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ナムジャイブログ

2014年07月28日

メルギー諸島の南下旅がはじまった

(タイトル)
メルギー諸島の南下旅がはじまった

【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、いったんタイに戻り、再びミャンマーへ。ミャーワディからヤンゴン、そこから南下しモールミャインを経て、ダウェイに。さらに最南端のコータウンをめざす。

※ ※

 ミャンマー最南端、コータウンへの船の切符が買えた。それを手渡しながら、船会社の代理店の女性はこういった。
「明朝の午前2時にこのオフィスの前にきてください」
「はッ?」
「ここからダウェイの港までバスで2時間かかるんです。無料の送迎バスで港まで」
「2時間……」
 悪路を進むバスの振動に耐えかね、僕は船を選んだはずだった。それなのに、港までバスで2時間もかかるという。悪路を走ることは間違いなかった。それにバスがやってくるのはは午前2時なのだという。またしても徹夜に近いスケジュールになる。ミャンマーという国は、どこまでいってもひと筋縄ではいかなかった。
 午前2時。仮眠をとっただけで代理店まで向かった。すでに何人かが待っていた。やがて現れた車を、溜息混じりに見あげてしまった。それはバスではなかった。大型トラック……いや、ダンプだった。
 しばらく前の東南アジアでは、この種のバス、いやダンプにときどき遭遇した。荷台に簡易椅子をとりつけたタイプが多かった。いまではすっかり姿を消してしまったが、ミャンマーのダウェイで生き延びていた。
 荷台によじのぼると、両サイドに板が長椅子のようにとりつけてあった。
「これで2時間か……」
 ミャンマーの旅を憂うしかなかった。
 やはり道はひどかった。車体は左右に大きく揺れ、小刻みな振動も続く。肋骨が折れた背中に痛みが走る。そのつど、天井に梁のように渡された支柱を握る手に力を込めた。
 4時少し前にダウェイ港に着いた。2軒の食堂が、裸電球に照らされていた。
 4時半近くに船は桟橋を離れた。すべて椅子席の高速船だった。
 船は大小200を超える島々が点在するメルギー諸島を南下していく。船は島の間を縫うように南下していくはずだった。海は穏やかそうだった。しかし暗闇のなかでは、海面や島影を確認するのも難しい。
 船内のモニターには、僧の訓話のビデオが流れていた。それを耳にしていると、一気に睡魔が襲ってくる。今日はほとんど寝ていないのだ。ミャンマーの船やバスは、そういうことをまったく気にしないスケジュールを組んでしまう。
 しばらく寝入ってしまった。
 目が覚めると、船は朝日に照らされたメルギー諸島を南へ、南へと走っていた。
(以下次号)

(写真やルートはこちら)
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「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。

  

Posted by 下川裕治 at 13:17Comments(0)

2014年07月21日

ダウェイに漂うタイのにおい

【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、いったんタイに戻り、再びミャンマーへ。ミャーワディからヤンゴン、そこから南下しモールミャインを経てダウェイに着いた。

※ ※

 バイクタクシーでダウェイ市街へ。ドライバーが連れていってくれたのは、船の切符を売る代理店のような店だった。ミャンマー最南端のコータウンまでの船は2日後に出ることがわかった。運賃は70ドル。しかし天候が悪ければ欠航になる、といわれた。
 もう1軒の代理店に行ってみた。運賃は60ドルになったが、やはり天候を口にした。
「ダウェイの空に向かって祈るしかないか」
 相変わらず背中は痛かった。寝返りを打つと痛みが走った。くしゃみも辛い。その瞬間に激痛が背中を走るのだ。くしゃみというものは、出る前にわかるから、よけいに辛い。くるぞ、くるぞ、と身を硬くして耐えるしかない。ベッドから身を起こすときも、できるだけ腕に力を込め、背中の筋肉を使わないようにしないと、痛みが背中を包んだ。
 しかしダウェイはいい街だった。街に入ったときから、「ここはミャンマーじゃない」と感じていた。街のつくりや人々の身のこなしが、明らかに違う。
 その印象を裏打ちしてくれたのが、市場の近くにある食堂のテーブルだった。ちょうど昼どきだった。その店にはメニューに英語も添えられていた。ヌードルスープを指で差すと、店員はこういったのだった。
「クイッティオ」
「……?」
 タイ語と同じだったのだ。そして出てきたそばは、タイのクイッティオだった。
 ひょっとして僕らをタイ人だと思っているのだろうか。タウェイから西に車で3時間ほど行くと、タイの国境である。そこからカンチャナブリはそう遠くない。最近はタイの資金で道路も整備され、ダウェイ郊外には工業団地もつくられているという。
 別のテーブルで食べている人に訊くと、やはりクイッティオで通じた。味もミャンマーのモヒンガという麺とは違った。若干は違うが、タイのクイッティオに近い。
 僕がこの街に入って感じとっていたのはタイのにおいのようだった。
 中国正月の元旦だった。昼間はパレードがあり、夕方からは爆竹の音が街に響いた。
 それはマラッカからペナンと続く中国文化の流れのようだった。
 ミャンマー南部は、タイと中国の文化が混ざった一帯だった。ここがミャンマーというには、なにかしっくりこないのだ。
 ダウェイに着いた翌日、船の切符を売る代理店に顔を出した。もちろん60ドルの店である。女性のスタッフが座っていた。
「明日の船は?」
「出ますよ」
 あっさりと切符が手に入ってしまった。これでミャンマーの悪路を進むバスに乗らずに最南端まで行くことができる。背中をさすりながら、運賃を払った。
 壁にはミャンマー人の運賃も表示されていた。ひとり4万チャット、約4300円。
「まあよしとするか」
 そんな気分だった。(以下次号)

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Posted by 下川裕治 at 12:40Comments(1)

2014年07月14日

「もうバスはやめようか」

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 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、いったんタイに戻り、再びミャンマーへ。ミャーワディからヤンゴン、そこから南下しモールミャインまでやってきた。

     ※       ※
「ここから南へ向かうバスには、外国人は乗れない」。バス会社の女性の言葉に、チャイントンを思い出した。しかしそこから少し離れたバス会社では、なぜかバス切符を手に入ってしまった。これは行くしかない。
 夜の10時を少しすぎた頃、1台のバスが姿を見せた。ヤンゴンからやってきたバスで、ダーウェイ行きだった。車内は半分ほど埋まっていた。途中のチェックポイントで追い返される可能性もあった。しかし、そのときはそのときだった。
 モールミャインを出発して30分もたつと、舗装が終わった。そのとたん、とんでもない揺れがバスを襲いはじめた。バスは道の上を走っているのだろうか……そんな不安を抱くような道だった。若い運転手だった。運転はうまそうなのだが、道のひどさはどうしようもない。雨季につくられた轍が、そのまま固まっているのだろうか。振動と同時に車体も大きく傾く。
 幸運なことに2座席を使うことができた。狭いが体を横にすることができる。しかし問題は背中の痛みだった。バス事故に遭った。そこで肋骨が折れていたのだが、それを知らない僕はただ痛みに耐えるしかない。悪路の振動が、ずきん、ずきんと背中に響く。
 車内の冷房はきつかった。それもいけなかった。背中の痛みを増しているような気になった。とても眠れない。窓から外を見るのだが、家の灯りがひとつもない。漆黒の世界だった。前方だけが、バスのライトが道を照らしている。
 午前2時に休憩になった。
「すごい揺れだよな。いったいどういう道なんだろう。これじゃ、眠れないよなぁ」
 背中をさすりながら、阿部カメラマンに話しかける。近くで若い女性が吐いていた。この揺れにやられてしまったのだろう。
 まんじりともしない夜が続いた。それでも明け方、ちょっと眠ったらしい。気がつくとダーウェイの街にバスは入っていた。
 検問は1回もなかった。なぜ、外国人はバスに乗ることができない、といわれたのだろうか。治安の問題なら、しつこいぐらいにチェックポイントをつくってもいいはずだ。
 わからなかった。
 しかしなんとかダーウェイに着いた。
 空気が変わった気がした。バスターミナルにいる男たちの表情が柔らかい。ひとりが英語を喋った。
「ここから南?」
「バスも船もある」
「船?」
 船は揺れないかもしれなかった。いくら波に揺れても、背中に響くあの振動はないはずだった。ダーウェイから先の道は、もっとひどくなるかもしれない。
「もうバスはやめようか」
 朝日を眺めながら呟いていた。
(以下次号)

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Posted by 下川裕治 at 12:28Comments(0)

2014年07月07日

またしてもバスに乗るとこができない?

【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、いったんタイに戻り、再びミャンマーへ。ミャーワディからヤンゴンに到着した。
     ※       ※
 ヤンゴンから南下の旅がはじまった。モールミャインまではバスが頻繁に出ていた。モールミャインにはタイからの飛行機も乗り入れている。つまりここまでが、なんの問題もなく訪ねることができるミャンマーだった。
 バスは午後3時にヤンゴンを出発した。道は舗装され、快適である。背中の痛みは相変わらずだったが、振動が少なく、それほど気にはならなかった。日が暮れ、バスは海と山に挟まれたわずかな平地を進んでいった。左手には山の斜面になっていたが、そこに石段がつくられ、山の頂に寺院が見えた。山の斜面全体が仏教寺院のようにも映る。パガンのパゴダ群もみごとだが、この斜面寺院も相当なものである。やがて、大きな橋を越え、モールミャンの街に着いた。夜の9時だった。
 ダーウェイまでのバスは、別のターミナルから出発するという。バイクタクシーに乗って向かうと、一軒のバス会社のオフィスの前で停まった。
 小屋がけの粗末なオフィスだった。土の床の上に木製のテーブル、そして裸電球。机にはひとりの女性が座っていた。
「ダーウェイまでの切符を……」
「外国人はダーウェイまでの切符を売ることはできません」
「いや、大丈夫だとヤンゴンでいわれてここまで来たんです」
「でも、売ることはできないんです」
「ヤンゴンでは……」
 チャイントンのバスターミナルを思い出した。そこでも僕らはバスに乗ることができなかったのだが、雰囲気は微妙に違った。チャイントンは、とりつくしまもない感じだったが、ここはなんとかなりそうな気もした。
 しかし女性の職員は、「ダメ」という一点張りだった。しばらくの沈黙があった。彼女は僕らを乗せてきたバイクタクシーの運転手になにやら伝えた。彼が僕の荷物を持った。「バイクに乗れ」という。
 バイクはすぐ近くにあった別のバス会社の前に着いた。やはり小屋だった。若い女性が座っていた。
「ダーウェイまで行きたいんですが」
「夜の10時のバスと午前4時のバスがありますが、どちらにします?」
「はッ?」
「10時のバスはもう来ますが」
「乗ることができるんですか?」
 背中の痛みを考えれば、少し休みたい思いがあった。しかし朝の4時というのも少しつらい。それにこの機会を逃したら、またもめる可能性があった。やっぱり外国人はだめだという話になりかねなかった。モールミャインに長くいないほうがよさそうだった。とにかくバスに乗ってしまうことだ。
 切符を買い、オフィスの前でバスを待つ。やってくるバスは、僕らを乗せてくれるのだろうか。(以下次号)

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