2012年08月06日
積乱雲を見あげた少年時代
人にはそれぞれ、夏のイメージがある。暑さが厳しいほど、その記憶は鮮烈になっていく気がする。テレビのCFを観ていても、夏の原風景に訴えるものが多い。強い日射し、汗、土の匂い、スイカ、夏祭り、ゆかた……。そういう断片が日本人の夏なのだろう。
先週、台北にいた。台北はからりと晴れあがる日が少ない記憶があった。しかし滞在した時期は、夏真っ盛りといった感じで、雲が勢いよく流れ、青空が広がった。熱風がビルの間を吹き抜けていた。毎日、出現するみごとな夕焼けをしばし見あげてしまった。
雲……。
茜色に染まった雲が、日本の雲を思い出させた。日本の夏の雲である。僕にとっての夏の原風景は雲らしい。
東南アジアの空を眺める機会が多い。南の国の空と日本の空の違いは雲ではないか……。そんな気がした。夏の雲の話だから、積乱雲である。タイでもベトナムでも、激しいスコールに襲われる。空全体が暗くなる前、大きな積乱雲が発達しているのだろうが、なぜかその記憶が薄い。東南アジアの積乱雲は大きすぎるのだろうか。地表からの距離の関係かもしれない。それとも積乱雲が発達するスピードが日本とは違うのだろうか。
日本の積乱雲は、むくむくと成長する様子が手にとるようにわかる。高い空に向かってぐんぐんと昇っていく姿は、雲のなかに生き物が棲んでいるようでもある。
宮崎駿の『天空のラピュタ』というアニメを観たとき、彼の想像力に共感した。あの積乱雲のなかに、王国があったとしても、素直に受け入れられた。
──22インチの自転車のペダルをぎこぎこと踏みながら、僕は水田の間に延びる農道を走っている。夏の暑い一日。ふと自転車を停め、汗を拭いながら見あげると、美ヶ原の山並みの向こうに、積乱雲が見える。先端の部分は、勢いよく上空に向かって昇っていく。その雲を、ただ見あげている。
僕にとって、空に昇っていく積乱雲は、信州ですごした少年時代の夏休みにつながってしまうのだ。
あの雲が僕にとっての日本の夏だった。
あの雲を見れば、どこか満足してしまうようなところがある。
母は信州にいる。福祉用語でいうところの独居老人である。信州に帰郷する回数は多いが、夏、松本の市内に入ると、つい空を眺めてしまう。そこに積乱雲をみつけると、ほっとする自分がいる。
雲の形はいつも違う。空に向かって昇る場所も時間も違う。しかしあの雲は、僕の少年時代につながっている。
先週、台北にいた。台北はからりと晴れあがる日が少ない記憶があった。しかし滞在した時期は、夏真っ盛りといった感じで、雲が勢いよく流れ、青空が広がった。熱風がビルの間を吹き抜けていた。毎日、出現するみごとな夕焼けをしばし見あげてしまった。
雲……。
茜色に染まった雲が、日本の雲を思い出させた。日本の夏の雲である。僕にとっての夏の原風景は雲らしい。
東南アジアの空を眺める機会が多い。南の国の空と日本の空の違いは雲ではないか……。そんな気がした。夏の雲の話だから、積乱雲である。タイでもベトナムでも、激しいスコールに襲われる。空全体が暗くなる前、大きな積乱雲が発達しているのだろうが、なぜかその記憶が薄い。東南アジアの積乱雲は大きすぎるのだろうか。地表からの距離の関係かもしれない。それとも積乱雲が発達するスピードが日本とは違うのだろうか。
日本の積乱雲は、むくむくと成長する様子が手にとるようにわかる。高い空に向かってぐんぐんと昇っていく姿は、雲のなかに生き物が棲んでいるようでもある。
宮崎駿の『天空のラピュタ』というアニメを観たとき、彼の想像力に共感した。あの積乱雲のなかに、王国があったとしても、素直に受け入れられた。
──22インチの自転車のペダルをぎこぎこと踏みながら、僕は水田の間に延びる農道を走っている。夏の暑い一日。ふと自転車を停め、汗を拭いながら見あげると、美ヶ原の山並みの向こうに、積乱雲が見える。先端の部分は、勢いよく上空に向かって昇っていく。その雲を、ただ見あげている。
僕にとって、空に昇っていく積乱雲は、信州ですごした少年時代の夏休みにつながってしまうのだ。
あの雲が僕にとっての日本の夏だった。
あの雲を見れば、どこか満足してしまうようなところがある。
母は信州にいる。福祉用語でいうところの独居老人である。信州に帰郷する回数は多いが、夏、松本の市内に入ると、つい空を眺めてしまう。そこに積乱雲をみつけると、ほっとする自分がいる。
雲の形はいつも違う。空に向かって昇る場所も時間も違う。しかしあの雲は、僕の少年時代につながっている。
Posted by 下川裕治 at 12:00│Comments(0)
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