2010年11月22日
僕が乗る車両は連結されていなかった
列車が遅れ、通過するはずだったブルガリアのソフィアに途中下車することになってしまった。日本人はビザをとる必要はなかったが、もしビザが必要な国だったら……。列車の遅れとは、そんな危うさももっていた。
セルビアのベオグラード行きは、その夜に出発することになった。再び寝台車の夜である。翌朝、ベオグラード駅で、イタリアのベネチア行きの切符を買った。
イタリア──。心が軽くなるのがわかった。遠くシベリアからここまで、トルコを除いて、すべて旧社会主義圏を列車で越えてきた。それぞれの国には、それなりの自由と秩序があった。しかし鉄道という国家管理の色彩が強い世界は、まだ多くの社会主義を引きずっていた。
いや、そんな社会分析の話ではない。単純に旅の終わりが見えてくるような気がしたのだ。イタリアの先はフランス、そして……。イタリアは訪ねたことがない国だったが、旅の終わりにつながっているような気がした。
だが東欧や旧ユーゴスラビア諸国は、そう簡単に、僕をイタリアに出させてはくれない。
ベオグラードから乗った車内で、車掌はこう伝えてくれた。
「この列車はザグレブまで。でも心配しないでいい。接続列車があるから」
僕はクロアチアの首都、ザグレブでまたしても途中下車をしなくてはならなかった。列車は夜の10時すぎにザグレブに着いた。寂しい駅だった。僕は水を買いたかったのだが、手許にはユーロとドル、そしてセビリアの金しかない。駅前の店に入ったが、どの紙幣を見せても首を振るだけだった。
ホームに戻った。どうもブダペストからやってくる列車が接続するようだった。列車が入線し、僕は切符に印字された車両番号を探した。先頭の気動車に近づくにつれて、426、425、424と車両番号は若くなっていった。そしてその先に気動車が連結されていた。
「ん?」
切符に視線を落とす。車両番号は423。僕が乗るはずの車両はみつからない。424の車両のデッキで切符をチェックしていた女性の車掌に、切符を見てもらった。423だからこの前の車両……といった感じで身を乗り出した。
「ワオ」
僕が乗る車両は連結されていなかったのだ。どうも忘れたらしい。車掌たちが集まってきた。しかし表情は暗くなかった。だいたいブダペストやザグレブから列車でベネチアに向かう人などそう多くないようで、車内はすいていたのだ。結局、僕は424車両で寝ることになった。
翌朝、ベネチアに到着。すぐに切符売り場に行くと、ミラノ、ジェノバ、ベンティミーリアで乗り換え、1日でニースまで行くチケットをつくってくれた。僕は旧社会主義エリアを脱出したようだった。こういうチケットがすぐに発券される世界に入ったのだ。しかしそのおかげで、イタリア料理は、ミラノの乗り換え時間に、駅にあったピザリアというチェーン店で急いで食べたピザだけだった。
夜の8時近くにフランスのニースに着いた。しかし季節はずれのリゾートは来るものじゃない。街でレストランを探したのだが、開いていたのは、できあいの料理を温めるだけという中華料理屋だけだった。従業員はタイ人。僕は味の濃い焼きそばを啜るしかなかった。
(ニース。2010/10/25)
セルビアのベオグラード行きは、その夜に出発することになった。再び寝台車の夜である。翌朝、ベオグラード駅で、イタリアのベネチア行きの切符を買った。
イタリア──。心が軽くなるのがわかった。遠くシベリアからここまで、トルコを除いて、すべて旧社会主義圏を列車で越えてきた。それぞれの国には、それなりの自由と秩序があった。しかし鉄道という国家管理の色彩が強い世界は、まだ多くの社会主義を引きずっていた。
いや、そんな社会分析の話ではない。単純に旅の終わりが見えてくるような気がしたのだ。イタリアの先はフランス、そして……。イタリアは訪ねたことがない国だったが、旅の終わりにつながっているような気がした。
だが東欧や旧ユーゴスラビア諸国は、そう簡単に、僕をイタリアに出させてはくれない。
ベオグラードから乗った車内で、車掌はこう伝えてくれた。
「この列車はザグレブまで。でも心配しないでいい。接続列車があるから」
僕はクロアチアの首都、ザグレブでまたしても途中下車をしなくてはならなかった。列車は夜の10時すぎにザグレブに着いた。寂しい駅だった。僕は水を買いたかったのだが、手許にはユーロとドル、そしてセビリアの金しかない。駅前の店に入ったが、どの紙幣を見せても首を振るだけだった。
ホームに戻った。どうもブダペストからやってくる列車が接続するようだった。列車が入線し、僕は切符に印字された車両番号を探した。先頭の気動車に近づくにつれて、426、425、424と車両番号は若くなっていった。そしてその先に気動車が連結されていた。
「ん?」
切符に視線を落とす。車両番号は423。僕が乗るはずの車両はみつからない。424の車両のデッキで切符をチェックしていた女性の車掌に、切符を見てもらった。423だからこの前の車両……といった感じで身を乗り出した。
「ワオ」
僕が乗る車両は連結されていなかったのだ。どうも忘れたらしい。車掌たちが集まってきた。しかし表情は暗くなかった。だいたいブダペストやザグレブから列車でベネチアに向かう人などそう多くないようで、車内はすいていたのだ。結局、僕は424車両で寝ることになった。
翌朝、ベネチアに到着。すぐに切符売り場に行くと、ミラノ、ジェノバ、ベンティミーリアで乗り換え、1日でニースまで行くチケットをつくってくれた。僕は旧社会主義エリアを脱出したようだった。こういうチケットがすぐに発券される世界に入ったのだ。しかしそのおかげで、イタリア料理は、ミラノの乗り換え時間に、駅にあったピザリアというチェーン店で急いで食べたピザだけだった。
夜の8時近くにフランスのニースに着いた。しかし季節はずれのリゾートは来るものじゃない。街でレストランを探したのだが、開いていたのは、できあいの料理を温めるだけという中華料理屋だけだった。従業員はタイ人。僕は味の濃い焼きそばを啜るしかなかった。
(ニース。2010/10/25)
Posted by 下川裕治 at 12:00│Comments(0)
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