2025年04月28日
花の季節の怖さというもの
東京が花の季節を迎えた。自宅近くの公園や区役所の生垣は、白やピンクのツツジの花で埋まっている。東京の花の季節のはじまりはウメだが、その花房は控えめで、やはりサクラが花の季節の先陣を切る感覚はある。
東京のサクラが満開になる時期に海外にいたので、今年の花見はなかったが。
日本のサクラの大多数を占めるソメイヨシノは、すべてクローンであることはよく知られている。その原木探しはいまもつづいているというが、1本のソメイヨシノが接ぎ木で広まっていった。つまり日本のソメイヨシノは、すべて同じ遺伝子配合になっている。
日本のソメイヨシノは、韓国や台湾、アメリカなどで花をつけている。それらもすべてクローンである。
その事実を考えると、なにか怖ろしさを覚えてしまう。なぜソメイヨシノはそうなったかといえば、自家不和合性という縛りを受けているからだ。
自家不和合性というのは、花は咲くが、その花のおしべの花粉はめしべに受粉しないことをいう。受容体のからくりで拒否されてしまう。
もしソメイヨシノが自家和合性をもっていたら、同じ木で受粉できるから、どんどん増えていく。しかし受粉できないから、原木の枝を接ぎ木していくしかない。
自家不和合性はソメイヨシノがもつ遺伝的な脆弱性のように映るかもしれないが、むしろ逆である。同じ遺伝子をもった植物だけが増えることは病害虫に弱く、さまざまな外からの環境変化にも脆い。一斉に枯れてしまう可能性もある。植物はこの自家不和合性を得たことで種を増やすことができた。地球上の植物の約半数が自家不和合性を獲得しているといわれる。いま生垣で咲き誇るツツジも自家不和合性の植物である。
同じ植物だけの並木や群落というものは、ある意味不自然なのだ。人の手が入らないと実現しない。ソメイヨシノに埋まった公園というものはきわめて人工的な景観なのだ。
しかし人間が求める美しさというものは、植物が生き延びるために獲得した能力と逆行するものらしい。同じ種類の植物に埋め尽くされた世界を美しいと感じる。一面のラベンダー、寺の境内を埋めるアジサイ……。もっともアジサイは花びらに見える部分はがくなのだが。
逆に考えれば、人の手が入らなければ、美しい植物の景観は生まれない。絶景といわれるものは、植物に限れば、その多くが人工物なのだ。本来の自然の姿は「まばら」なもののだ。しかしそれは美しいとはいわれない。
たとえば紅葉にしても、同じ木々が一斉に同じ色に染まると絶景になる。しかし実際の山々の紅葉はまばらだから、人間の評価の対象にあがってこない。
人はなぜ、同じ色に埋めるされたものを美しいと感じるのだろうか。むしろテーマはそこに移したほうがいいような気もする。
同じ色に染まった世界……たとえば兵隊が同じ制服を着て、一糸乱れぬ行進をする光景を美しいと感じるか、怖さを抱くか。その発想につなげていってしまうと、話はより深刻になっていってしまうが。
しかし人の感性のなかには、同じ花で埋まった世界に怖さを感じとる部分もある。ソメイヨシノの美しさに秘められた怖さという部分である。なにか最近、人はその感覚を封印しつつあるような気もしてしまう。
■YouTube「下川裕治のアジアチャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCgFhlkMPLhuTJHjpgudQphg
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■ツイッターは@Shimokawa_Yuji
東京のサクラが満開になる時期に海外にいたので、今年の花見はなかったが。
日本のサクラの大多数を占めるソメイヨシノは、すべてクローンであることはよく知られている。その原木探しはいまもつづいているというが、1本のソメイヨシノが接ぎ木で広まっていった。つまり日本のソメイヨシノは、すべて同じ遺伝子配合になっている。
日本のソメイヨシノは、韓国や台湾、アメリカなどで花をつけている。それらもすべてクローンである。
その事実を考えると、なにか怖ろしさを覚えてしまう。なぜソメイヨシノはそうなったかといえば、自家不和合性という縛りを受けているからだ。
自家不和合性というのは、花は咲くが、その花のおしべの花粉はめしべに受粉しないことをいう。受容体のからくりで拒否されてしまう。
もしソメイヨシノが自家和合性をもっていたら、同じ木で受粉できるから、どんどん増えていく。しかし受粉できないから、原木の枝を接ぎ木していくしかない。
自家不和合性はソメイヨシノがもつ遺伝的な脆弱性のように映るかもしれないが、むしろ逆である。同じ遺伝子をもった植物だけが増えることは病害虫に弱く、さまざまな外からの環境変化にも脆い。一斉に枯れてしまう可能性もある。植物はこの自家不和合性を得たことで種を増やすことができた。地球上の植物の約半数が自家不和合性を獲得しているといわれる。いま生垣で咲き誇るツツジも自家不和合性の植物である。
同じ植物だけの並木や群落というものは、ある意味不自然なのだ。人の手が入らないと実現しない。ソメイヨシノに埋まった公園というものはきわめて人工的な景観なのだ。
しかし人間が求める美しさというものは、植物が生き延びるために獲得した能力と逆行するものらしい。同じ種類の植物に埋め尽くされた世界を美しいと感じる。一面のラベンダー、寺の境内を埋めるアジサイ……。もっともアジサイは花びらに見える部分はがくなのだが。
逆に考えれば、人の手が入らなければ、美しい植物の景観は生まれない。絶景といわれるものは、植物に限れば、その多くが人工物なのだ。本来の自然の姿は「まばら」なもののだ。しかしそれは美しいとはいわれない。
たとえば紅葉にしても、同じ木々が一斉に同じ色に染まると絶景になる。しかし実際の山々の紅葉はまばらだから、人間の評価の対象にあがってこない。
人はなぜ、同じ色に埋めるされたものを美しいと感じるのだろうか。むしろテーマはそこに移したほうがいいような気もする。
同じ色に染まった世界……たとえば兵隊が同じ制服を着て、一糸乱れぬ行進をする光景を美しいと感じるか、怖さを抱くか。その発想につなげていってしまうと、話はより深刻になっていってしまうが。
しかし人の感性のなかには、同じ花で埋まった世界に怖さを感じとる部分もある。ソメイヨシノの美しさに秘められた怖さという部分である。なにか最近、人はその感覚を封印しつつあるような気もしてしまう。
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Posted by 下川裕治 at 11:27│Comments(0)
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