インバウンドでタイ人を集客! 事例多数で万全の用意 [PR]
ナムジャイブログ

2010年10月18日

虐殺の歴史のなかで線路は錆びついていた

 目的地はアルメニアのギュムリだった。アルメニアの首都であるエレンバンより列車で4時間ほど手前の駅だった。かつてトルコ側を出発した列車は、このギュムリに出た。そこからトビリシに向かったのだ。
 この国境が閉鎖された背後には、アルメニア人虐殺の問題があった。トルコとアルメニアの間で主張は食い違う。しかし60万人から80万人が犠牲になったと見る人が多い。
 虐殺が起きたのは19世紀末と20世紀初頭である。現在のトルコ領内にいたアルメニア人が強制移住や迫害を受けた。トルコ内では少数派で、アルメニア正教というキリスト教を信ずるアルメニア人に対し、多数派イスラム教徒であるトルコ人の迫害が続いた。そこにはアルメニアの独立運動も絡んでいた。アルメニア人は、ナチス・ドイツが行った大虐殺に近いものだと考えている。
 長く閉鎖されていた国境は、2009年、当然の国交樹立で風向きがかわった。まずトルコとアルメニアを結ぶ鉄道の再開が約束された。
 この路線がつながれば、ヨーロッパとアルメニア、グルジア、アゼルバイジャンといった国々が、鉄道で結ばれることを意味した。
 僕らはギュムリ駅からタクシーをチャーターして、国境に向かった。
「ここだよ」
 ドライバーが車を停めたのは、牛の放牧場だった。放牧場を仕切っている柵だと思っていたものが、国境だったのだ。
「ロシア」
 ドライバーは指さした先には見張り台があった。そこでロシア軍兵士が警備にあたっていた。牧場のなかには、草でカモフラージュした戦車も2台あった。
 トルコとアルメニアの国境──。アルメニア側を守るのは駐屯するロシア軍だったのだ。
 アルメニアはそういう国だった。
 車はアフクリアン駅という表示に沿って脇道に入った。しばらく進むと、線路をまたぐように橋脚が組まれ、そこに錆びついたクレーンがとりつけられていた。
 ここだった。ロシア側の広軌からヨーロッパの狭軌へ、列車の台車を替える場所だった。ロシアの線路幅は、ヨーロッパのそれに比べるとかなり広い。そこを走ってきた列車は、ここでヨーロッパ型の狭い線路幅に合わせた台車に交換していたのだ。
 クレーンの一部は新しいペンキが塗られていた。国交が樹立し、ここを列車が通るようになれば、台車のつけ替え作業が再開される。その準備に入っていたようだった。
 しかし塗られたペンキは一部だった。途中で作業は中断してしまったのだ。雑草が生い茂るホームに立ってみる。錆びついた線路の間も草で埋まっていた。
 欧米の後押しで成立した両国の雪解けは、あっという間に障害に乗りあげてしまった。虐殺という重い歴史が頭をもたげてきてしまったのだ。
 この路線の再開は難しそうだった。残るルートは、グルジアとトルコの間だった。僕らは再び、トビリシに向かった。
        (ギョムリ。2010/9/17)


Posted by 下川裕治 at 12:00│Comments(1)
この記事へのコメント
私は中国人のファンと申します。下川さんの「アジアの旅、20ヶ国ガイド」の本を読ましていただき、大変感銘致しました。
私も東南アジアのどこかの国で土地を買って、長期滞在してみたいですが、その考えはやはり甘いのですか?もし可能でしたら、土地がやすく、外食しやすいところをご紹介して頂ければ幸いです。
このような浅学な質問をする無礼をお許しください。
Posted by ファン at 2010年10月19日 07:56
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。