2014年06月16日
峠越えの道は大渋滞。これも想定内?
【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、再びタイのバンコクでミャンマーのビザをとり、ミャーワディに入った。
※ ※
ミャンマーのミャーワディからヤンゴンへの道は、1日おきの一方通行だった。僕らがミャーワディに入ったのは奇数日だった。つまりヤンゴン方面にバスや車が進むことができるのは、偶数日ということになる。
一方通行区間は、正確にいうと、峠を越えたパアンの街までだった。そこからは道が広くなり、毎日、バスが運行していた。
ミャーワディのメイン通り沿って、いくつかのバス会社があった。どこもバスと小型車の予約を受け付けていた。
バスはパアン行きが多かった。ヤンゴンに行く人は、パアンでバスを乗り換えるようだった。それでもよかったのだが、その日のうちにヤンゴンまで行くことができる保証はなかった。何軒か聞き歩き、やっとヤンゴンまで行くバスをみつけた。ヤンゴン着は夜の11時頃になるようだった。
運賃は1万5000チャットだった。外国人はそこに手続き料が加算されて、1万8500チャットになる。日本円にすると、2000円ほどである。パスポートを渡し、そのコピーをとっていた。
翌朝の8時30分。バスは予定通り、ミャーワディを出発した。ボディに『JR』の文字がしっかりと残された中古バスだった。
30分ほどで市内を抜け、山道に入っていった。たしかに車1台がやっとという狭い峠越えの道だった。未舗装路でもある。雨季に入り、ぬかるんだら怖い道かもしれない。
10時頃だったろうか。バスは坂道の途中で停まってしまった。少し登ったが、また停まり……といったことを繰り返し、完全に停まってしまった。運転手はバスを降り、前のほうまで見に行った。僕らもその後をついていってみた。
1台のトラックが、道の中央に停まっていた。故障だった。ミャンマーの車は中古車だらけだ。当然、故障の頻度も高くなる。
「あのトラックを道の端に寄せれば、通れるだろうか」
そんなことを考えながらバスに戻った。
どこからともなく、バケツに冷えたペットボトルを入れた物売りが現れた。菓子や豆も売りにきた。
まるで事故を知っていたかのような早さだった。故障車が出て、渋滞が起きるのは、想定内ということだろうか。
脇をふたりの客を乗せたバイクが次々に追い抜いていった。人のほかに、荷物を山のように積んだバイクもある。峠の上から降りてくるバイクもある。どうもバイクは一方通行が関係ないようだった。
「僕らもバイクっていう手があったか」
「たぶん、外国人は乗れませんよ」
バスは相変わらず動かなかった。
エンジンがかかったのは昼頃だった。ここで2時間遅れたことになる。
それが1時間後の事故の伏線になってしまった。(以下次号)
(写真やルートはこちら)
この旅の写真やルート地図は、以下をクリック。
http://www.asahi.com/and_M/clickdeep_list.html。
「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。
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裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、再びタイのバンコクでミャンマーのビザをとり、ミャーワディに入った。
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ミャンマーのミャーワディからヤンゴンへの道は、1日おきの一方通行だった。僕らがミャーワディに入ったのは奇数日だった。つまりヤンゴン方面にバスや車が進むことができるのは、偶数日ということになる。
一方通行区間は、正確にいうと、峠を越えたパアンの街までだった。そこからは道が広くなり、毎日、バスが運行していた。
ミャーワディのメイン通り沿って、いくつかのバス会社があった。どこもバスと小型車の予約を受け付けていた。
バスはパアン行きが多かった。ヤンゴンに行く人は、パアンでバスを乗り換えるようだった。それでもよかったのだが、その日のうちにヤンゴンまで行くことができる保証はなかった。何軒か聞き歩き、やっとヤンゴンまで行くバスをみつけた。ヤンゴン着は夜の11時頃になるようだった。
運賃は1万5000チャットだった。外国人はそこに手続き料が加算されて、1万8500チャットになる。日本円にすると、2000円ほどである。パスポートを渡し、そのコピーをとっていた。
翌朝の8時30分。バスは予定通り、ミャーワディを出発した。ボディに『JR』の文字がしっかりと残された中古バスだった。
30分ほどで市内を抜け、山道に入っていった。たしかに車1台がやっとという狭い峠越えの道だった。未舗装路でもある。雨季に入り、ぬかるんだら怖い道かもしれない。
10時頃だったろうか。バスは坂道の途中で停まってしまった。少し登ったが、また停まり……といったことを繰り返し、完全に停まってしまった。運転手はバスを降り、前のほうまで見に行った。僕らもその後をついていってみた。
1台のトラックが、道の中央に停まっていた。故障だった。ミャンマーの車は中古車だらけだ。当然、故障の頻度も高くなる。
「あのトラックを道の端に寄せれば、通れるだろうか」
そんなことを考えながらバスに戻った。
どこからともなく、バケツに冷えたペットボトルを入れた物売りが現れた。菓子や豆も売りにきた。
まるで事故を知っていたかのような早さだった。故障車が出て、渋滞が起きるのは、想定内ということだろうか。
脇をふたりの客を乗せたバイクが次々に追い抜いていった。人のほかに、荷物を山のように積んだバイクもある。峠の上から降りてくるバイクもある。どうもバイクは一方通行が関係ないようだった。
「僕らもバイクっていう手があったか」
「たぶん、外国人は乗れませんよ」
バスは相変わらず動かなかった。
エンジンがかかったのは昼頃だった。ここで2時間遅れたことになる。
それが1時間後の事故の伏線になってしまった。(以下次号)
(写真やルートはこちら)
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Posted by 下川裕治 at 12:54│Comments(0)
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