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ナムジャイブログ

2015年01月26日

援助に押し寄せる日本社会の高齢化

 バングラデシュのコックスバザールという街にいる。ダッカから飛行機を使った。いつもは夜行バスに乗るのだが、バングラデシュでは野党の暴動が起きていた。長距離バスやトラックに投石を繰り返す。すでに死者も出ていた。そのため、国内のすべての長距離バスが運休していた。飛行機しか足がなかったのだ。
 飛行機でひとりの日本人女性と会った。かなり高齢である。訊くと、コックスバザールから山のなかに入ったバンダルボンという村で、女の子の寄宿舎を運営しているのだという。バンダルボンはミャンマー国境に近く、許可がないと外国人は入ることができない。村には電気もないという。
 最近、アジアで貧しい子供たちの援助活動をしている日本人の老人にときどき会う。かかわっている年数はさまざまだが、皆、60歳を超えているように見える。辺境の土地での援助が多く、辿り着くのもひと苦労といった村に、ぽつんとやってくる。
 人のことはいえない。僕も20年以上、コックスバザールでの小学校の運営にかかわっている。今回も日本人から預かった資金を渡すことが目的である。僕も60歳だから、周りからはアジアで援助にかかわる老人に映るだろうか。
 若い人に引き継ぎたいとは思う。これまで何回か、大学生を連れてコックスバザールにやってきた。その数は100人を超えていると思うが、僕らの援助事業を手伝ってくれる若者はひとりも出てきていない。
 アジアの貧困への援助にかかわる日本人も高齢化の波が打ち寄せているわけだ。多くの援助団体が、同じ問題を抱えているとも耳にする。
 理由はいくつかある。日本の若者に、援助にかかわる余裕がないことがいちばんだろうか。アジアは経済成長の軌道に乗った国も多く、援助など必要がなくなりつつあることもある。
 いま援助にかかわる老人たちが若かった年代は、日本はアジア人が羨むほどの豊かな国だった。給料の一部を捻出することで、援助活動をはじめることができた。しかし経済格差は縮まり、日本人の負担は多くなってきている。そういう空気に、いまの若者は敏感なのだろうか。
 もちろん、海外援助にかかわっている若者もいる。しかし彼らは、年長の日本人が敷いた路線ではないやり方をめざす傾向もある。
 援助というものは、海外旅行の延長のようにして簡単にはじめることができる。しかし終え方が難しい。人間関係ができあがっていくから、無下に切ることもできなくなっていくのだ。
 結局、あの日本の時代ということなのかもしれない。あの時代にかかわった人たちが、老人になっても援助を続けていく。日本社会の高齢化ということは、アジアとの関係にも影響を与えはじめている。

  

Posted by 下川裕治 at 11:24Comments(0)

2015年01月19日

効かない人

 目の検診を受けた。年齢的に緑内障とか白内障が出てもおかしくないらしい。この検診は瞳孔を開けて調べると医師から説明を受けた。
「検査の後、人によっては半日ぐらい目がよく見えない状態になります。瞳孔が開いているわけですから。光が入りすぎるんです。その日は大丈夫ですか?」
 そういわれて検診日を決めた。
 眼科医を訪ね、瞳孔を開ける薬を点眼された。それから待合室で30分ほど待つようにいわれた。時間が過ぎ、看護婦さんがきて、瞳孔をチェックしてくれた。「まだですね」。それからさらに30分ほどが経ち、ようやく検診になった。
 さまざまな機械を使った検査が終わり、医師の横に座った。
「普通に見えるんですけど」
「体質がありますからね。でも、瞳孔は開いてます。気をつけて帰ってください。本当に変化はないんですか。そうですか……」
 たしかに不思議な光の入り方だった。焦点もやや合わせにくい。しかし街並みを普通に見ることができた。
 効かない人……。
 昔からよくいわれた。薬の効きが人より悪いらしい。体が鈍感なのかもしれない。
 アレルギーもない。花粉症とは無縁の人生を歩んできた。なんとなく、自分の体は鈍いという思いは昔からあった。
「アジアで食事をしていて、ちょっとおかしいな、と思ったら、食べないことにしています。それが食あたりにならない最大のコツですよ」
 知人からそういわれたことがあった。僕はその言葉に耳を疑った。
「ちょっとおかしい?」
 そんなことを思ったこともなかった。その人が異星人のように映った。
 アジアで人に会うと、「昨日は下痢で大変でした」といわれることがある。そう聞いたとき、いつも首を傾げる。下痢ぐらいで、人にいうことだろうか……と。僕はしばしば下痢をする。それはもう日常に近い。大変なことではないのだ。
 ほかの人が大変だと思うことが、自分には些細なことに映ることを喜んでいいのかどうかわからない。
 たとえば食生活。「最近、野菜不足で体が重いんです」などといわれると返答に困る。実感がないのだ。そういえば向田邦子がエッセイのなかで、すき焼きを食べた後は肌のつやが違うと書いていた記憶がある。敏感な人なんだな、とそのときは思ったものだった。
 無農薬とか有機栽培もそんな気もする。僕にしても、安全な食べ物がいいのだが、体が反応するこだわりがない。どこか頭で考えているだけなのだ。
 体が鈍感なことは、これでけっこうつらいものだ。
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(0)

2015年01月13日

宗教という残酷なもの

 来週、バングラデシュに行く。南端に近いコックスバザールという街に滞在することになる。ラカイン族という少数の仏教徒の拠点の街である。ここで小学校の運営にかかわっている。日本での寄付に頼っているのだが、現地にはさまざまな要求が渦巻いている。いまから気が重い。
 ひとりの日本人女性が同行する。彼女はラカイン族の女性の学費を援助していた。女学生は優秀で、医師になる学校に合格した。ついにラカイン族から医師が誕生する。少数民族にとって、それは大変なことだった。
 ところが昨年の夏ぐらいから、連絡がとれないという。先日、コックスバザールの知人に訊いてみた。知人は女学生の母親からある事実を知らされた。女学生は結婚したのだ。
 結婚が問題ではなかった。悩んでしまったのは、その相手だった。イスラム教徒の男性だったのだ。女学生は家との連絡を絶っていた。母親は携帯電話の番号もわからないといったという。
 バングラデシュはイスラム教徒が大多数を占める国である。仏教徒は少数である。
 仏教徒たちは、さまざまな場面でイスラム教徒と衝突してきた。過激なイスラム教徒によって、寺が焼かれたこともある。宗教対立は、ときに憎しみの連鎖さえ生んでいた。
 しかし少数仏教徒の社会のなかにいては、バングラデシュではなにもすることができない。大学レベルの教育となると、イスラム社会に入っていくしかない。
 女学生もそうだった。医師をめざす大学に通うのは、イスラム教徒の学生である。そのなかで恋愛感情が生まれても不思議はない。
 しかし宗教は残酷でもある。
 イスラム教は、異教徒との婚姻を禁じている。つまり女学生はイスラム教に改宗しなければ結婚することはできない。
 家族との縁を切らなくてはならなかった。娘がイスラム教徒と結婚した家は、仏教徒の社会から村八分の状態に置かれる。
 仏教徒であるアラカン族が硬直的なわけではない。しかしそうしなければ、自分たちの社会を守れないという現実がある。仏教圏の最西端に暮らす仏教徒なのだ。常にイスラム社会と対峙してきた。
「僕ら日本人は、女学生が改宗しても会うことができる。でも、ラカイン族にはできることじゃないから……」
 日本という国にいると、宗教というものがぼやけてくる。平和ぼけという言葉は、そのまま宗教にも当てはまるような気にもなってくる。
 果たして女学生と会うことができるのかどうか……わからない。善意と宗教が、バングラデシュに着く前に交錯している。
  

Posted by 下川裕治 at 12:00Comments(0)

2015年01月05日

老人介護という人生を慈しむセンス

 これで3人目か。
 昨年の暮れ、知人から連絡を受けた。これまでの仕事を辞め、老人介護の仕事に就くという。一昨年から昨年にかけ、僕の周りの人が、次々に老人介護の世界に入っていった。
 皆、若くない。いちばんの高齢者は60代の前半である。3人とも仕事をもっていた。僕の知人だから、カメラマンやデザイナー、編集者である。
 仕事がうまくいっていなかったわけではない。皆、忙しく働いていた。詳しいことはわからないが、それなりの収入があったはずである。
 その人たちが突然、介護の仕事に就くという連絡をしてくる。なにか遠くへ行ってしまうような寂しさを覚えてしまう。
 労働移動支援助成金というものがある。再就職を支援する助成金である。この制度に詳しいわけではないが、知り合いのひとりが、この制度で介護福祉士になる専門学校に通っていた。資格をとることができる上に、生活費も助成してもらえる。彼はこう実態を説明してくれた。
「ほとんどの人が介護の仕事には就かないんですよ。目当ては助成金。働かなくても、学校に通っていれば、生活費がもらえるんですから。なかには、介護の仕事を考えている人もいるかもしれないけど、研修で介護の現場を体験してしまうと、もうダメ。仕事がきついことがわかっちゃうんです」
 政府にしたら、高齢化社会と就職口のない中高年を結びつけたのだろうが、実際はそんなものらしい。
 介護の仕事にしても、評判は芳しくない。腰を痛める。給料が安い。そんな話が耳に届く。
 それなりの収入のあった仕事を辞め、介護に身を投じた知人3人は、おそらくそんな実態をわかっている。しかし、いや、だからこそ介護の仕事なのかもしれない。そこには、介護の仕事はつらい……と口にする人とはまったく別の文脈が流れている。就職ではない人生の選択である。
 僕は原稿を書くことを生業にしている。それは一見、文化的な仕事に映るかもしれないが、内実は、いかに売れる本を書くか……ということに収斂されていく傾向すらある。いや、そんなことを考える余裕もなく、日々、原稿に追われているだけなのだ。
 知人3人は、きっぱりとその仕事を辞め、老人介護の世界に入っていった。その潔さのなかに、人生を慈しむセンスすら感じてしまう。若いときはそれなりに働き、ある年齢に達したら、すぱっと介護の道に進む発想は、羨ましくもある。
 僕にはその勇気がない。雑駁な世界のなかで右往左往している。冷え込む東京の夜、自分の矮小さが浮きたってしかたない。  

Posted by 下川裕治 at 10:15Comments(0)