男の死は堪える。
■このブログ以外の連載を紹介します。
○クリックディープ旅=沖縄の離島のバス旅がはじまります。
○旅をせんとやうまれけむ=つい立ち止まってしまうアジアのいまを。
○アジアは今日も薄曇り=沖縄の離島のバス旅シリーズがはじまります。
○タビノート=LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記
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Posted by 下川裕治 at 13:55│Comments(0)
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