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ナムジャイブログ

2025年01月27日

「息ができない」ということ

「息ができなくなっちゃったんだよ」
 あの頃、そう、僕が足繁く沖縄に通っていた頃、よく耳にした言葉だった。話すのは50歳代や60歳代の沖縄出身者だった。多くが沖縄の三線の演奏にかかわっていた。
 話は三線との出合いだった。彼らは集団就職や出稼ぎのような形で沖縄から東京に出てきた。仕事はさまざまだったが、ただ働くだけの日々だった。そのうちに息ができなくなってくる。そんなとき、沖縄の実家にあった三線を送ってもらう。なかには買った人もいた。それを弾いているうちに、息ができるようになった、という筋書だった。
 いったい誰が最初にこの話をしたのかはわからない。それぞれの思いはあったと思う。しかし彼らの琴線に、「息ができなくなる」というフレーズが触れたのだろう。どこか流行りのフレーズのように広まっていった。
 話を聞いていたのは、僕のように、沖縄が気に入り、多いときで月に2回は那覇や宮古島の居酒屋にいるようなタイプだった。
「息ができなくなった」と口にしたひとりに金城吉春という男がいた。彼は中野で「あしびなー」という沖縄料理屋を営みながら、エイサーのチームをつくっていた。メンバーは沖縄民謡好きと同時に、金城吉春のファンだった。
 彼らが皆、「息ができなくなった」話を聞いた。
 しかしそこにはひとつの誤解があったような気がする。「息ができなくなった」話を耳にした人たちは、それを東京という街で生きるつらさや、味気なさに置き換えた。つまり自分の生活に重ねた。ステレオタイプの発想だったのだ。
 しかし金城吉春の思いは違うところにあった気がする。「息ができなくなった」話を便宜的にしただけで、彼の思いは育った沖縄だった。彼は沖縄を離れると、それが緑豊かな自然のなかでも息ができなくなったはずだ。
 それは言葉ではないかと思うことがある。彼らが東京に出てきたときは、まだパスポートが必要だった。東京で耳にする言葉は外国語のように聞こえたはずだ。自然と無口になる。しかし三線を弾きながら口にする言葉は沖縄だった。
 金城吉春と話していて、そう思うことは何回かあった。彼は日本語が苦手だった。相槌は打つが、自分の思いをうまく日本語にできないようなところがあった。
 その後、沖縄ブームが起きる。僕はそのなかで『沖縄オバァ烈伝』という本の制作にかかわる。ライターの多くは、沖縄生まれの20代、30代の若者だった。彼らは日本語がうまくないオバァのすごさや面白さを日本語で綴った。僕の役割は、その日本語を整えることだった。原稿を見ながら思ったものだった。彼らは沖縄を客観視できる世代なのだと。
 ブームというものは、核になる世界と、それを伝える存在がなければ成立しない。核には金城吉春が抱えていた沖縄があった。沖縄新世代がそれを翻訳する立場を担った。そんな新世代は、仮に東京にきても、息はできたと思う。標準語へのストレスは少なかった。その分、彼らの沖縄は薄くなっていたが。
 しかし金城吉春の世代は違った。言葉は怪しいが、体から沖縄を発散していた。彼のファンはそこに魅了されていたように思う。それは誤解が生んだ心地のいい世界だった。
 金城吉春が亡くなってから3年半になる。奥さんと娘さんらが本格的に店を再開するという。そのためのクラウドファンディングの連絡が届いた。
https://readyfor.jp/projects/ashibina960701
 あの心地のいい空間が戻ってくる。


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Posted by 下川裕治 at 14:06Comments(2)

2025年01月21日

海も見えない江ノ電

 週末、タイ人3人組が東京にやってきた。その案内役ということになった。希望は鎌倉の大仏と箱根。それを聞き、1日でまわれるような気がした。
 朝の9時に彼らが泊まっているホテルで待ち合わせた。まず鎌倉の大仏を見て、江ノ電で藤沢に出、そこから小田原。箱根登山鉄道から箱根登山ケーブルカーと乗り継いで大涌谷まで行くつもりだった。
 朝は晴れていたが、天気予報では午後に雨マークが出ていた。
 箱根といえば富士山の眺めである。「早く大涌谷まで行ったほうがいいかもしれない」
と予定を変え、先に箱根に向かった。
 それほど混んではいなかった。登山鉄道やケーブルカーをさくさくと乗り継いで早雲山まで着いた。しかし最後の大涌谷までのロープーウエイが定期点検でバスの代行輸送になっていた。このバスが渋滞。大涌谷に着いたときは昼をまわってしまった。
 あいにくの曇り空。富士山は見えない。これは早めにくだったほうが……と思ったが、タイ人たちは大涌谷が妙に気に入って、噴煙をバックにポーズをとる。寿命がのびるという黒たまごもはずせない。……そうこうしているうちに2時間がすぎてしまった。
 鎌倉の大仏がある高徳院の拝観時間を見ると、午後4時45分までだった。
「ひょっとしたら大仏は間に合わないかもしれない」
 彼らに伝えると、あっさりと「大丈夫」という声が返ってきた。はじめて見る火山というものに、皆、ちょっと興奮していた。
 急いで向かったが、藤沢に着いたのは午後5時。もう、暗くなりかけている。彼らは現金で切符を買うから時間もかかる。江ノ電に乗ったときはすっかり日も暮れてしまった。海も見えない江ノ電。もちろん鎌倉の大仏の拝観時間も終わっている。
 日の短さを実感した。「申し訳ない」と思いながら、鎌倉に向かう江ノ電に揺られた。
 もし鎌倉と箱根を1日でこなそうと思ったら、朝の7時には東京のホテルを出発しないといけない。しかし1月の東京はかなり寒いのだ。タイ人には少しつらい寒さのように思う。夏ならなんの問題もない。朝早く出ることも大変ではないし、日が長いから江ノ電から海を見ることもできただろう。
 以前、松尾芭蕉の「おくのほそ道」を辿る旅を本にまとめたことがあった。事前にさまざまな芭蕉や「おくのほそ道」に関する本を読んだ。歩く速さにも舌を巻いたが、1日に歩いた距離も長かった。江戸時代だから街灯もない。「今日はペースが遅かったら、夜も歩こう」などといった記述もないし、持ち物を見ても、夜に歩くことは想定していない。当時の東北の道はオオカミもいたようで、治安もいいわけではない。日が暮れる前に宿に着く日程を組んでいる。
 しかし季節は選んでいる。5月中旬に江戸を出発し、9月の末に大垣に着いている。日が長い時期を選んでいた。
 なぜこの時期にしたのか、といった記述はないが、当時、長い旅に出るのは日が長い時期といった常識があったのかもしれない。
 旅の効率といった視点で眺めると、日が長い時期は距離を稼ぐことができる。冬だから箱根と鎌倉は一気にまわれないが、夏なら可能なのだ。しかしそのあたりは旅行業界も織り込みずみで、タイ人がきたのも、航空券が安かったからだ。しかし冬の日本旅は効率が悪い。暗くなってからの観光……冬の日本旅の案内役の課題ということか。

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Posted by 下川裕治 at 11:28Comments(0)

2025年01月13日

大雪警報の列車旅

 冬の日本のわかりやすい天候のなかを旅してきた。ルールが変わった「青春18きっぷ」を使ってみるという目的もあったが。
 わかりやすい天気といっても、旅がスムーズに進むというわけではない。わかりやすさにはトラブルも含まれている。
 東京を早朝に発ち、会津若松から只見線に入った。会津坂下駅に列車が停まると、車内放送が流れた。
「この列車は小出行きですが、会津川口から先が豪雪のため、会津川口から引き返す可能性があるという連絡が入りました」
 列車は2両連結のワンマン列車だった。しばらくすると、運転手が現れ、ひとり、ひとりに行き先を訊きはじめた。僕は会津川口の手前にある会津宮下で列車を降りるつもりでいた。そこまでは運行するので問題はなかったが、話はそう簡単ではなかった。
 会津川口から先が運休になった場合、列車は会津若松行きになって戻ってくる。しかしその時刻が読めない。時刻表はないも同然になってしまう。ということは、会津宮下で降りても、駅から離れることができなくなる。会津宮下は無人駅だから訊く人もいない。降りる意味がなくなってしまうのだ。
 反対側には会津若松に戻る列車が停まっていた。その運転手も乗り込んできて、乗客との相談がはじまった。只見線というローカル線だからできる豪雪対応だったが、乗客は判断に迷った。ひょっとしたら小出まで行くかもしれない。しかしそれを決めるのは降る雪の量だった。
 僕も悩んだ。結局、反対側で待っていた会津若松行きに乗り換えた。
 新潟県側に出るつもりでいた。会津若松駅で確認すると、朝は大雪で運休になっていた磐越西線が動いていた。ラッキーだった。長岡まで出ることができた。
 翌朝、日本海岸の直江津に出た。青空が広がっていた。路上や家々の屋根に雪もない。テレビでは新潟県には大雪警報が出ていた。
 冬の新潟ではこういうことがよく起きた。新潟県に接する福島県や長野県の県境付近には猛烈な雪が降っているというのに、海岸線は晴れているということが珍しくない。それが冬の新潟の気候でもあった。
 日本海に沿った街をいくつかめぐった。天候は不安定だった。晴れ間がのぞく穏やかな時間帯もあったが、ときに横殴りの霙が降ったりする。冬型の気圧配置のなかを低気圧が東に進んでいるときの気候だった。
 そこから長野県に抜けるつもりだった。しかし新潟県と長野県をつなぐ鉄道は軒並み運休になっていた。
 JRの運行状況は、ネットで調べる情報と違うことがときどきある。糸魚川まで行ってみたが、松本に抜ける大糸線は運休になっていた。直江津に戻って確認する。信越本線も停まっていた。雪ではなく強風がその原因だった。
 さて、どうしようか。雪が落ち着くまで新潟県側で待機するしかないのだろうか。
 しかしひとつの路線の列車が走っていた。「えちごトキめき鉄道」だった。第三セクターの鉄道会社で、直江津から妙高高原を結ぶ「妙高はねうまライン」という路線がある。
 新潟県と長野県の県境付近が豪雪地帯になる。かなり雪は積もっているだろうが、しかいその鉄道会社は、なに食わぬ顔で列車を走らせていた。
 この列車に乗るしかなかった。列車の車窓風景は、発車して20分ほどで雪景色に変わった。スイッチバックで高度があがっていくとどんどん雪が深くなっていく。50分ほど走ると、積雪は1メートルを超え、終点の妙高高原に着いた。そこからはやはり第三セクターの「しなの鉄道」に接続する。そして10分後には、南の空に青空が広がった。
 雪に翻弄される世界を抜けた。大雪警報の列車旅は、予定調和の旅でもあった。

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Posted by 下川裕治 at 10:14Comments(0)

2025年01月06日

7時間かかった初詣

 明けましておめでとうございます。
 年初のブログは、正月らしく初詣の話なのだが、これがなかなか大変だった。
 伏線がある。次に出る本のために、僕は村尾嘉陵の旅を多少なりとも辿ってみようと思っている。嘉陵は江戸時代の役人である。しかし無類の旅好きというか、暇をみつけては江戸や郊外を歩きまわった。その内容が、簡単に手に入る本では、『江戸近郊道しるべ』というタイトルで現代語に訳されて出版されている。
 その旅をなぞってみようと考えたのだ。理由は彼の年齢だった。資料によると、彼が江戸近郊をよく歩いたのは、47歳から74歳までの間だ。1831年(天保2年)は年に5回も江戸近郊の旅に出ている。71歳である。「じゃあ、僕もやってやろうじゃないか」などと拳をあげたわけではないが、ひとつのテキストにしてみようと思った。
 しかし彼が歩いた距離には腰が引けてしまった。『江戸近郊道しるべ』の冒頭にあるのが「府中道の記」である。彼の家は浜町、いまの中央区にあった。そこから府中の大國魂神社を往復している。Googleマップに地名を入れてみると、片道30キロ強の距離がある。
『江戸近郊道しるべ』を読むと、暗いうちに家を出たとあるので、午前4時か5時ぐらいには歩きはじめたのではないかと思う。そして夜の8時には家に帰っている。60キロ強の距離を12時間──。その速さにも頭がさがるが、12時間歩きつづけるという健脚ぶりなのでだ。
 江戸時代のことだから、基本は歩くしかない。だからといってなのである。それも「ちょっと大國魂神社に参拝してくるよ」といったノリで歩いている。近所の神社に手を合わせにいく感覚なのだ。
 昨年の末、僕はそのルートを少しでも辿ろうと、中央区の浜町から歩きはじめた。意外と調子よく進み、3時間ほどで新宿まで着いた。嘉陵のように大國魂神社まで歩こうなどと思ってはいなかった。新宿からは路線バスで向かうことにしていた。前号でお話ししたように、僕は東京都のシルバーパスを持っている。パスを見せるだけでバスに乗ることができる。
 しかしなかなかうまくいかなかった。まっすぐに向かうバスはないから、いくつかの路線バスを乗り継いだが、吉祥寺に着いたときに日は暮れてしまった。
 心を入れ替えることにした。
 こざかしく路線バスに頼ろうとしたのがいけないのかもしれない。途中でお手あげ状態になってしまうかもしれないが、とにかく潔く歩くべきではないか。
 そこで1月4日、残っていた新宿ー大國魂神社を歩いてみることにした。
「ちょっと大國魂神社まで初詣に行ってくるよ」といった軽いノリで行きたかったが、距離にして21キロ強の道のりである。
 嘉陵が歩いたのは甲州街道である。そこをひたすら歩くことになる。
 歩いた。ぽつぽつと街道横の歩道を進む。初台、明大前、桜上水……。脇を走るのは京王線である。ときどき目にする芦花公園駅入口、仙川駅入口といった表示を励みにただ歩いた。
 途中から膝や腰が痛くなってきた。芦花公園駅入口に着いたときは、歩きはじめて約3時間後だった。とても無理かと思っていたのだが、ひょっとしたら……という思いで、重くなってきた足をあげる。
 午後5時。大國魂神社に着いた。新宿を出たのが午前10時だったから、約7時間かかった。縁石にへたりこんでしまった。嘉陵はここから歩いて浜町まで戻っている。なんだか怪物に思えてきたが、その半分はなんとか歩いた。すっきりした気分だった。
 アジアをよく旅するようになってから、神社で手を合わせることをやめた。韓国や台湾の日本の神社跡を目にすると、神社で頭をさげることができなくなった。
 大國魂神社も眺めるだけで手を合わせなかった。それでも僕の初詣……。だいぶ時間はかかったが。

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Posted by 下川裕治 at 12:24Comments(1)