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ナムジャイブログ

2024年09月16日

バンコクは魔界だろうか

 バンコクにいる。「歩くバンコク」の編集が大詰めである。今回から動画を掲載することにした。誌面に動画のQRコードを掲載し、読者はそこにスマホをあてると、バンコクの動画を観れる仕組みだ。切符の買い方、店内の様子、ボートから眺めるバンコクの風景などが動画で再現される。
 ガイドブックにしたら、画期的な試みではないかと思っている。20年以上、紙で発行されるガイドブックは、ネット情報に席巻されつづけてきた。売り上げは低迷し、やがて消えていくのではないかと思っていた。しかしネット文化の発展が、紙媒体のガイドブックに光をあててくれはじめたようにも思う。いや、それほどでもないか。
 作家や編集者は、本を発行するたびに、今回は売れるのではないか、といつも期待を抱く。裏切られることに慣れてしまったが、僕はいまだ本を書き、ガイドブックの編集に携わっている。次の本はきっと売れる……。なんという極楽とんぼだろうか。
「歩くバンコク」で、その思いを共有してくれた編集者がいた。Fさんだ。彼はかつてDACOというフリーペーパーの編集者だった。僕は「歩くバンコク」の編集をDACOに依頼し、その窓口に立ってくれたのがFさんだった。
 彼がいた頃、僕はずいぶん楽をさせてもらった。彼がすべてを手配し、ページを組み立ててくれた。「ゲラが出ました」という彼の言葉を聞いて、僕はチェックのためにバンコクに向かうだけでよかった。
 はじめの頃はよく売れた。しかしネット情報に押され、売りあげは年を追って落ちていった。Fさんと一緒に、さまざまなアイデアを練った。彼とは編集者の意識を共有していた。しかし彼の精神は変調しはじめる。その後、DACOから離れたが、「歩くバンコク」の編集はつづけてくれた。打ち合わせで、彼のアパートがあったランナム通りのカフェに向かう。朝10時。彼の息はすでに酒臭かった。酒で心の均衡を保っていたのだろうか。
 やがて彼は帰国する。実家に戻ったが、思うような仕事がなく、東京に出る、と伝えてきた。それから半年……。
 彼の訃報が届いた。彼は東京にいた。体調を壊し、病院に担ぎ込まれたという。
 その後、世界をコロナ禍が襲う。その嵐の終わりが見えはじめた頃、僕はバンコクにきた。休刊状態だった「歩くバンコク」が再開されることになった。その下準備だった。そこでYさんという女性編集者に会った。僕はFさんの後任を探していた。その打診は明確な返事を得られず、再度、打ち合わせになったが、それから2ヵ月後、Yさんが姿を消してしまった。なにかつらいことがあったのだろうか。彼女は日本に帰ったと思っていた。今回、バンコクにきて、Yさんの訃報に接した。彼女は日本に帰ってはいなかった。ずっとバンコクにいた。死因は循環器と呼吸器不全。病院に搬送され、バンコクで息を引きとった。今年の6月のことだったという。
 Yさんの顔がFさんとだぶった。ふたりともバンコクが好きだった。そして10年以上暮らした。バンコクとはなんなのだろうかとひとり呟いた。魔界にも映る。単なる偶然とも思えないのだ。バンコクに50年もかかわった僕はただ黙るしかない。
 後任の編集者はいまだみつからない。ゲラの細かい文字と日々格闘している。もっと強い老眼鏡に替えなければ……。深夜、ゲラからふと顔をあげ、そんなことを呟いている。

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Posted by 下川裕治 at 10:20│Comments(0)
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