2012年06月25日
枚数は質を凌駕しない
一房のアジサイは、いったい何枚の写真を撮られるのだろうか。梅雨の鎌倉で、ひとり呟いていた。
御霊神社の入り口に、ひとつの列ができていた。その先頭にまわると、咲きかけのアジサイがあった。その形が珍しいということらしい。順番がまわってくると、皆、カメラを構える。一眼レフ、スマートフォン、携帯電話……。カメラはさまざまだが、皆、写真なのである。そこかしこから、シャッターを切る音が響く。
神社の脇を江ノ電が走っていた。線路脇にアジサイが咲く。そこには鉄ちゃんたちが数十人、高そうなカメラを構える。江ノ電とアジサイ。写真のタイトルも決まっているのかもしれない。
あまりの人に気圧され、別の場所を探して歩く。成就院にも行ってみたが、寺に入る坂道がすでに人で埋まっていた。脇にアジサイがあるから列が進まない。皆、カメラをとりだして写真なのである。
好きこのんで混み合う梅雨の鎌倉に行ったわけではない。僕はある句会のグループに入っていて、その吟行が鎌倉であったのだ。吟行というのは、さまざまな場所を訪ね、その場で俳句をつくることをいう。
僕の携帯電話やスマートフォンにも写真機能がついている。しかしこれまで、1回もその機能を使ったことがない。写真はデジカメと決めているからだ。整理することを思うと、ほかの機械でシャッターを押す気になれない。
整理する──。僕にとって、写真というものは、整理するものなのだ。雑誌や書籍の編集に長くかかわってきたせいか、そういう癖がついてしまった。いつかどこかの誌面で使うかもしれない。そのためには、整理しておかないとなかなか探しだせないのだ。
だから誌面で使うあてのない写真は撮らない。僕はしばしば海外に出る。一応、デジカメは持っていくが、1回もシャッターを押さずに帰国することはよくある。誌面で使う可能性の問題もあるが、ときに忘れてしまうこともある。どうも僕の頭の回路は、写真にすぐにつながらないらしい。鎌倉でも1枚の写真も撮らなかった。
若い頃、カメラマンと一緒に取材に出向くことが多かった。まだデジカメではなく、フィルムの時代である。あるとき、松本伊代にインタビューをすることになった。写真部のベテランカメラマンが同行した。インタビューが終わり、写真を撮ることになった。カメラマンは、松本伊代をドアの前に立たせ、ファインダーをのぞきながら、世間話をはじめた。そして1回、シャッターを押した。
「ありがとうございました」
そういうとカメラをしまいはじめた。これには松本伊代も戸惑っていた。横にいたマネージャーは不安そうだった。しかし写真は、いい表情をとらえていた。
写真の専門家ではない。しかし、「枚数は質を凌駕しない」世界であることぐらいはわかる。
御霊神社の入り口に、ひとつの列ができていた。その先頭にまわると、咲きかけのアジサイがあった。その形が珍しいということらしい。順番がまわってくると、皆、カメラを構える。一眼レフ、スマートフォン、携帯電話……。カメラはさまざまだが、皆、写真なのである。そこかしこから、シャッターを切る音が響く。
神社の脇を江ノ電が走っていた。線路脇にアジサイが咲く。そこには鉄ちゃんたちが数十人、高そうなカメラを構える。江ノ電とアジサイ。写真のタイトルも決まっているのかもしれない。
あまりの人に気圧され、別の場所を探して歩く。成就院にも行ってみたが、寺に入る坂道がすでに人で埋まっていた。脇にアジサイがあるから列が進まない。皆、カメラをとりだして写真なのである。
好きこのんで混み合う梅雨の鎌倉に行ったわけではない。僕はある句会のグループに入っていて、その吟行が鎌倉であったのだ。吟行というのは、さまざまな場所を訪ね、その場で俳句をつくることをいう。
僕の携帯電話やスマートフォンにも写真機能がついている。しかしこれまで、1回もその機能を使ったことがない。写真はデジカメと決めているからだ。整理することを思うと、ほかの機械でシャッターを押す気になれない。
整理する──。僕にとって、写真というものは、整理するものなのだ。雑誌や書籍の編集に長くかかわってきたせいか、そういう癖がついてしまった。いつかどこかの誌面で使うかもしれない。そのためには、整理しておかないとなかなか探しだせないのだ。
だから誌面で使うあてのない写真は撮らない。僕はしばしば海外に出る。一応、デジカメは持っていくが、1回もシャッターを押さずに帰国することはよくある。誌面で使う可能性の問題もあるが、ときに忘れてしまうこともある。どうも僕の頭の回路は、写真にすぐにつながらないらしい。鎌倉でも1枚の写真も撮らなかった。
若い頃、カメラマンと一緒に取材に出向くことが多かった。まだデジカメではなく、フィルムの時代である。あるとき、松本伊代にインタビューをすることになった。写真部のベテランカメラマンが同行した。インタビューが終わり、写真を撮ることになった。カメラマンは、松本伊代をドアの前に立たせ、ファインダーをのぞきながら、世間話をはじめた。そして1回、シャッターを押した。
「ありがとうございました」
そういうとカメラをしまいはじめた。これには松本伊代も戸惑っていた。横にいたマネージャーは不安そうだった。しかし写真は、いい表情をとらえていた。
写真の専門家ではない。しかし、「枚数は質を凌駕しない」世界であることぐらいはわかる。
Posted by 下川裕治 at
14:57
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2012年06月11日
今晩も僕は床で寝る
床に寝る──。
タイで覚えたことである。
バンコクにはじめて暮らしたとき、僕はタイ人の家に下宿させてもらっていた。午前中はタイ語の学校に通い、下宿に戻って昼食を食べると、猛烈な睡魔に襲われた。
僕の部屋は2階にあった。午後は気温があがり、寝ることはもちろん、入ることもできないほど暑かった。僕は毎日、1階で昼寝を決め込んでいた。1階は石の床だった。そこに横になり、頬をつけると、ひんやりとした感触が伝わってくる。それが心地よかった。
下宿の家族と一緒に、ときどき地方にでかけた。泊まるのはホテルではなく、下宿に主人の知り合いの家だった。
いつも床に寝た。タイでは来客に対し、床を提供することは失礼なことではなかった。ゴザや上がけを用意してくれる家が多かった。しかし寝るのは床だった。
2回目にバンコクに暮らしたときは、家族も一緒だった。3部屋のアパートで、2部屋にはベッドが備えつけられていた。
そのアパートには、タイ人の知人がよく訪ねてきた。泊まっていくことも多かった。ベッドのある部屋に寝てもらったのだが、彼らはベッドに脇の床に寝ることが多かった。
「ベッドで眠ればいいのに」
というと、彼らは、決まってこう答えたものだった。
「ベッドは暑い」
かくいう僕も、床に寝ていたのだが。
冷房とベッドというものは、セットになっているようだった。冷房をつけ、ベッドに寝るのが欧米風の暮らしだとタイ人は考えていた。僕が借りたアパートには冷房があったが、その電気代を気にしたのか、彼らの多くは冷房のスイッチを入れなかった。
冷房がなければ床で寝る。
それはタイではあたり前のことだった。
いまバンコクのホテルにいる。
バンコクはやはり暑い。しかし、僕は冷房が苦手だ。窓を開けて寝ている。そういう流れになれば、当然、床に寝る。泊まっているホテルはタイルの床だから、頬をつけるとひんやりとして気持ちがいい。
本音をいえば、ベッドはいらない。しかしホテルのスタッフに、「ベッドを部屋から出してほしい」とはなかなかいえない。だからベッド脇の狭いスペースに体を横たえる。
「下川さんは床で寝ているんですか」
ときどき宇宙人を眺めるような視線を、日本人から向けられることがある。
しかし僕にとって、快適に寝ることができる場所は床なのだ。
人の寝る場所に、とやかくいわないでほしい……という思いがある。しかし今日、タイ人から同じことをいわれた。
ちょっとショックだった。
タイで覚えたことである。
バンコクにはじめて暮らしたとき、僕はタイ人の家に下宿させてもらっていた。午前中はタイ語の学校に通い、下宿に戻って昼食を食べると、猛烈な睡魔に襲われた。
僕の部屋は2階にあった。午後は気温があがり、寝ることはもちろん、入ることもできないほど暑かった。僕は毎日、1階で昼寝を決め込んでいた。1階は石の床だった。そこに横になり、頬をつけると、ひんやりとした感触が伝わってくる。それが心地よかった。
下宿の家族と一緒に、ときどき地方にでかけた。泊まるのはホテルではなく、下宿に主人の知り合いの家だった。
いつも床に寝た。タイでは来客に対し、床を提供することは失礼なことではなかった。ゴザや上がけを用意してくれる家が多かった。しかし寝るのは床だった。
2回目にバンコクに暮らしたときは、家族も一緒だった。3部屋のアパートで、2部屋にはベッドが備えつけられていた。
そのアパートには、タイ人の知人がよく訪ねてきた。泊まっていくことも多かった。ベッドのある部屋に寝てもらったのだが、彼らはベッドに脇の床に寝ることが多かった。
「ベッドで眠ればいいのに」
というと、彼らは、決まってこう答えたものだった。
「ベッドは暑い」
かくいう僕も、床に寝ていたのだが。
冷房とベッドというものは、セットになっているようだった。冷房をつけ、ベッドに寝るのが欧米風の暮らしだとタイ人は考えていた。僕が借りたアパートには冷房があったが、その電気代を気にしたのか、彼らの多くは冷房のスイッチを入れなかった。
冷房がなければ床で寝る。
それはタイではあたり前のことだった。
いまバンコクのホテルにいる。
バンコクはやはり暑い。しかし、僕は冷房が苦手だ。窓を開けて寝ている。そういう流れになれば、当然、床に寝る。泊まっているホテルはタイルの床だから、頬をつけるとひんやりとして気持ちがいい。
本音をいえば、ベッドはいらない。しかしホテルのスタッフに、「ベッドを部屋から出してほしい」とはなかなかいえない。だからベッド脇の狭いスペースに体を横たえる。
「下川さんは床で寝ているんですか」
ときどき宇宙人を眺めるような視線を、日本人から向けられることがある。
しかし僕にとって、快適に寝ることができる場所は床なのだ。
人の寝る場所に、とやかくいわないでほしい……という思いがある。しかし今日、タイ人から同じことをいわれた。
ちょっとショックだった。
Posted by 下川裕治 at
12:53
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2012年06月05日
7、8年は大丈夫?
いよいよ目が悪くなってきた。連日、部屋にこもってゲラと格闘しているのだが、その文字を読むのが辛い。7月に朝日新聞出版から出る『週末アジアでちょっと幸せ』という文庫本である。ゲラの文字は、文庫本と同じサイズだから、文庫本を読むことも辛くなってきているということだ。
近視である。50代に入って、乱視は入り、老眼も進んだ。
「遠近両用眼鏡は慣れるまで疲れます。文字を読むときは、眼鏡をはずことで、もうちょっと頑張ってみましょう」
目医者にそういわれたのが7、8年前。念のために……と、そのとき、老眼鏡もつくっておいた。老眼鏡を使わずに、なんとか頑張ってきたのだが……。
年をとっても、旅の仕事が続いている。最近、やけに本の依頼が多く、忙しく海外を飛びまわらなくてはならない。ひとつの国に1日、ひどいときは数時間ということもある。当然、その国の通貨を使うのだが、硬貨の数字が読めないことがある。そのつど、近眼用の眼鏡をはずさなくてはならない。面倒なこと、このうえない。老人は身のこなしが緩慢だが、その要因のひとつが視力だということを身をもって教えられることになる。
先日、駅の階段でこけた。近眼用の眼鏡も合わなくなっているのだろうか。眼鏡屋に相談してみた。いろいろな検査を受けた。
「乱視も近視も進んではいません。ただ眼鏡というものは、周りの部分がどうしても歪みます。それを矯正するレンズにしてみましょうか」
いま、そのレンズができあがるのを待っている。しかしそのとき、眼鏡屋の店主がいうことが気になった。
「これでレンズを変えれば、あと7、8年は大丈夫かと思います。文字を読むときは老眼鏡ということになるでしょうが」
「7、8年?」
「ええ、7、8年」
そのとき、どうなっているのかは、怖くて訊くことができなかった。
先週、東京の野方ホールでイベントがあった。以前、中野に『山原船』という泡盛酒場があった。その店が縁で沖縄民謡や踊りをはじめた人たちがステージに立った。僕は『山原船』の主人だった新里愛蔵という老人の本を書かせてもらった。彼はいま、沖縄の名護にいる。73歳になるが、このイベントに来てもらった。イベントが終わり、羽田空港で飛行機を待っていた。
「愛蔵さん、目は大丈夫なの?」
「よくないさ。白内障の手術をしたけど、それからものが二重に見えるようになってね。だから字はほとんど読めない。でも、道とか車とはは見えるよー」
原稿を書き続けること……。これからは目の老化との闘いということか。
近視である。50代に入って、乱視は入り、老眼も進んだ。
「遠近両用眼鏡は慣れるまで疲れます。文字を読むときは、眼鏡をはずことで、もうちょっと頑張ってみましょう」
目医者にそういわれたのが7、8年前。念のために……と、そのとき、老眼鏡もつくっておいた。老眼鏡を使わずに、なんとか頑張ってきたのだが……。
年をとっても、旅の仕事が続いている。最近、やけに本の依頼が多く、忙しく海外を飛びまわらなくてはならない。ひとつの国に1日、ひどいときは数時間ということもある。当然、その国の通貨を使うのだが、硬貨の数字が読めないことがある。そのつど、近眼用の眼鏡をはずさなくてはならない。面倒なこと、このうえない。老人は身のこなしが緩慢だが、その要因のひとつが視力だということを身をもって教えられることになる。
先日、駅の階段でこけた。近眼用の眼鏡も合わなくなっているのだろうか。眼鏡屋に相談してみた。いろいろな検査を受けた。
「乱視も近視も進んではいません。ただ眼鏡というものは、周りの部分がどうしても歪みます。それを矯正するレンズにしてみましょうか」
いま、そのレンズができあがるのを待っている。しかしそのとき、眼鏡屋の店主がいうことが気になった。
「これでレンズを変えれば、あと7、8年は大丈夫かと思います。文字を読むときは老眼鏡ということになるでしょうが」
「7、8年?」
「ええ、7、8年」
そのとき、どうなっているのかは、怖くて訊くことができなかった。
先週、東京の野方ホールでイベントがあった。以前、中野に『山原船』という泡盛酒場があった。その店が縁で沖縄民謡や踊りをはじめた人たちがステージに立った。僕は『山原船』の主人だった新里愛蔵という老人の本を書かせてもらった。彼はいま、沖縄の名護にいる。73歳になるが、このイベントに来てもらった。イベントが終わり、羽田空港で飛行機を待っていた。
「愛蔵さん、目は大丈夫なの?」
「よくないさ。白内障の手術をしたけど、それからものが二重に見えるようになってね。だから字はほとんど読めない。でも、道とか車とはは見えるよー」
原稿を書き続けること……。これからは目の老化との闘いということか。
Posted by 下川裕治 at
12:11
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