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ナムジャイブログ

2013年12月23日

ベトナム戦争の隘路に入り込んでしまった

【2013年11月04日号から、通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。タイのスリンからカンボジアに入国し、シュムリアップ、プノンペンを経てホーチミンシティに到着した。
     ※       ※
 ホーチミンシティの街で、ひとりのベトナム人がこんなことをいった。
「もしあのとき、ベトナムが統一されなかったら、南ベトナムは韓国ぐらいには発展していたかもしれません」
 あのときとは、サイゴン陥落のときを意味していた。ホーチミンシティの旧名はサイゴンである。アメリカ軍が撤退し、北ベトナム軍はサイゴンを陥落させた。そしてベトナムはひとつの国になったのだが、当のベトナム人が、南北統一を否定するかのような話をするのだった。
 僕にとってのベトナムへの思いの足許を崩されるような気がした。
 いまの60代の日本人にとって、ベトナムという国は、アジアの一国以上の意味合いをもっていた。彼らが若い頃、日本はベトナム戦争反対の機運に揺れていたのだ。日本の学生運動は、安保、つまり日米安全保障条約の問題を抱えていた。1960年の安保反対闘争で挫折を味わい、それから約10年後、ベトナム戦争反対という動きに収斂されていく。新宿駅西口のフォークゲリラ、ベ平連運動などに参加する学生たちが多かった。『フランシーヌの場合』という歌が、大ヒットした時代だった。彼らにとって、ベトナム戦争とは、ベトナム民族解放に映っていた。
 それは世界的な流れでもあった。アメリカやヨーロッパの多くの学生が、ベトナム戦争に反対していった。
 アメリカ軍が撤退し、北ベトナム軍がサイゴンを陥落させたことは、そんな運動の勝利にも映った。ベトナムは長い戦争を経て、ようやくひとつの国になれた……と。
 しかしベトナム人の口から、その結果を否定するような言葉を聞いてしまった。
 僕はホーチミンシティの路上で悩んでしまった。追い打ちをかけるように、別のベトナム人がこんなことをいう。
「ベトナムは300年も前から、南北で分かれていたんですよ」
 ひとつの民族は、ひとつの国をつくろうとする……。それは、ベトナムという国を知らない日本人が、勝手につくりだした論理ではなかったのだろうか。
 帰国後、さまざまな本を読んだ。そしてある問題に辿り着く。「ひとつの民族はひとつの国家」という論理にこだわったのは、ベトナムを植民地化したフランスやアメリカでもあったように思えてくるのだ。
 ベトナム人は現実的だった。
 この問題は、ブログで書ききれるようなことでもなかった。僕の学生時代や若者なりの憧れにもかかわっているからだ。
 実はいま、悩みつつ、その原稿を書き進めている。来年の3月に発売される予定の『週末ベトナム』の一項になるかもしれない。
             (以下次号)

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「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。

  

Posted by 下川裕治 at 12:04Comments(0)

2013年12月16日

フォーはフランス料理?

【2013年11月04日号から、通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。タイのスリンからカンボジアに入国し、メコン川を下ってチャドックでベトナムに入国。ホーチミンシティに2泊した。
     ※       ※
 ホーチミンシティでベトナム人と昼食をとった。入口で食べたい料理を指さす大衆店である。食べ終わると、ガラスの容器に入った食べ物が出てきた。
「これは?」
「ヨーグルトですよ。この店のサービス」
 ホーチミンの人たちは、ごく普通にヨーグルトを食べていた。アジア人はヨーグルトが苦手だと思っていた。以前、バンコクに住んでいたとき、訪ねてきたタイ人にヨーグルトを出したことがあった。彼はそれをひと口食べるとこういった。
「腐ってる」
 いくら説明しても、けっしてスプーンを手にはしなかった。あの酸味は、牛乳が腐ったものという範疇だったのだ。
 しかしホーチミンシティの人たちは平気で食べる。好物だった。
 その背後にあるもの。
 フランスだった。
 長いフランス植民地時代に刷り込まれた味だった。
「ヨーグルト? そういえば『フォー24』のセットメニューにもあったな」
『フォー24』は24時間営業のフォーのチェーン店である。翌日、入ってみた。フォーに生春巻きがついたセットにデザートとしてヨーグルトがついていた。
 ひとりのベトナム人がこんな話をしてくれた。
「フォーはベトナム料理だと思っているかもしれないけど、フランスの味でもあるんですよ。たしかに麺はベトナム。でも、牛からスープをとって、牛肉を載せる食文化はフランスですよ」
 たしかにアジアの女性は30歳をすぎると牛肉を食べない人が多い。体によくないのだという。しかしフォーボー、つまり牛肉のフォーはベトナム料理を代表する料理だ。
「だって、フォー屋には、ビーフシチューもあるでしょ」
「ビーフシチュー?」
 フォーの店に、そんなものがあるとは思わなかった。しかし道端のフォー屋に訊くと、あたりまえのように出してくれた。ボーコーという。一緒にバケットも出てきた。ボーコーにはフランスパンというわけだ。
 食べてみた。ビーフシチューだった。ネギを散らしてあるところが、ベトナムっぽいのだが、それ以外はまったくのフランス。
 後日、貝料理屋に入った。そこにはムール貝もどきの貝があり、頼むと蒸し焼きにして出してくれた。ここでもバケットがついてくるのだ。
 それを食べながら、意識はベルギーのブリュッセルに飛んでいた。小便小僧で有名な界隈には、ムール貝を食べに多くのフランス人がやってくる。ムール貝の蒸し焼きにバケット。そのとり合わせに、ホーチミンシティで出合うとは。違いはワインだけだった。
             (以下次号)

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Posted by 下川裕治 at 12:11Comments(0)

2013年12月09日

路線バスがクラブという不安

【2013年11月04日号から、通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
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 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。タイのスリンからカンボジアに入国し、メコン川を下ってチャドックでベトナムに入国。ホーチミンシティにバスは着いた。
     ※       ※
 ホーチミンシティ。バンコク以来、6日ぶりの都会だった。この街で僕は路線バスに乗りまくっていた。
 最近、思うのだが、ホーチミンシティは路線バスで移動できる街に変わりつつある。たとえば空港から市内。かつてはタクシーが唯一の足のようにいわれていた。ぼらないタクシーを選ぶ技も必要だった。
 しかし最近、僕は路線バスに乗る。運賃は5000ドン、約25円。10万ドンを超えるタクシー代に比べると、小躍りするほど安い。バスの終点はベンタン市場。ゲストハウスがひしめくデタム通り界隈も遠くない。
 バスの最前席に座ろうものなら、冷や汗が止まらない。信号で停車すると、バスの前には100台以上のバイクが入りこんでくる。ホーチミンシティのバイクは、ミズスマシのように路上を動きまわる。バスすれすれで横切ったりする。それをかわしながら、バスは進む。それでも40分ほどでベンタン市場に着いてしまうのだから、そのテクニックはかなりのレベルだ。
 19番のバスに乗って、サイゴン川の対岸まで行ってみることにした。終点までの距離が長いのか、運賃は6000ドンだった。バスは川を越え、下町を走り、国道1号線に出てもまだ走り続けた。1時間ほど乗った。郊外のテーマパークの前で降りた。
 日は沈みかけていた。テーマパークも終わっていた。道を渡り、市街に戻る19番のバスに乗った。
 それから30分……。バスは郊外の工場勤務から帰る人たちで埋まっていた。と、車内に灯りがともった。前の席に座るカメラマンの顔を見た。
「なんですか、これ」
「7色ですね」
 車内の電灯が、まるでクラブのように7色に点滅するのだった。すると突然、車内に大音響が響きはじめた。ロックだった。ロシア語の曲で、低音がずんずんと下腹に響く。かなりいいスピーカーを搭載しているようだった。
 いや、そういうことではなかった。これは路線バスなのである。バスはバス停にきちんと停まり、客の乗り降りがある。ごく普通の路線バスなのだ。乗客が席に座ると、車掌が切符を手にやってくる。
 しかし車内は完全にクラブなのだ。
 乗客は戸惑う様子も見せなかった。かといって踊りはじめる人もいない。窓の外には、帰宅を急ぐバイクがひしめいている。
 しかし車内にはライトの点滅に合わせるようにロックが鳴り響いている。
 こんなことをしていていいのだろうか。
 ホーチミンシティの路線バスの今後が、少し不安になった。
             (以下次号)

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「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。バス車内の動画は、音があまりに大きいため、3分の1程度に音量を絞ってあります。

  

Posted by 下川裕治 at 11:50Comments(0)

2013年12月02日

渡る川はすべてメコンとベトナム人はいう

【2013年11月04日号から、通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
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 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。タイのスリンからカンボジアに入国し、プノンペンからメコン川を下り、チャドックでベトナムに入国した。
     ※       ※
 ベトナムのチャドックは、思っていた以上に大きな街だった。市街地はしかたないのだが、郊外にも高床式の家はなかった。メコン川のデルタ地帯なのだが、洪水を想定していない。途中のカンボジアの村々は水没しているというのに。カンボジアの村が調整弁の役割を果たしていた。中流域の洪水で下流域が水害から守られる構図である。
「いや、台風のときは大変だよ」
と街の人はいうのだが。
 陸路で国境を越えていく場合、困るのが両替だった。空港と違い入国する人が少ないため、正式な両替が難しいのだ。しかしカンボジアやベトナムはさしたる問題はなかった。アメリカドルが使えるため、事前に用意することができる。
 1ドルの自転車リキシャで船着き場から街に向かう。ホーチミンシティまでのバスを運行する会社まで連れていってもらった。ホーチミンシティまでのバスは6ドルだった。
 いったいいくつの橋を越えただろうか。街を出て、すぐに運河のような川を渡った。これもメコン川の支流だという。その数を指で折って数えようとしたのだが、20を超えたところで諦めた。メコン川は数えきれないほどの支流に分かれてデルタを下っていた。
 3時間ほどバスは進んだだろうか。橋のない大河に出た。褐色の水が勢いよく流れている。バスはフェリーに乗って川を越えた。フェリーの両脇には、ぎっしりとバイクが乗り込む。ホーチミンシティに近づいていることをこうして教えられる。
 それから1時間ほど走ると、大きな橋を渡った。眼下に幅の広い流れが見える。「これはなんていう川?」とバスの乗客に訊いた。
「メコン」
「じゃあ、さっき渡った川は?」
「メコン」
 そういうことでいいのだろうか。正式な名前はあるのかもしれないが、周辺を流れ下る川は、どれもメコン。ベトナム人はそういうのだった。
 昼食を途中の食堂にとり、午後2時ごろにホーチミンシティのバスターミナルに到着した。道をぎっしりと埋めたバイクの波が待っていた。
             (以下次号)

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