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ナムジャイブログ

2016年04月25日

那覇の街を歩き続けた

 旅というものは、その前に滞在した国の影響を強く受ける。たとえばバンコク。日本から直接、訪ねたときと、インドからの帰りに立ち寄ったときでは印象がまったく違う。旅とはそういうものだと思う。
 2日前に台北から沖縄に着いた。いまはLCCのピーチが就航している。金額的にはずいぶん楽になった。片道7000円ほどのフライトで、夜の那覇空港に着いた。
 市内に向かう道すがら、那覇の街を眺める。ゆいレールを降り、沖映通りを歩く。
 戸惑っていた。
 どうしてこんなに音がないのだろう。車が少なく、道を歩く人もまばらだ。
 前夜は台南にいた。道にはバイクや車がひいめいていた。そこからやってきた那覇は、日本の地方都市の顔を見せる。
 日本──。そうなのだ。目に入ってくる街の風景。耳に届く音。それらはどうしようもなく日本だった。那覇はこんなにも日本だったのだろうか。
 かつて、アジアからの帰りに、しばしば沖縄に寄った。直接、東京に戻ることが怖かったのだ。那覇の街で、とろとろと泡盛を飲んだ。沖縄は日本とアジアの中間だった。位置的にも中間なのだが、人々の意識も中間だった。ゆっくり流れる風。強い日射し……。それでいて日本だった。東京に帰ったら、また頭のねじをきりきりと巻いて仕事をしなくてはならない。社会復帰のためのリハビリが沖縄だった。そんな沖縄がすっかり影を潜めてしまった。
 沖縄経由で日本に帰る機会が減った。仕事に追われ、そんな余裕もなくなってきてしまったのだろうか。ここ5年ぐらいは直接に東京に帰っていた。今回、久しぶりに台湾から那覇に出て、愕然とした。那覇の日本化は足許を掬われそうになるほど進んでいた。
 いや、那覇は、日本以上に日本なのかもしれない。僕が沖縄に求めていたものは、日本が失いかけていた日本だったのだろうか。それがアジアにつながっていた。しかしいまの沖縄は、妙に発展した日本の地方都市の顔を見せる。
 どうしたらいいのだろう。
 混乱する頭で那覇の街を眺める。
 僕の那覇はどこにいったのだろう。
 東京から那覇に向かうことは多い。そんなときは、那覇の街のなかに沖縄が見つかる。しかし台湾から那覇にやってくると、怖いぐらいの日本が、浮きたってしまうのだ。
 悩んでしまった。どうしていいのかわからなくないまま那覇の街を歩いていた。

■このブログ以外の連載を紹介します。

○ユーラシア大陸最南端から北極圏の最北端駅への列車旅は、まもなく、ロシアに入国。
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○人々が通りすぎる世界の空港や駅物語。1回目はマニラ。
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○苦戦を強いられている東南アジア「完乗」の旅。いまはタイ南部をうろうろしてます。
http://tabilista.com/cat/se-asia/

○LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記は
http://tabinote.jp/
  

Posted by 下川裕治 at 14:03Comments(2)

2016年04月18日

廃線の北海道

 新幹線開通の代償? そういうことがあるのだろうか。北海道のJRである。
 今年3月末に北海道新幹線が函館まで開通した。が、4月には、深川から増毛までの留萌線のうち、留萌と増毛の間が廃線になることが発表された。
 新幹線に連動した廃線の動きは数年前からあった。2014年には江差線の一部が廃線になり、残りは第3セクターになった。この路線は新幹線と重なるから、ということなのかもしれないが、留萌線は、無縁である。噂では、札沼線や石勝線の一部が廃線になるのではといわれている。ここも北海道新幹線とは無縁の路線である。
 新幹線建設には多くの費用がかかる。融資する側がその条件に突きつけたものが、JR北海道の経営の健全化だとしたら、赤字路線が次々に消えていく可能性が高い。
 昨年、『一両列車のゆるり旅』という本を書いた。ローカル線に乗り、駅前旅館に泊まっていくという内容だった。その旅で江差線の第3セクターになった区間や留萌線に乗った。江差線の一部は廃線になっていたが、残りの区間が第3セクターになることを知ったのは、その路線に乗った後だった。
 増毛を訪ねた日は吹雪だった。増毛の駅は終着駅だというのに無人駅だった。増毛の港で寂しいカモメの鳴き声を聞いているうちに天気が崩れた。吹雪の合間を縫ってラーメン屋に入った。
「列車、大丈夫みたい」
 店のおばさんがいった。僕はてっきり、その日の列車が運休になるか、ならないかということだと思った。
「違う、違う。留萌線は廃線にならないらしいってこと」
 しかしだめだった。
 赤字を抱えたローカル線が消えていくことはしかたのないことだ。それが流れというものだろう。しかし、それに代わるものが新幹線となると、やはり首を傾げてしまう。東京から急いで函館まで行くなら飛行機を使う。仕事ならなおさらだろう。飛行機の運賃も安くなってきている。ということは、旅行客ということなのだが、日本人はそれほど新幹線の旅を好むのだろうか、と思うのだ。
 新幹線は、列車運賃の値上げの要素を多分に含んでいる気がする。そこで経営の健全化を目指すということなどだろうが、その論理設定に無理があるような気がしてならない。
 留萌線の留萌から先が廃線になるのは、今年の12月である。多くの鉄道ファンが詰めかけるはずだ。最終列車に涙するファンにはついていけない。地元の人ならわかるが、鉄道を擬人化したところで……と思ってしまうのだ。
 そんなことを考えていると、熊本県で地震が起き、豊肥線が分断されてしまった。この路線を走るローカル列車にも、『一両列車のゆるり旅』で乗っていた。この路線は廃線にならずにすむだろうか。

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Posted by 下川裕治 at 13:24Comments(1)

2016年04月11日

カレーパンはピロシキ?

 モンゴルからロシアを旅した。移動手段は列車だった。3~4日と乗り続ける列車旅は食べものに苦労する。事前に食料を買いこみ、途中駅のホームの売店で補充していくスタイルになる。
 たいした食事ではない。パン、チーズ、サラミ、ロシアのカップ麺……。そんなもの繰り返しである。途中駅で買うものも知れている。ペリメニという水餃子、ピロシキの類が多くなってしまう。
 モンゴルのウランバートルからスフバートルまで乗った列車には、車内販売があった。スーパーのカートに、食べものや飲みものを積んでやってくる。近くにいた家族連れが、ピロシキのようなものを買った。幼い子供が食べるところを見ていた。
 子供がピロシキを頬張る。なかから出てきたのは、ソーセージだった。それもヨーロッパにあるような立派なソーセージではない。限りなく魚肉ソーセージ……に見えた。
 再び、車内販売が現れたときに買ってみた。1500トゥグルグ、87円ほどだった。食べてみた。
「ん?」
 魚肉ソーセージだった。まぎれもなく。日本の魚肉ソーセージはモンゴルまで届いているのだろうか。
 魚肉ソーセージもどきは中国でも売られている。原材料には豚肉と書いてあるが、かなり怪しい代物である。中国ではカップ麺のお供のような存在で、僕もしばしば食べていた。そのソーセージを使っているのかもしれなかったが……。
 近くにいたモンゴル人に訊いてみた。
「ピロシキ」
 皆がそういった。パンに具を入れ、それを揚げたものは、どれもピロシキというらしい。ピロシキの具は、ひき肉を調理したものだと思っていたが、守備範囲は広いらしい。
 しかしそのピロシキ、まさしく、日本でいうソーセージパンだった。コンビニに並ぶ惣菜パンのなかで、ソーセージパンとハムカツサンドは、食べてはいけない双璧だと思っている。どんなソーセージやハムかわからないし、揚げているからカロリーも無駄に高い。しかし僕の好物だった。ジャンクとわかってはいるが、無性に食べたくなる。あのソーセージパンとまったく同じだった。
 とすると、カレーパンもピロシキ?
 調べてみた。はっきりしないが、カレーパンはピロシキから発案したという説はあるのだという。
 やがてモンゴルやロシアでカレーパン?
 いや、もうあるのかもしれない。

  

Posted by 下川裕治 at 15:31Comments(1)

2016年04月05日

立ち食いそばを食べたくなるとき

 しばらく前の新聞に、立ち食いそばの記事が載っていた。チェーン店化が進んでいるという内容だった。
 新聞を読むのは人の多くはシニア層だ。立ち食いそばにかかわる話は、ネット記事では目を惹かないが、新聞なら読まれるということだろうか。立ち食いそばを食べるのも、多くはシニアのような気がする。
 かくいう僕も、立ち食いそばはときどき食べる。ときに無性に食べたくなるときもある。
 しばらく前クスミティーを買わなくてはいけなくなった。フランスの紅茶である。
 この紅茶、もとはロシアのサンクトペテルブルクにあった、ロシア皇帝ご用達だった。ロシア革命の前から、ロンドンやパリに進出していたが、革命を機にパリに拠点を移した。
 サンクトペテルブルクに行くことになっていた。お茶がテーマの旅でもあった。クスミティーを持参し、サンクトペテルブルクの人々に、見てもらおうかと思った。いまのロシア人は知っているのか、どうか……。
 調べると、恵比寿のガーデンプレイスのなかにある『ラ ブティック ド ジョエル・ロブション』という店で、販売しているらしいことがわかった。知らない店だった。それどころか、恵比寿のガーデンプレイスというところへも行ったことがなかった。
 恵比寿駅で降りずいぶん歩いた。見つけるのに時間がかかった。その店は、ヨーロッパ中世の城を模したような外観だった。入口で見ると、高級そうなフランス料理店だった。
「こんなところにクスミティーが売っているのだろうか」
 店に入りクスミティーについて訊いた。黒いスーツを着た女性の店員が、1階の売店にあると丁寧に伝えてくれ、そこまで案内してくれた。フランスパンやジャムの脇に、クスミティーが置かれていた。セレブそうな中年の女性が買い物をしている。僕のような男が入り込む世界ではなかった。
 クスミティーを手に店を出た。ちょうど昼どきだった。どこかで昼食でも……とあちこち物色したが、高そうな店ばかりだった。
 唐突に、立ち食いそばが、食べたくなった。
 別に庶民派を装うつもりはない。しかしジョエル・ロブションやその周辺の店に集まっているのは、立ち食いそばなど縁がなさそうな人たちばかりだった。ジョエル・ロブションにしても、フランスというブランドを前面に出した店だった。やはり立ち食いそばとは縁がない。
 立ち食いそばは、いまや最も安いそばというわけではない。昼食に限れば、もっと安いチェーン店はある。しかしその中で、立ち食いそばが生き延びているとしたら、それは恵比寿ガーデンプレイスのようなエリアが次々にできているからではないかと思う。
 心の均衡を維持するように、人は食べ物の均衡も保とうとしている。

  

Posted by 下川裕治 at 11:11Comments(2)