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ナムジャイブログ

2010年08月16日

ヤマトホテルに潜むおぞましさ

 ハルピン駅前にある龍門大厦の貴賓楼でこの原稿を書いている。この一帯が日本の傀儡政権である満州だった頃、ヤマトホテルと呼ばれたホテルである。
 間宮海峡を渡り、ソヴィエツカヤ・カバニから、ホテルに一泊もせずにハルピンまで辿り着いた。そんな旅には似合ったホテルだった。とはいえ、高いホテルだと手が出ない。まあ、値段だけでも訊いてみるかとフロントに立った。カメラマンと一緒のツインが381元、約5000円。思い切って泊まってみることにした。
 なぜこのホテル? 
 ソヴィエツカヤ・カバニからの路線は、ロシアと日本の戦争が色濃く投影されていた。建設がはじまったのは1943年。日本敗戦の2年前である。ロシアは日本参戦のために、内陸のコムソモリスクへの鉄道建設を急ぐのだ。敗戦2年前、ロシアはすでに戦争の行く末を読んでいた。
 綏芬河からハルピンまでの鉄道もロシア敷設した。話は日清戦争に遡る。日清戦争に勝った日本に対し、三国干渉を成功させたロシアは、その見返りを清に迫る。その密約で得たのが、鉄道の敷設権だった。ロシアは満州里からハルピンを経て綏芬河までの線路を建設する。ロシア領内からウラジオストクまでの路線ができあがるのだ。
 そのときロシアがつくった会社が東清鉄道だった。やがてこの会社は中東鉄路になる。いま、僕が泊まっているホテルは、1903年に中東鉄路賓館という名前で創業をはじめた。
 大理石の石段、天井のステンドグラス……。広い廊下を歩くと、コツコツと靴音が響く。
 しかし日露戦争を経て、この鉄道は満州鉄道、つまり日本のものになっていく。ロシアが敷いた線路幅が1520ミリという鉄道は、満州鉄道に合わせて1435ミリへの取り替え工事も行われた。そしてこのホテルもヤマトホテルと名前を変えていくのだ。
「やりたい放題だったんだな」
 僕は今日、ハルピン郊外にある731部隊の遺跡を見てきた。同行したカメラマンの阿部稔哉氏は、カメラを抱えながらこういった。
「息が詰まるようなとこですよ」
 たしかにそうだった。731部隊はここで細菌兵器の製造を繰り返していた。その実験の記録を見ると、思いつくかぎりの人体実験に手を染めている節すらうかがえる。終戦間近、731部隊は、この施設の内実が発覚することを怖れ、破壊して逃走するが、その土地には、戦争というものの狂気がまとわりつき、人を寡黙にさせてしまう。
 それはロシアも同様だった。弱体化した清につけ込み、この土地でやりたい放題を繰り返していた。
 彼らが泊まったのが、このヤマトホテルである。この部屋でロシア人や日本人は狂気の決断をいくつも下していった。レトロな造りのホテルは、ときに観光客を惹きつける。しかしその背後には、おぞましい歴史が潜んでいる。
(ハルピン。2010/7/9)


Posted by 下川裕治 at 12:00│Comments(3)
この記事へのコメント
応援してます。
Posted by 高島 浩 at 2010年08月16日 21:36
ども、椎野です。
ひょんなことから、このブログを見つけました。なかなか読ませますね。

次回の二合会は残念ですが、霧で2句送ってくださいな。

それと私のブログもたまには見てね。
Posted by 椎野修平 at 2010年08月17日 09:42
「切符も取れたので、哈爾濱火車站前にある龍門大厦へ向かった。
旧館がヤマトホテルだった賓館である。
新館のフロントに向かう。
宿泊料金を聞くと、1泊400元近い金額だ。
ためしに、安くならないかと聞くと、何と1泊200元と安くなったのだ。 」無事、哈爾濱に着かれたようですね。夏の、哈爾濱は暑いですね。大陸を感じます。ヤマトホテルに泊まられたとのこと、二人で5000円であれば安いと思います。
「平房へ行くというと、一緒に地図で338路バス・・・」にのって一人で行きました。ずいぶん不安がありました。説明文は、中国語と英語、日本語の説明はないのですが、展示史料には日本語が多いというのは、不思議な感覚でした。
韓国語のパンフレットもありました。「○○○七三一部隊遺址」と。
Posted by みなみやま at 2010年08月17日 13:14
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