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ナムジャイブログ

2024年06月10日

古稀になっても小市民

 70歳になった。古稀である。古稀の由来は中国の杜甫の「曲江」という詩だという。
 
朝回日日典春衣
毎日江頭尽酔帰
酒債尋常行処有
人生七十古来稀
穿花蛱蝶深深見
点水蜻蜓款款飛
伝語風光共流転
暫時相賞莫相違

 僕流の解釈を加えての意味はこんな感じになる。

 仕事を終え、衣類を質に入れ
 その金で酒を買い、曲江のほとりで酩酊して家に帰る
 酒代のつけはそこらじゅうにある
 70歳まで生きることは稀である
 花の間に蝶が見え隠れする
 トンボが湖面を飛んでいる
 風や光は移ろい
 互いに身を任せてときが流れていく

 この詩は杜甫が70歳になって詠んだものではない。彼は58歳で死んでいる。この詩をつくったのは40歳代の後半といわれる。70歳になったら……という願望を詩に落とし込んだ。
 それが借金にまみれ、酒の酔いに身を任せる日々である。社会からは鼻つまみ者扱いされる存在に憧れていたのだ。
 しかし僕はその心境がよくわかる。バンコクにカオサンに行く。ときどき、昼からゲストハウスの食堂でビールを飲みながらぼんやりしている欧米人の老人を目にする。彼も杜甫と同じ心境のような気がする。僕のような男は古稀という年齢に、「まだまだ頑張って生きるぞ」などとは誓う感性はない。社会から嫌われようと、勝手に個の世界で浸っていたい。だから杜甫の詩が輝いて映る。
 杜甫はわかっている。仮に70歳になってもそんな行動はとれない。だから憧れなのだ。
 杜甫は下級の役人だった。後に詩聖などと呼ばれるが、当時、いやいまもそうかもしれないが詩を詠んでもさしたる収入にはならない。一生、貧しい日々を送る。役人時代にはソグド人が唐に攻め入った安禄山の乱に遭って囚われの身になってしまう。その後、官職に戻るものの、不遇な人生を送っている。
 しかし20歳代の後半に結婚した妻とは一生を共にした。子供もいた。40歳代の後半はどんぐりや山芋などで飢えを凌ぐ生活だったというが、常に妻子と一緒だった。善良な小市民の暮らしをつづけたわけだ。そのあたりが李白とは違う。
 僕は70歳になった。誕生日の日、家族で温泉に向かった。秘湯といっていいような温泉宿で70歳の誕生日のお祝いをしてくれた。その2日前、いいニュースがあった。コロナ禍が明け、はじめて書きおろした本の増刷が決まった。ようやく旅が戻ってきた感がある。妻と物書きの家庭に育ったふたりの娘は、増刷の重さを知っている。
 ひんやりとした夜気のなかで露天風呂の白濁した湯に入る。
 酒債尋常行処有
 生活人としての安穏と物を書く人格が交差する。多くの男はそんな相反するものを抱えもって生きている。それは杜甫が生きた唐の時代と変わりはない。杜甫が抱いた憧れの歳になっても、夢はさらに先に行ってしまう。古稀に達しても、変わるものはなにもない。

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Posted by 下川裕治 at 10:06│Comments(0)
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