インバウンドでタイ人を集客! 事例多数で万全の用意 [PR]
ナムジャイブログ

2012年01月31日

原発難民が辿り着く場所

 原発難民……。そんな言葉が浮かんでくる。バンコクや東京で、そんな家族の話をよく耳にする。
 放射能が気になり、バンコクに移り住む人がいる。小さな子供を抱えた母親が多い。夫の仕事はそう簡単にみつからないから、日本から仕送りということになる。
 日本からどこまで避難すればいいのか。中国にも台湾にも原発がある。日本人が少ない街は生活に不安がある。そんなことからバンコクに移り住むのだが、そのバンコクが頼りない。たしかに原発がないから、放射能という危険はないのだが、排ガスで空気は汚れ、ミネラルウォーターも信頼度に欠ける。いまだアスベストが使われているという噂もある。子供のことを考えれば、どちらが安全なのか、また悩んでしまうのだ。
 放射能問題に限らず、この環境への不安は、そこに入り込んでしまうと出口がなくなってしまう。ことは行政が絡むから、「自分の力だけではどうしようもない」というもどかしさもある。不安は不安を呼び、最期には山奥で自給自足しかないという結論に辿り着いても、その山奥にしても、なにかが含まれた大気が流れてきたら……と考え、「地球上に避難できる場所などないのではない」と思えてくる。
 そう、地球には逃げ場などない。それほど人類は愚かで、そういう天体に生まれたということを運命として受け入れていかなくてはならない。それは仏教の理念にも似ている気がする。かつては天災や戦乱、疫病からの救済だったのだろうが、それが環境問題に姿を変え、地球規模に広がっただけのようにも思えるのだ。
 そのなかで、いかに安全に生きていくかという努力を否定するつもりはない。しかしその限界も飲み込まなくてはならない気がする。
「せっかくバンコクに移り住んだのだから、仏教の理念をかじってみるのも……」
 などと考えてもみるが、原発を逃れてきた人たちには、「なにをいっているのよ」と無視されることもわかっている。
 東京にいる知人の家族はしばらく前、三重県に移住した。父親の実家があった。母親が放射能を気にしたことが原因だった。まず母親と3人の子供が引っ越した。父親は東京での仕事を整理するためにしばらく残ることにした。
 しかし中学生の男の子が東京に戻ってきてしまった。部活を続けたいのだという。すると長女も東京にきてしまった。弟が心配だというのだが、どうも彼が東京にいるらしいと父親は話す。そうこうしているうちに、ふたりを説得して三重県に戻るために母親が上京。そして男の子と一緒に再び三重県へ……。
「家族が東京と三重の間を行ったり来たりしてるんです。もう、皆で東京にいてもいいような気がしてきました。息子には部活を続けさせてやりたいし」
 子供を産み、育てる母親。その心理は男にはわからないものなのかもしれない。放射能に怯える母親の前では、冷静さという言葉は詭弁にすぎないのだろうか。日本、そしてアジアを右往左往する原発避難組たちは、どこに落ち着くのだろうか。
  

Posted by 下川裕治 at 17:57Comments(0)

2012年01月23日

ビエンチャンのバンコック

 土曜日の飛行機でバンコクからビエンチャンに飛んだ。1泊してルアンパバン。旧正月の元旦はルアンパバンだった。
 ビエンチャンでは知人に連れられて、一軒のジャズバーに入った。それほど大きな店ではなかったが、ビエンチャンの若者で賑わっていた。
 ライブが開かれていた。ギターはアメリカ人、キーボードとドラムはタイ人のミュージシャンだった。3人のユニットは、バンコクで活動しているらしい。
 リーダー格のアメリカ人が英語で話しはじめる。彼の口から、「バンコック」という言葉が何回も聞こえた。日本人が口にする「バンコク」ではなく「バンコック」……。
 そこにはどこか、ジャズの先端を走る街という匂いがあった。キーボードを操るタイ人はなかなかうまかった。ドラムの音にも迫力があった。
 その音に体を揺らすビエンチャンの若者にとっても、バンコクは、どこか凝縮された文化がある街のように映っているようだった。そう、日本人がニューヨークに抱く感覚のように。
 日本人にとって、バンコクはアジアの街である。旅の世界でいえば、ゆったりとしたアジアの風が吹く街かもしれない。
 しかしラオスから眺めると、バンコクは国際的な大都会である。クルングテープでもバンコクでもなく、英語流の「バンコック」なのだろう。
 翌日の飛行機でルアンパバン。ここには中国人の姿が目立った。ルアンパバンにやってくる欧米人の多くが、街の静けさに惹かれてやってくる。プーシーの丘からの夕日。音を吸い込んでいくかのようなメコンの流れ。そして托鉢に歩く若い僧の列……。
 しかし中国人は違った。四輪駆動の高そうな車で、雲南からやってくるのだ。どこかその旅は、アドベンチャードライブに映る。中国の雲南からは立派な道がつくられ、丸1日のドライブでルアンパバンまで辿り着いてしまうのだ。
 ルアンパバンの街に停められた中国ナンバーの高級四輪駆動車は、これみよがしに中国の豊かさを物語っている。
 何回か訪れているが、ルアンパバンはいい街だと思う。世界遺産に指定された街にありがちな、テーマパーク観がそれほど強くないことがいい。街には昔ながらのラオスの暮らしも息づいている。その共存が、うまくいっているようにも思う。
 しかしそのなかで中国人は異質だ。彼らだけ、高度成長を体にまとっている。
 ビエンチャンのバンコック、そしてルアンパバンの中国。
 どちらも複雑なラオスである。
  

Posted by 下川裕治 at 18:17Comments(0)

2012年01月16日

台湾の総統選挙の夜

 総統選挙が終わった。昨夜はずっとテレビの開票速報を見続けていた。午後4時に投票が締め切られ、刻々と得票数が増えていく。国民党の馬英九と民進党の蔡英文の総統選である。
 はじめは僅差の様相だったが、票が開くうちに馬英九が少しずつリードしていった。10万票が開き、差は30万票になり……。
 各テレビ局は当確宣言に慎重だったが、馬英九の勝利は確実に思えた。
 もし民進党の蔡英文が勝ちそうだったら、板橋にある民進党本部前に行こうかとも思っていた。しかしそんな状況にはなりそうもなかった。
 最終的には、80万票ほどの差がついた。
 馬英九が689万1139票、蔡英文が609万3578票。接戦でもなかった。国民党の完全な勝利だった。
 台湾の選挙は、どこかアメリカの大統領選を思わせる。総統を直接選ぶスタイル。日本の選挙と違い、盛りあがりが違う。
 投票日前日の夜、板橋駅に近い競技場にいた。民進党の最後の集会が開かれていた。2~3万人の支持者が競技場を埋めた。台湾初の女性総統候補。最後には李登輝も登場し、会場は盛りあがった。
 競技場のスタンドに座り、その光景をぼんやり見ていた。僕は中国語がわからない。ステージに立つ人々の演説の意味はほとんどわからない。しかし歓声が響き、旗やペンライトが揺れる会場を包む熱気のなかに身を置くと不思議な高揚感があった。会場ではしきりと、「我愛台湾」が連呼されていた。
 生活を優先させるか、台湾人の意識を選ぶか……。そういう選挙だった気がする。
 国民党政権になり、中国との親密度が深まっていった。中国人は台湾に観光で訪れることが可能になった。その数は年間、160万人にも達している。中国との貿易も自由度を増してゆく。中国人の資金力に支えられ、台湾の景気は悪くない。この状況を維持するなら、国民党という選択になる。
 しかし台湾人としての誇りもある。有名な観光地は中国人で埋まる。その光景に台湾人は顔をしかめる。マナーがひどい、と吐き捨てるようにいう。
 その先に心を痛める台湾人もいる。いまはこのレベルで終わっているが、やがて、不動産への中国人の投資が許され、台湾は一気に中国化していく……と。
 生活を考えれば国民党になる。台湾人の意識を考えれば民進党に傾く。
 最終的には、台湾人は生活を選んだ。
 中国と距離を置こうとするのは、アジアでは、ひとつの流れである。ときに中国の手法は強引さが浮き立ってしまうからだ。
 しかし台湾はその流れに乗らなかった。いや、同じ民族として、中国とうまくやっていく自信が台湾人にはあるのだろうか。

  

Posted by 下川裕治 at 13:44Comments(1)

2012年01月09日

写真を撮りやすくなった時代の後味

 いまの若者は実に簡単に、そして膨大な写真を撮る。昨年、大学生たちとバングラデシュに向かい、改めて思った。テーブルに食事が運ばれてくるとカシャ。現地の人をカシャ。旅を記録したい気持ちはわかるが……。
 デジカメが普及した結果だろう。携帯電話やスマートフォンにもデジカメが搭載されている。とにかく写真に撮り、うまく映っていないものは削除していけばいい。それがデジカメでもあるわけだから、枚数は膨大なものになっていってしまう。
 取材で海外によく出る。カメラマンと同行することも多い。彼らは写真を撮る前、了解をとることが基本だ。肖像権の問題があるからだ。しかしいまの若者は、そんな断りもなく、カシャっと撮ってしまう。
 列車やバスなどの車内写真で、出版社や新聞社と相談することもよくある。ある出版社からはこういわれた。
「映り込んでしまう乗客全員から承諾をとってください」
 しかし現実にはなかなか難しい。かなりの人数になってしまうからだ。その写真を掲載するかどうかもわからない。そのつど、全員に許可をとっていたら、とんでもない労力がかかる。写真もどこか記念撮影風になってしまう。
 ある新聞社は、8人を境界にしていた。それ以下の人数なら承諾をとる。それ以上なら、多くの人という解釈をあてはめた。なぜ、8人なのかはわからなかったが。
 海外で料理を撮るときも気を遣う。一度、パリでレストランの取材をしたことがあった。そのとき、店の了解のほかに、皿をつくった人からも許可をとってほしいといわれた。皿にも著作権があるからだという。
 しかし最近は、そんな煩雑な手続きを踏まなくても、料理の写真を撮ることができることが多い。店も簡単に許可してくれる傾向が強くなった。一般の人々が、勝手に撮ってしまうからだ。海外の場合、その写真をブログやフェイスブックにアップする人が多い。店側も、いちいち注意もできないのだろう。
 ブログやフェイスブックに掲載する写真は、許可をとらなくてもいいのだろうか。そんなことを考えてしまう。しかし少なくとも、ネットが普及したことで、著作権や肖像権の問題はかなり曖昧になってきた。いまにして振り返ると、昔の苦労はなんだったのかと思い悩んでしまう。
 だが……と思うのだ。了解を得ずに人や料理を写真に撮ると、後味が悪い。罪悪の思いがどこかにある。それは著作権とか肖像権以前のことのようにも思う。写真を撮るときは、事前に、目配せでもいいから了解をとる。それは最低の礼儀という気がするのだ。
 そう考えてしまうのは、これまで著作権や肖像権の問題で、長く苦労してきたからなのだろうか。
  

Posted by 下川裕治 at 16:38Comments(1)

2012年01月02日

日本酒が重い正月

 知人が信州で杜氏をしている。その酒蔵にでかけた。信州では、1月から2月が酒づくりのシーズンである。それに備えて、麹を増やす行程と、酵母を増やす作業を同時に行っていた。
 冷え切った酒蔵。樽のなかでは、静かに発酵が進んでいる。うまく米粒のなかまで菌糸をのばさなくてはならない。樽の底はあんかで温められ、定期的に攪拌を繰り返していく。
 米は吟醸酒用の山田錦である。その表面から60%を削り、中心部だけを使う。
 そして麹と酵母、米、水を大きな樽に入れる。樽のなかでは、米のデンプンがブドウ糖に変わり、同時にブドウ糖が発酵していく。綿密に計算された酒づくりの技術。杜氏はそれを経験的に身につけた技術者でもある。
「デンプンがブドウ糖になることと、発酵が樽のなかで同時に進むことが、日本酒の特徴なんです。これを並行複発酵っていうんです」
 話がどんどん難しくなっていく。
 なぜ、この方法を日本酒はとるようになったのだろうか。話を聞いていくと、いかに安定した品質の酒をつくるかということに集約されているようにも思えてくる。いちばん寒い時期に酒をつくるのも、雑菌の繁殖を抑えられるからだという。
 ワインと比べてみる。原料のブドウはもともと甘い。デンプンがブドウ糖になっているのだ。だから発酵だけでいい。そのつくり方は、どこか素朴で単純でもある。だから何年ものといった評価が生まれてくるのだ。
 しかし日本酒には、そういった違いがない。つくり方が確立され、どこか工場でつくられた製品のようなところがある。もちろん、日本酒も原材料によって味わいに差がでてくる。が、ワインほどの味に違いはない。
 日本人という民族は、本当に完璧を求める人々らしい。やはり職人文化圏なのだ。
「そういうことなのだろうか」
 酒蔵で考え込んでしまった。どこか日本の携帯電話にも似た情況のような気がしたのだ。技術的には優れているのだが、日本という国から外に出ることができない。世界の醸造酒といえば、圧倒的にビールかワインなのだ。日本酒はガラパゴス化の典型のようにも思えてくる。
 信州の田舎町の酒蔵で、世界の人が耳にしたら、目を丸くするほど高度な行程を踏んで日本酒がつくられている。それは大変なことなのだろうが、世界標準にはなかなか合わない。
 土産に原酒というものを少しもらった。元旦に飲んでみた。おせち料理を食べながら飲む日本酒の原酒は、少し重かった。

  

Posted by 下川裕治 at 12:53Comments(0)