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ナムジャイブログ

2023年03月27日

いったいどこが航空券代を払ったのか

 先週のブログで、海外でオーバーステイになり、日本に強制送還になった知人との花見の話を書いた。実はもうひとり、同じように日本に強制送還になった日本人がいた。
 オーバーステイでカンボジアの収容所に入っていた。フィリピンの収容所がマスコミをにぎわしていた頃、僕はあるニュースサイトに、カンボジアの収容所の話を書いた。昨年にカンボジアの収容所を体験した人から話を聞いた。そのなかで、収容所にひとりの日本人がいることを知った。その日本人は金がなく、帰国のめども立っていなかった。その日本人の話にも触れた。
 5日前、突然、その日本人から連絡が入った。日本に帰国できたという。
「ひとこと、お礼を伝えようと」
「お礼?」
 こういう話だった。
 僕が書いた記事が掲載されてから数日後、カンボジアの入国管理局の責任者らしき人が通訳を伴って彼を訪ねてきたという。通り一遍の事情聴取だった。それから2週間ほどがすぎた頃、収容所の職員から、「日本に帰ることができる」と知らされたという。しかし彼には金がない。日本への航空券代は誰が工面したのだろうか。訊いてみると、日本のある団体だという。
 そんな話は聞いたことがなかった。日本が航空券代を貸しつけ、帰国後に返済……という話は耳にしたことがあった。しかし航空券を買ってくれる団体……。帰国した日本人に確認した。彼がカンボジアの通訳に再度、訊いてみたところ、日本ではなく、カンボジアの団体のようだった。しかし、カンボジアにそんな慈善団体がある?
 カンボジアのプノンペンに住む日本人に調べてもらった。やはりそんな慈善団体はなかった。カンボジアの入国管理を担っているのは警察である。ではいったいどこが航空券代を負担したのか。一銭の金がない日本人に入国管理の責任者から、200ドルの小遣いも渡されていた。これは貧しい日本人をカンボジア人が助けた美談なのか。
「この問題、深入りしないほうがいいと思います。日本人を助けてくれたことは事実として。カンボジアですから」
 カンボジア在住の日本人はそう助言してくれた。
 オーバーステイなどの人々が入る収容所には、困窮外国人が少なくない。帰る金がないのだ。しかし収容中の外国人には食事代など経費がかかる。それは収容している国の負担になる。帰国する費用がない外国人の収容期間が長くなると、経費がかさんでいく。早く帰国させたいのだが、帰国用航空券代に国の金を使うわけにもいかない。そのあたりを、カンボジアらしい手法で処理したということらしい。
 収容所問題は、今後、クローズアップされるかもしれない。そこにあるのは、世界が抱える貧困である。根は深い。


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Posted by 下川裕治 at 11:19Comments(1)

2023年03月20日

3分咲きの花見なり

 知人が帰国した。金がなくなり、最後にはオーバーステイ。フィリピンではないが、同じような収容所に入り強制送還という形の帰国だった。
 先週の金曜日の夕方、彼が僕の事務所に訪ねてきた。
 事務所の近くを神田川が流れている。しっかりと護岸工事が施されているが、その流れに沿って桜が植えられ、花見の名所になっている。江戸川公園と呼ばれている。
 いま3分咲きである。
「再会のお祝いで、花見でもしますか」
 近くのコンビニでビールを買い、公園のベンチに座った。
 桜の木々に沿って提灯が並んでいる。3分咲きではまだライトアップはしないのか、街灯の灯がうっすらと咲きはじめた花房を映し出していた。
 コロナ禍で自粛されていた花見も、今年は解禁される。もう先客がいるような気がしたが、花見の輪はひとつもなかった。提灯が灯らないと花見はできないということなのだろうか。いや、まだウイルスを警戒している人が多くいる? 薄暗いベンチの上で缶ビールの栓を開けた。
 桜の記憶はなぜか死につながってしまう。30年以上前、親しくしていた知人がバングラデシュで死亡した。マラリアだった。その遺体の引きとりのため、遺族と一緒にバングラデシュに向かった。遺体と一緒に帰国すると日本は桜の季節だった。満開の桜が死のイメージと重なり合う。
 1冊の雑誌の編集長を務めていたことがある。飯田橋の上智大学に近い土手の上で編集部の花見があった。編集部を置かせてもらっていた会社の社長もその輪のなかにいた。彼とは長いつきあいだった。花見も終わったとき、なぜか彼と僕が残ってしまった。花見客が残した新聞紙を丸めてボールをつくった。それを手に、上智大学のグランドに忍び込み、ふたりでサッカーをした。それがみつかり、警備員に怒られた。それから何年かがたち、彼は鬱を患い、首を吊ってしまった。
 強制送還された彼の人生はつらい。カンボジアでは金がなくなり、水田のタニシを獲って食べたこともあったという。しかしなんとか日本に帰ってきた。
 花見にはもうひとりの知人もいた。彼はかつて会社の社長を長く務めていたが、いま、その会社はない。
 僕といえば、コロナ禍が尾を引き、なかなか旅の本が出ない。僕の旅とはなんだったのか、悩みつづけている。
 3人とももう若くない。しかし人生の安穏にはほど遠い。ビールの仄かな酔いだけが心を軽くしてくれる。
 帰り際、ひとりがいった。
「いつまでもほろ酔いでいられたらいいんだけどな」
 切ない記憶がまたできてしまった。
 桜は3分咲きである。


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2023年03月13日

フアラムポーン駅が各駅専用駅になったが……

 バンコクに着いた翌日、フアラムポーン駅に行ってみた。バンコク中央駅という人もいる駅だ。1月19日から、この駅を発着する急行などの速い列車がすべて姿を消したと聞いていたからだ。急行など、鉄道ファンが好んで使う優等列車は、クルンテープ・アピワット中央駅の離発着になった。以前はバンスー中央駅と呼ばれていた駅だ。
 ここ至るまで、いかにもタイ式というか、タイ国鉄らしい経緯を辿った。フアラムポーン駅がなくなるという情報は2021年の末に走った。どこかヨーロッパの終着駅を思わせる駅舎はファンも多く、最後の姿を写真に残そうと多くのタイ人が訪れた。そのなかには日本人もいた。僕らも最後の姿をYouTubeで流した。タイのテレビも特集番組をつくったりした。駅舎は博物館になるという話も、まことしやかに流れていた。
 しかしその日がきても、フアラムポーン駅はなにも変わらなかった。いままで通り列車が離発着している。タイ在住の知人が訊いてみても、駅員は、
「どうなるか私たちにはかわかりません」
 という頼りない笑みが返ってきただけだったという。そして年が明けても、駅の様子はなにも変わらなかった。2021年末のあの盛りあがりはなんだったのか……などと考えているうちに月日は流れ、僕のなかでは、フアラムポーン駅の閉鎖話は消えつつあった。タイ人たちからも、
「バンスーにあんなに立派な駅をつくってどうするんだろう」
 という声も届く。皆がフアラムポーン駅は変わらないと思いはじめていた。
 ところが今年、つまり2023年になって、唐突に発表があった。フアラムポーン駅は閉鎖か……と色めきたったが、よく訊くと、各駅停車の列車はフアラムポーン駅離発着として残るという。なんだかすごく中途半端な結末になって、肩透かし。なにも盛りあがらず、1月19日になった。いかにもタイだった。
 駅は、一見、なにも変わっていないようにも映った。しかしよく見ると、2階の飲食店のなかにはシャッターが閉まっているところもあった。店側にしても、今後、どのくらい客がくるのかわからず、判断が難しかった気がする。
 待合室で目的地や発車時刻を知らせる電光掲示板を見あげた。すべて各駅停車しかない表示を確認しながら、僕は呟いていた。
「これなら大丈夫だ」
 タイの列車は平気で数時間遅れる。それはまさにお家芸でもある。あまり遅れると、途中で引き返し、その先は代行バスといった荒業も涼しい顔だった。だからというわけではないが、僕はタイの鉄道の全線を制覇する旅に出た。その旅は『東南アジア全鉄道制覇の旅 タイ・ミャンマー迷走編 (双葉文庫)にまとまったが、その経験からすると、タイの鉄道の魅力は各駅停車しかないと思っているからだ。
 各駅停車には、沿線に住む人が、車掌に話をつけて列車に乗り込んでくる。抱えているのはさまざまな車内めしだ。小さな汁なしそば、小ぶりのタイカレー、飲みもの、つまみや菓子……。そこには創意工夫が溢れ、レベルが高く、安かった。あの各駅停車は、すべてフアラムポーン駅から発車する。各駅停車好きにはなんの影響もない。これからの僕のタイでの列車旅は、きっとフアラムポーン駅からはじまる。


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Posted by 下川裕治 at 10:48Comments(0)

2023年03月06日

金門島で味わう「旅の重さ」

 台湾の金門島に着ている。土曜日の朝の飛行機で台北から島に入った。テーマは台湾と中国。中国のアモイが肉眼で見える金門島。台湾と中国の軋轢はこの島にどんな影響を与えている? そんな思いでやってきた。
 この内容はやがてネットの記事にすることになる。ここでは多くを語らないことにしておく。
 今回の金門島は、カメラマンが同行している。コロナ禍の間、僕は何回か海外に出た。そのすべてがひとり旅だった。
 新型コロナウイルスの感染がはじまりだした頃、日本では同調圧力が強く働いていた時期があった。渡航制限がはじまる前の感染拡大の初期、僕がバンコクでの日々をこのブログで書いたところ、多くの批判に晒された。そして、海外への旅を発表する場は忽然と消えてしまった。旅の話を書いても、原稿料が出ない状況になってしまったのだ。
 それでも僕は旅に出た。各国のルールを守りながら、できる限りの注意を払った旅だったが、それは僕の自己責任の世界だった。そこにカメラマンを引き込むわけにはいかなかった。
 そんなコロナ禍が過ぎ去ろうとしているなかで、ようやくカメラマンが同行する旅が戻ってきた。
 3年ぶりである。
 若い頃、原稿を書く担当とカメラマンはまったく違う分野だった。取材はカメラマンと行くことが当然のことだった。しかしその後、カメラ機材もよくなり、原稿担当が写真を撮るという流れができてきた。僕はその風潮に反発し、カメラマンが同行する旅をさせてもらっていた。それができたのは、僕が書く本がある程度売れていたからだ。新聞社や出版社にしたら、カメラマンのギャランティを払っても……と判断してくれた。ありがたいことだった。
 しかしコロナ禍はそれを許してくれなかった。僕はメモを手に、首からはカメラをかけながら飛行機に乗った。
 なんとかこなすことができた?
 今回、カメラマンと同行して気づいた。こなすことなどなにもできてはいなかった。
 動作として写真を撮ることは、それほど時間がかかることではない。しかし1枚の写真には、さまざまな思いが絡んでくる。シチュエーションを選ぶ問題もあるが、天気や太陽の向きも考えなくてはならない。写真に慣れていないということもあるが、コロナ禍の旅を振り返ると、写真に翻弄されていた旅だったと改めて思う。そしてどんな内容の原稿を書くかという葛藤が薄っぺらなものになっていた……と。
 金門島は難しい島だ。台湾と中国の関係はかなりねじれている。そのなかの金門島は、多くの矛盾が詰まっている。それを考えると収集がつかなくなる。そんな悩みに入り込めるのは、写真を撮るという負担がないからだと気づいた。
 ひとりででかけたコロナ禍の旅は、1日が終わると、なにか仕事をやり終えたような気分に陥っていた。これではいい原稿は書けない。写真も中途半端になる。
 コロナ禍を経て、新聞社や出版社の台所は厳しさを増している。原稿を書く担当が写真を撮る流れはより進んでいく。
 作品が劣化していくということは、きっとこういうことなのだ。それを打開するには、僕がいい原稿を書くしかない。金門島の旅はなかなか重い。

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Posted by 下川裕治 at 10:35Comments(1)