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ナムジャイブログ

2024年05月27日

ガパオはどこまで広がる?

 バンコクにいる。「歩くバンコク」の製作がはじまる。紹介するエリアの担当を決めていくことが今回の主な目的だ。
 バンコクにいるときの昼食は、だいたいアハーンタムサンである。アハーンは食事。タムサンは注文。タイに多い注文食堂である。
 基本的にメニューがない。客は「チャーハンをお願い。トムヤム味で。具は海鮮」といった頼み方をする。料理をつくるのはだいたい奥さん。ご主人が店員の役割をこなす。そんな小規模な庶民店だ。奥さんは客の注文を聞き、彼女なりのアレンジを加えて料理をつくってくれる。いってみれば家の台所が食堂になったようなものだ。会社勤めタイ人は、このアハーンタムサンで昼食をとる人が多い気がする。
「歩くバンコク」にも掲載したいのだが、料理名を出しにくい。タイ語の壁もある。観光客にはややハードルが高い。
 素材があればなんでもつくってくれるが、定番料理というものもある。客も毎回、調理の方法や食材を伝えるのも面倒なのだ。
 その代表格がガパオである。日本でも有名になった。ガパオとはホーリーバジルのことだ。正確にカタカナで書くと、バイクラッパオになるが、ガパオで通じる。日本人ではガパオライスという人が多い。仮にアハーンタムサンでガパオライスというと、豚ひき肉とホーリーバジルを炒めご飯に載せてくれるはずだ。ガパオの定番といったら、「豚ひき肉ホーリーバジル炒め」なのだ。
 タイ語ができなくてもなんとか、この庶民食堂を味わえないだろうか……。そんな思いで、運営するYouTube「アジアチャンネル」で「タイ屋台料理大全」をはじめた。するとガパオの応用系が次々に出てきた。ガパオ料理が人気になって10年以上たつと思いが、タイ人はそのバリエーションをどんどん広げていた。
 具が豚ひき肉の代わりに鶏肉になるといった応用は想像がつくが、「エビと豚ひき肉バジル炒めご飯」というものもあった。豚肉とエビをホーリーバジルと一緒に炒めてしまうのだ。豚とエビ? と思ったが、食べてみると意外にいける。
「豚バラ肉カリカリ揚げバジル炒めご飯」の人気も高まりつつある。「豚バラ肉カリカリ揚げ」というのは、タイ語でムークロープといわれる食材。皮つきの豚バラ肉に塩をまぶして揚げたもの。日本の食材でいうと焼き豚に近い。それとホーリーバジルを炒めてしまうのだ。
 しかし「豚ひき肉バジル炒め混ぜご飯」を食べたときは唸ってしまった。豚ひき肉を炒め、そこにご飯を投入。その上から生のホーリーバジルを入れ、軽く炒めると完成というシンプルさだった。ガパオ料理は具にホーリーバジルの香りや味が移るが、これはご飯がほんのりバジル味になる。まさに混ぜご飯。いったい誰が思いついたのだろうか。
 そんな話をタイ人と話していると、ひとりがこういった。
「私はパットシーイウガパオが好き」
「なにッ?」
 パットシーイウというのは米の太麺を醤油味で炒めた料理だ。そこにガパオ……。
 ガパオは麺料理までその触手をのばしていた。ガパオはどこまで広がっていくのだろうか。

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2024年05月20日

熊野古道という現代の古道

 熊野古道に3回も行ってしまった。「日本やアジアの古道を歩く」という本の企画で、今年の2月、はじめて熊野古道に足を踏み入れた。
 シニア向けの本である。1日10時間も歩くのは無理がある……と3時間ほどのコースを選んだ。熊野古道の中辺路のうち、滝尻王子から高原熊野神社までを3時間ほどかけて歩いた。
 滝尻王子の手前で、稲葉根王子に寄った。目の前を富田川が流れている。平安時代から鎌倉時代にかけ、熊野詣が盛んだった頃、ここで水垢離をした。霊域に入る儀式だった。その話はこのブログでも書いた。
 予定のコースを歩き終え、せっかく熊野まで来たのだから……とバスで熊野本宮大社を訪ねてみた。これがいけなかった。
 熊野本宮大社が魅力的だったというわけではない。大社から歩いて5分ほどのところに大斎原(おおゆのはら)がある。かつて熊野本宮大社があった場所だ。水害に遭い、大社は近くの高台に移された。
 その大斎原を訪ね、縁石に座ってあたりを見渡した。
 そこは何本もの川が合流する中州のような地形だった。俯瞰して見れば盆地のようにも映る。熊野古道の長い道を歩き、その先に穏やかな平地が現れる。
 浄土……当時の人々にはそう映ったのかもしれなかった。当時の京都は権力争いと戦乱で荒れていた。疫病にもしばしば襲われた。しかしここは平和だった。山に囲まれた中州には、穏やかな空気が流れていた。
 熊野詣は死後、浄土へいくための修行の道と位置づけられていた。それをプロデュースしたのは山伏たちだったのだが、京都にいた天皇や貴族らは、頻繁に熊野詣を行うようになる。その真意への憶測は、本を読んでいただきたいが、大斎原に座ったとき、なにか伝わってくるものがあった。
 やはり歩かないといけないか……。
 延々と歩いた先にしかない浄土……。
 2回目の熊野で僕は中辺路を熊野本宮大社まで歩いた。2日間、歩きつづけた。70歳になろうとしている足腰の筋肉は脆弱で、最後にはリタイアが脳裡をよぎるほどの道のりだった。
 熊野本宮大社の手前の山道から大斎原を眺めた。これが平安時代から鎌倉時代にいたる人たちが求めた眺めだったのだろうか。
 浄土……。右膝が痛く、その感慨に浸る余裕もなかったが。
 なんとか原稿を書きあげ、さて出版社に渡すというときにトラブルは起きた。パソコンに保存していた写真が消えてしまったのだ。バックアップはとっていなかった。
 大阪に住むカメラマンに手伝ってもらうことにした。彼の運転で3回目の熊野古道に向かうことになる。撮影ポイントはだいたい頭に入っている。歩く時間はない。車でそのポイントに近づくことになる。Google マップや勘を頼りに林道に入っていく。
 そこで熊野古道の別の顔を見ることになった。車で近づき、1分も歩くと撮影ポイントに着くことが多かった。熊野古道は林道を巧みに避けて古道を歩くというつくられた道でもあったのだ。熊野古道は現代の古道でもあった。
 

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2024年05月13日

豊かだった国の残影

 月に1、2回は東京出入国在留管理局に出向く。略して東京入管。品川からバスに10分ほど乗る。
 出向く理由は単純だ。問い合わせ電話が通じないからだ。ホームページを開くと、「外国人在留総合インフォメーションセンター」に問い合わせるように書かれ、そこに電話番号が記されている。そこに電話をかけると、こういうテープが流れる。
「お客様がおかけになった電話番号は現在、使われておりません。または通話ができない状態になっています」
 そしてすぐにお話し中のトーンに変わる。
 こういった返答テープが流れる役所はそう多くない気がする。電話が混みあっているということのように思うが……。
 しかし何回かけても、つながったことがない。これで問題にならないのは、ほとんどの人が電話をかけないからだろう。
 問い合わせたい内容はビザ申請の書類の書き方である。僕は最近、ミャンマー人のつきあいが多く、ビザの取得や更新などを手伝うことが多い。そろえる書類でわからないことは多い。
 こんなことがあった。ミャンマー人の僧侶のビザを取得する必要があった。僧侶が来日する目的は、寺の内部のレイアウトを決めることだった。必要書類をチェックっすると、寺の内部の写真が必要だった。そしてこう書かれていた。
「撮影日時がわかる写真」
 提出する写真はプリントしたものだ。そこにどうやって日時がわかるようにする?
 多くの外国人が取得するビザなら訊く人も多いが、とろうとしていたビザのカテゴリーは「宗教」。相談相手も少ない。電話は通じないないから出向くことになる。
 窓口で番号札を受けとり、早くて3時間。長いと半日を費やすことになる。手つづきにやってくる外国人は、よく我慢していると思う。
「なんとかならないのだろうか」
 窓口で番号札をもらうときまでの思いは、職員の働きぶりを見ていると霧散していく。やってくる外国人の日本語の理解力は高いわけではない。そんな人たちに職員は丁寧に説明する。大変な仕事だと思う。
 おそらくこれは、日本という国の制度矛盾のように思う。海外の国々の入管も、基本的にこの傾向があるが、日本の場合はどこかがずれている。
 30年以上前、日本に不法就労が急増したとき、取材にかけずりまわっていたことがあった。入管、そして法務省……。そこから伝わってきたことは、外国人、とくにアジア人のほとんどは日本の法律を破って不法に働こうとする人たち……という色眼鏡をかけて眺める視線だった。たしかに当時、日本の経済力は頭抜けていた。そこに対応する役所は、まるで警察だった。使う隠語も警察のそれだった。あらゆる方法で抜け道をつぶしていく発想だった。
 それから30数年……。日本経済は衰退し、賃金はあがらず、円安が追い打ちをかける。条件が違うので比較は難しいが、日本人の技能実習生の賃金は韓国の半分ほどだ。
 しかし日本の出入国管理は、日本が経済大国だった時代のままだ。実情に合わせれば、入管業務はもっと簡素化する。一時期、日本のホスピタリティで話題になったことがあった。しかし「おもてなし」は表面的な話だ。滞在資格というハード面での日本のホスピタリティはまだ薄い。

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Posted by 下川裕治 at 11:52Comments(0)

2024年05月06日

数字が頭に入らない

 このところ、身近なトラブルが相次いだ。まず、使っているスマホの電話がなぜか使うことができなくなった。かけることも、受けることもできない。キャリアの会社のオフィスにもち込んだ。原因はわからず、結局、別の機種に変えることになった。新しい機種になったが、いくつかのアプリは再設定が必要だった。ユーチューブはそのまま新しい機械に移行されたような感じだった。ところが昨日、2週間に1回のライブでトラブルが起きた。はじめのうちは正常に作動していたのだが、途中から接続できなくなった。理由はよくわからない。
 1週間前、いつも乗っている自転車の後ろのタイヤがパンクした。自転車屋にもち込むと、タイヤが裂けていた。もう10年近く乗っている自転車である。
「前のタイヤもそろそろ裂けるかもしれません」
 自転車屋からそういわれた。
 今週、撮った写真がパソコンから消えてしまった。業者にもち込むと、修復はかなり大変……という診断を受けた。そこにはいま、原稿を書いている熊野古道の写真も含まれていた。また撮りにいく? 熊野古道に行くには東京からかなりの時間がかかる。どうしたらいいのか、悩んでいる。
 再設定や修理、修復に出すとき、本人確認のために僕の携帯電話の番号が必要になることが多い。しかし僕は自分の電話番号を覚えていない。
 携帯電話は30年以上前に買った。以来、電話番号は変わっていない。しかし覚えることができない。自分にかけることはないから……といういい訳も、これだけ長く同じ番号を使っていると通用しない。
 僕の頭のなかに入っている電話番号は、自宅と実家の固定電話の番号だけだ。ふたつしか覚えていない。30年以上前に携帯電話番号を取得したが、3番目の番号は脳の記憶細胞に入ってくれないのだ。
 電話番号に限らず、僕は数字を覚えることが極端に苦手だ。暗証番号も覚えられない。ホテルのなかには、入室の際に番号を打ち込むスタイルのところがある。覚えられないからついメモに書き込む。
 これは我が家だけかもしれないが、妻と娘は僕よりはるかに多い番号を覚えている。自分の電話番号を娘に訊くと、たちどころに教えてくれる。
 これは女性と男性の能力の違いだろうか。
 自分の番号記憶力が低いことを棚にあげ、そんなことも考えてみる。
 そういえば、受験のとき、世界史や日本史の年号を覚えるのに苦労した。4桁の数字の暗記は大変だから、年号をひとつ覚え、その何年後、何年前……という方式をとった。桁数が少なければ覚える負担も少ないと思ったからだ。そんな数字の記憶も、受験が終わると、僕の頭のなかからすべて消えた。
 昔、痴ほう症が進んだ人の脳の画像を見たことがある。人の記憶はニューロンという神経細胞と、それをつなぐシナプスで構成される。その画像は、細胞やシナプスがなく、戦争で出現した焼け野原のようだった。数字が記憶されない脳。ときどき、あの画像を思いだしてしまう。

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