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ナムジャイブログ

2014年06月30日

1泊110ドルのヤンゴンの宿

【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、いったんタイに戻り、再びミャンマーへ。ミャーワディからヤンゴンに到着した。
     ※       ※
 バスの横転事故に遭ってしまった。しかし峠をくだると、そこにはなにごともなかったかのように新しいバスが待っていた。バスがヤンゴンに着いたのは深夜の12時近かった。
 バスターミナルはヤンゴン郊外にあるようだった。市内まではタクシーしかない時間帯だった。値切っても、8000チャット、約860円までしかさがらなかった。
 スーレーパゴダの近くまで行った。市街地まで来れば、何軒かのホテルがまだ開いているような気がしたのだ。
 しかしゲストハウス風の宿は、軒並み扉が閉まっていた。立派そうなホテルの裏手に、少し安そうな中級ホテルがあった。入り口の灯りがついていた。フロントではスタッフが寝入っていた。なんとか起こすと、パソコンで空室を調べてくれた。
「1泊110ドルです」
「はッ?」
 ヤンゴンのホテルは異常に高いことは知っていた。1年ほど前にもヤンゴンに滞在していた。そのときは20ドルほどのホテルをみつけたが、同じようなクラスのホテルが、110ドル……。いったいどういうことになっているのだろうか。
 泣きっ面に蜂とはこういうことだろうか。すでに午前0時をまわっていた。頑張って探せば、もう少し安い宿もあるかもしれない。しかし背中の痛みが辛い。そのときは肋骨が折れていることなどわからなく、単なる打ち身だと思っていた。だが、ホテルを探す気力が湧いてこないのだ。
 泊まるしかなかった。しかし1泊が限度である。このホテルがバカ高い街には、2泊などできなかった。
 いったいヤンゴンまでなにをしにきたのだろうか。
 部屋は狭かった。ベッドに横になる。背中が痛く、寝返りが打てない。
 それでも翌朝、少し痛みが和らいだような気がした。ヤンゴン駅の北側にオフィスを並べるバス会社を訪ねる。
「南下してダーウェイまで。バスはありますか?」
「ダーウェイ? 申し訳ないけど、ダーウェイまでの切符は外国人には売っちゃいけないことになってるんです。モーラミャインまでなら売れるけど」
 チャイントンを思い出した。モールミャインから南の道は、外国人が通ることができないのだろうか。
「いや、行くことができるって聞いてます。ただそこまでの切符を売れないんです」
 不安が広がる。しかし行くしかない。
 バスは1時間おきに出ていた。午後の切符を買った。せめて、シュエダゴンパゴダぐらいは見ておきたい。そうでもしないと、なんだか虚しくなってくる。
 こうしてミャンマーの最南端をめざす旅がはじまった。(以下次号)

(写真やルートはこちら)
この旅の写真やルート地図は、以下をクリック。
http://www.asahi.com/and_M/clickdeep_list.html
「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。

  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(0)

2014年06月23日

肋骨が3本折れてしまった

【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、いったんタイに戻り、再びミャンマーへ。ミャーワディからヤンゴンをめざした。
     ※       ※
 ミャーワディからヤンゴンへ向かう峠越えバスは、2時間ほど遅れていた。山道で渋滞に巻き込まれてしまったのだ。運転手は先を急いだのかもしれない。くだり坂に入り、スピードがあがった気がした。エンジンブレーキを使っていなかった。通常のブレーキだけでくだっていく。
 ひとつのカーブを越えた。急にスピードがあがった。加速が急だ。一瞬、窓から晴れ渡った空が見えた。木々がさっと通りすぎていく。さらにスピードがあがる。
 なにが起きたのか、しばらくわからなかった。その時間は2、3秒だったのだろうか。
 頭の上のほうから、女性の泣き声が聞こえてきた。首を捻るようにして頭上を見上げてみた。バスの天井のところに、女性がうずくまっていた。僕の体も横になっている。
(横転?……)
 しだいに情況がわかってきた。後ろの座席に座っていた阿部カメラマンに声をかけた。
「大丈夫?」
「下川さんも?」
 互いに生きていた。
 なにをしたらいいのかわからなかった。眼鏡を探した。脱げた靴はどこにあるのだろうか。……イモムシのように体を動かしていると、頭上から手がさしのべられた。若い男性だった。車内から出るのを手伝ってくれるらしい。彼に支えられてバスのなかを歩く。ガラスが靴の下で割れる音がする。
 バスはみごとに横転していた。運転手は腕から血を流しながら、携帯電話に向かって叫んでいる。うずくまって女性が泣いている。僕はどうしたらいいのかわからず、ただぼんやりとバスを見るしかなかった。
 しばらくすると、警察らしき男たちがやってきた。しかしなにをするわけでもない。乗客のなかに妊婦がいた。彼女だけ先に、通りかかった車に乗せて坂道をくだっていった。しかしほかの乗客は、ただ日陰に腰をおろすしかなかった。誰も声をかけてくれない。それどころではなかったのだろう。
 1台のバスが停まった。空席があるようだった。それに乗って山をくだるようだった。
 歩きはじめようとすると、「フォーリナー(外国人)?」と声をかけられた。乗り合い乗用車の運転手だった。そこに空きがあるようで、僕らはちょっとだけ特別の待遇になった。
 病院へ行くのだろうか……。
 ミャンマーではそんなことはなかった。山をくだったパアンの街には、1台のバスが待っていた。横転したバスの乗客たちは、次々にバスに集まってきた。それから1時間ぐらいたっただろうか。バスはなにごともなかったかのように発車した。
 ただそれだけだった。
 ヤンゴンに着いたのは、深夜の12時近かった。背中の痛みを感じはじめたのはその日の夜からだった。
 肋骨が3本折れていた。
 それを知るのは、5日後のことだったが。
 (以下次号)

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2014年06月16日

峠越えの道は大渋滞。これも想定内?

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 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、再びタイのバンコクでミャンマーのビザをとり、ミャーワディに入った。
     ※       ※
 ミャンマーのミャーワディからヤンゴンへの道は、1日おきの一方通行だった。僕らがミャーワディに入ったのは奇数日だった。つまりヤンゴン方面にバスや車が進むことができるのは、偶数日ということになる。
 一方通行区間は、正確にいうと、峠を越えたパアンの街までだった。そこからは道が広くなり、毎日、バスが運行していた。
 ミャーワディのメイン通り沿って、いくつかのバス会社があった。どこもバスと小型車の予約を受け付けていた。
 バスはパアン行きが多かった。ヤンゴンに行く人は、パアンでバスを乗り換えるようだった。それでもよかったのだが、その日のうちにヤンゴンまで行くことができる保証はなかった。何軒か聞き歩き、やっとヤンゴンまで行くバスをみつけた。ヤンゴン着は夜の11時頃になるようだった。
 運賃は1万5000チャットだった。外国人はそこに手続き料が加算されて、1万8500チャットになる。日本円にすると、2000円ほどである。パスポートを渡し、そのコピーをとっていた。
 翌朝の8時30分。バスは予定通り、ミャーワディを出発した。ボディに『JR』の文字がしっかりと残された中古バスだった。
 30分ほどで市内を抜け、山道に入っていった。たしかに車1台がやっとという狭い峠越えの道だった。未舗装路でもある。雨季に入り、ぬかるんだら怖い道かもしれない。
 10時頃だったろうか。バスは坂道の途中で停まってしまった。少し登ったが、また停まり……といったことを繰り返し、完全に停まってしまった。運転手はバスを降り、前のほうまで見に行った。僕らもその後をついていってみた。
 1台のトラックが、道の中央に停まっていた。故障だった。ミャンマーの車は中古車だらけだ。当然、故障の頻度も高くなる。
「あのトラックを道の端に寄せれば、通れるだろうか」
 そんなことを考えながらバスに戻った。
 どこからともなく、バケツに冷えたペットボトルを入れた物売りが現れた。菓子や豆も売りにきた。
 まるで事故を知っていたかのような早さだった。故障車が出て、渋滞が起きるのは、想定内ということだろうか。
 脇をふたりの客を乗せたバイクが次々に追い抜いていった。人のほかに、荷物を山のように積んだバイクもある。峠の上から降りてくるバイクもある。どうもバイクは一方通行が関係ないようだった。
「僕らもバイクっていう手があったか」
「たぶん、外国人は乗れませんよ」
 バスは相変わらず動かなかった。
 エンジンがかかったのは昼頃だった。ここで2時間遅れたことになる。
 それが1時間後の事故の伏線になってしまった。(以下次号)

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2014年06月11日

ミャーワディで再び足止めの1日

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 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、再びタイのバンコクでミャンマーのビザをとり、メーソトに向かった。
     ※       ※
 タイ側のメーソトからミャンマーのミャーワディに入った。国境はモエイ川。そこに架かる橋を渡ったのは朝の7時頃だった。
 橋の袂にあるイミグレーションの椅子に座った。人のよさそうな職員だった。
「ヤンゴンまで?」
「ええ」
「明日ですね。今日はヤンゴン方面行きの車が走らない日です」
「はッ?」
 1日おきの一方通行があるという話は聞いていた。そこがどの区間なのか確かめもせずにミャーワディまで来てしまった。ここから先の道だったのだ。ミャーワディからパアンという街までは、峠越えの狭い道しかないのだという。
 力が抜けてしまった。チャイントンでその先の道を阻まれ、急いでビザをとり直してここまで来たのに、また足止めである。
 ミャンマーは思うようにいかない国だ。
 しかたなかった。ここで1泊するしかなかった。
 ミャーワディはそれほど大きな街ではなかった。2、3時間もあれば、街を一周できそうだった。
 モエイ川沿いの土手に向かい、対岸のタイを眺める。この国境にはじめてきたのは、そう、20年も前だろうか。当時、外国人は、タイからミャンマーまでは渡ることができなかった。中洲までが限界だった。しかし小舟は行き来していた。積荷のなかには、味の素もあった。ミャンマーに渡ったタイ産の味の素は、男たちが担ぎ、山を越えていった。この道は、『味の素ルート』とも呼ばれていた。
 そうこうしているうちに橋が架かった。しかし橋の中央に壁がつくられ、行き来はできなかった。それからが長かった。10年ぐらいはそのままの状態が続いた。カレン族の反政府軍とミャンマー軍が拮抗していたのだ。しかしやがてミャンマー軍はミャーワディを制圧し、外国人も橋を渡ることができるようになった。
 しかし国境から3キロまでだった。街が終わるところまでだったのだ。ミャンマーではまだ軍事政権が続いていた。
 ミャーワディからヤンゴンまでの陸路が開放されたのは、民主化の動きのなかでのことだった。しかしいくら開放しても、山越えの道が広くなるわけではない。
 しかしやっとここまで来たのだ。街の人たちは浮き足立っていた。中央の道には、両替商の机がずらりと並び、ミャンマーの札束が積み上げられている。タイで働いて稼いだ金をここで両替し、ヤンゴンに帰るらしい。ミャーワディはいま、そんな役割を担う街になっていたのだ。(以下次号)

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2014年06月02日

降り出しのバンコク。そしてミャンマー

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 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ルアンパバーン、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先を阻まれてしまう。
     ※       ※
 ミャンマーのチャイントンから先に行けない以上、タイに戻るしかなった。翌日のバスでタチレク、そしてタイに入国した。
 ミャンマーに入国するポイントは、残り3つしかなかった。ヤンゴンに向かうには、メーソトからミャーワディに入るルートが近かった。
 しかしビザの問題があった。ミャンマーは通常、複数回、入国できるビザを発行してくれない。そのつど、ビザをとらなくてはならないのだ。チェントンへ行くのにビザを使ってしまった。ビザをとり直すしかなかった。
 バンコクへ戻るしかなかった。
 この旅はバンコクからスタートした。ぐるっとひと筆書きのように、マイナーな国境を通過して、東南アジアをまわる計画で旅がはじまった。バンコクに行くということは、そのスタートに戻ってしまうことになる。
 しかしその方法しかなかった。メーサイからバンコク行きの夜行バスに乗る。翌朝、バンコクの北ターミナルであるモチットに着いた。カンボジアに向けてバスに乗ったターミナルである。
 少々早かったが、その足でミャンマー大使館に向かった。
 バンコクのミャンマー大使館は、僕らのような旅行者にはありがたかった。日本では通常、1週間近くかかってしまうビザが、ここなら翌日、書類をそろえれば同日発給が可能だった。
 無事、ミャンマーのビザがとれた。メーソト行きの夜行バスに乗る。
 乗客の大半はミャンマー人だった。バンコクで働いている人たちだった。それがわかったのは、メーサイに近づくにつれ、何回も行われたパスポートチェックだった。
 ラオスから入国したときは、ラオス人を厳しくチェックしていた。こちらの国境はミャンマー人である。僕らはチェックを免除されぽつんとバスのなかで待たされる。
 バンコクで働くミャンマー人は多い。
 朝食を買いに出たとき、頬にタナカを塗ったミャンマー人が数十人、歩道の上で待っている姿を見たことがある。やがてトラックがやってきて、皆、その荷台に乗っていった。どこかの工事現場で働いているようだった。バンコクの3K職種は、周辺国の労働者で支えられているのだ。
 ミャンマー人が帰国する。鞄のなかには、働いて貯めた金が入っているのだろう。
 ラオス、タイ北部、ミャンマーのチェントンは涼しかった。寒いぐらいだった。バンコクで気温は一気に上昇したが、早朝、メーソトに着くと、再び、気温が10度ほどさがっていた。ソーンテオに乗って国境に向かった。吹き込む風に、襟許を抑える。
 前方に国境を流れるモエイ川に架かる橋が見えてきた。あの橋を越えれば、再びミャンマーである。(以下次号)

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