2024年04月29日
貧しくなった日本人の生きる道
「もう限界なんじゃないかな」
今年の1月、日本にいるバングラデシュ人にいわれた言葉が突き刺さっている。
1ドルが158円台にもなる激しい円安のなかでクラウドファンディングをはじめた。
https://camp-fire.jp/projects/view/750052
僕が運営にかかわっているバングラデシュの小学校の緊急支援である。昨年末、学校が盗難に遭い、電気系統や天井の扇風機が盗まれてしまった。すでにバングラデシュは暑くなっている。早く扇風機ぐらいは……という思いのなかでの緊急クラウドファンディングである。
この小学校とのかかわりは34年前に遡る。親しいフリーランスのライターがバングラデシュで死んだ。熱帯性マラリアだった。彼は民主化運動への弾圧から逃れてバングラデシュに逃げ込んだミャンマーの学生の取材中にマラリアに罹った。彼はバングラデシュへの援助とは無縁だったが、死後、周囲の友人たちから寄付が集まりはじめた。貧しいバングラデシュ人を助けたい……その額はあっという間に300万円を超えた。その資金を手に僕はバングラデシュに向かった。学校運営はそこからはじまった。
日本人支援者の声は熱かった。
「援助はするけど、そのなかでどうやって自主性の意識を植えつけるかが鍵だよ」
「日本だって戦後の貧しいなかからいまの教育体制を築いたんだ。それをバングラデシュにどう伝えるか、だな」
皆、真剣だった。そこにあったのは、アジアのトップグループを走る経済力への自負だったのだろうか。日本の教育レベルを貧しい国とシェアしていこうとする精神だったのだろうか。僕はそれを聞きながら、現地でうまく伝えることができるかどうかと悩んでいたが。
それからが紆余曲折。本当にいろんなことがあった。月4500タカでスタートした先生たちの給料も9000タカまで増やしていった。
そのなかでバングラデシュは高度経済成長の波に乗りはじめる。しかし日本は不況の泥沼にはまっていく。方向の違うベクトルが、学校運営の上で交差する。
バングラデシュの物価は急激にあがった。そして給料もあがる。公立小学校の先生の給料も年を追ってあがり、昨年、また一気にあがって3万タカになった。僕らが運営する私立学校の給与の3倍以上になってしまった。
10年前ぐらいから、バングラデシュに行くたびに切ない思いを味わっていた。支援者は高齢化し、日本の景気は後退し、円は以前に比べれば半分ほど価値しかない。僕が提示する金額に、先生たちは言葉にこそしないが、「これだけなの?」と心のなかで思っていることは痛いほどわかった。
「もう限界かもしれない」
長く生きていると、幕引きの役割も受けなくてはいけないのか。34年間、よく頑張りました……。そう自分にいい聞かせて。
昨年から悩みつづけていた。あるときふと思った。僕らの援助は資金だけの世界だったのか。もっと良質な援助を標ぼうしていたのではないか。それを貧しくなったからといって断ち切っていいのだろうか。日本が豊かだったから援助をしたのだと思われたくなかった。意識は資金ではなく、別のところにあった。これからも僕らの援助額は相対的に細くなっていく可能性が高い。
しかし伝えなくてはならないものはある。その覚悟……。それは良質な援助をめざした日本人の意地でもある。
■YouTube「下川裕治のアジアチャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCgFhlkMPLhuTJHjpgudQphg
面白そうだったらチャンネル登録を。
■ツイッターは@Shimokawa_Yuji
今年の1月、日本にいるバングラデシュ人にいわれた言葉が突き刺さっている。
1ドルが158円台にもなる激しい円安のなかでクラウドファンディングをはじめた。
https://camp-fire.jp/projects/view/750052
僕が運営にかかわっているバングラデシュの小学校の緊急支援である。昨年末、学校が盗難に遭い、電気系統や天井の扇風機が盗まれてしまった。すでにバングラデシュは暑くなっている。早く扇風機ぐらいは……という思いのなかでの緊急クラウドファンディングである。
この小学校とのかかわりは34年前に遡る。親しいフリーランスのライターがバングラデシュで死んだ。熱帯性マラリアだった。彼は民主化運動への弾圧から逃れてバングラデシュに逃げ込んだミャンマーの学生の取材中にマラリアに罹った。彼はバングラデシュへの援助とは無縁だったが、死後、周囲の友人たちから寄付が集まりはじめた。貧しいバングラデシュ人を助けたい……その額はあっという間に300万円を超えた。その資金を手に僕はバングラデシュに向かった。学校運営はそこからはじまった。
日本人支援者の声は熱かった。
「援助はするけど、そのなかでどうやって自主性の意識を植えつけるかが鍵だよ」
「日本だって戦後の貧しいなかからいまの教育体制を築いたんだ。それをバングラデシュにどう伝えるか、だな」
皆、真剣だった。そこにあったのは、アジアのトップグループを走る経済力への自負だったのだろうか。日本の教育レベルを貧しい国とシェアしていこうとする精神だったのだろうか。僕はそれを聞きながら、現地でうまく伝えることができるかどうかと悩んでいたが。
それからが紆余曲折。本当にいろんなことがあった。月4500タカでスタートした先生たちの給料も9000タカまで増やしていった。
そのなかでバングラデシュは高度経済成長の波に乗りはじめる。しかし日本は不況の泥沼にはまっていく。方向の違うベクトルが、学校運営の上で交差する。
バングラデシュの物価は急激にあがった。そして給料もあがる。公立小学校の先生の給料も年を追ってあがり、昨年、また一気にあがって3万タカになった。僕らが運営する私立学校の給与の3倍以上になってしまった。
10年前ぐらいから、バングラデシュに行くたびに切ない思いを味わっていた。支援者は高齢化し、日本の景気は後退し、円は以前に比べれば半分ほど価値しかない。僕が提示する金額に、先生たちは言葉にこそしないが、「これだけなの?」と心のなかで思っていることは痛いほどわかった。
「もう限界かもしれない」
長く生きていると、幕引きの役割も受けなくてはいけないのか。34年間、よく頑張りました……。そう自分にいい聞かせて。
昨年から悩みつづけていた。あるときふと思った。僕らの援助は資金だけの世界だったのか。もっと良質な援助を標ぼうしていたのではないか。それを貧しくなったからといって断ち切っていいのだろうか。日本が豊かだったから援助をしたのだと思われたくなかった。意識は資金ではなく、別のところにあった。これからも僕らの援助額は相対的に細くなっていく可能性が高い。
しかし伝えなくてはならないものはある。その覚悟……。それは良質な援助をめざした日本人の意地でもある。
■YouTube「下川裕治のアジアチャンネル」
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Posted by 下川裕治 at 12:11│Comments(0)
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