2024年02月05日
三途の川を渡ってみる
今週、熊野古道を歩くつもりでいる。ある本の企画なのだが、ひとつのテーマは三途の川を渡ることだ。三途の川? そんな川はない。しかし盛んに熊野詣を繰り返していた平安貴族は本当にそう信じていた節がある。
平安時代、それも末期の宗教の資料を読んでいるのだが、そう思えてしかたない。
熊野は当時、霊場と信じられていた。神仏習合という宗教観は、生きているときは神に救われ、死後は仏教が救ってくれるというものだ。死後の救済を求めて、貴族は熊野へ向かった。その熊野の入り口が岩田川、いまの富田川である。この川を渡る前には身を清め、霊場に足を踏み入れていった。いってみれば、この川を渡ることは死ぬ練習のような意味合いがあったようだ。
その川を渡る……。
古道歩きのテーマのひとつである。
常日頃、死後の世界を考えているわけではないが、やはり老いというものが頭のなかのある部分を占めている。老いとはなんのか。
最近、ルーティンというものをよく考える。ルーティンとはある動作や行為を決まったときに繰り返すこと。いってみれば日課である。
朝、起き、コーヒーを飲む。寝る前に入浴する……そういった1日の行為である。
生きるということは、この日課をつくりつづけていくことのような気がしないでもない。年をとれば、当然、ルーティンは増えていく。そしてそのルーティンが乱れることを、年をとるほど嫌うようになる。それが老化にも思える。
僕は朝、事務所の近くのコンビニでコーヒーを買う。それを飲みながら事務所に向かう。僕のルーティンである。しかしたまにコンビニのコーヒーマシンが壊れていると戸惑ってしまう。別のコンビニを探そうとする。
若い頃はどうだったのかと思う。「コーヒーマシンが壊れたんだからしかたないか」と事務所に向かった気がする。コーヒーへのこだわりが弱かったように思うのだ。あるいは別の飲み物を代わりに買うか……。
旅というものは、このルーティンが通用しない世界に足を踏み入れることをいう。バングラデシュに行く。そこで皆が朝に飲むのはミルクティーである。日本のコンビニのコーヒーはない。そのなかでコンビニのコーヒーを飲むようにミルクティーを飲む。ルーティンが崩されてしまう。そのとき、体や精神をバングラデシュ仕様に変えていくことが旅のストレスを軽くしていく。つまり順応力が旅を支えてくれる。老化とはつまり、この順応力の話なのではないかと思う。
しかし平安時代、貴族は熊野に向かう。ひたすら歩くことが死への修行だった。だが、視点を変えれば、修行は旅でもある。彼らにも京都で暮らしていたときはルーティンがあったはずだ。修行と旅は別のものなのだろうか。
熊野というエリアは「よみがえりの地」ともいわれていた。苦行の果てによみがえるというロジックは、実は順応力を高める行為ではなかったのか。そのために死を媒介させていくという方法論……。
熊野古道を歩けば、その難問を説く糸口が見つかるのだろうか。
平安時代、それも末期の宗教の資料を読んでいるのだが、そう思えてしかたない。
熊野は当時、霊場と信じられていた。神仏習合という宗教観は、生きているときは神に救われ、死後は仏教が救ってくれるというものだ。死後の救済を求めて、貴族は熊野へ向かった。その熊野の入り口が岩田川、いまの富田川である。この川を渡る前には身を清め、霊場に足を踏み入れていった。いってみれば、この川を渡ることは死ぬ練習のような意味合いがあったようだ。
その川を渡る……。
古道歩きのテーマのひとつである。
常日頃、死後の世界を考えているわけではないが、やはり老いというものが頭のなかのある部分を占めている。老いとはなんのか。
最近、ルーティンというものをよく考える。ルーティンとはある動作や行為を決まったときに繰り返すこと。いってみれば日課である。
朝、起き、コーヒーを飲む。寝る前に入浴する……そういった1日の行為である。
生きるということは、この日課をつくりつづけていくことのような気がしないでもない。年をとれば、当然、ルーティンは増えていく。そしてそのルーティンが乱れることを、年をとるほど嫌うようになる。それが老化にも思える。
僕は朝、事務所の近くのコンビニでコーヒーを買う。それを飲みながら事務所に向かう。僕のルーティンである。しかしたまにコンビニのコーヒーマシンが壊れていると戸惑ってしまう。別のコンビニを探そうとする。
若い頃はどうだったのかと思う。「コーヒーマシンが壊れたんだからしかたないか」と事務所に向かった気がする。コーヒーへのこだわりが弱かったように思うのだ。あるいは別の飲み物を代わりに買うか……。
旅というものは、このルーティンが通用しない世界に足を踏み入れることをいう。バングラデシュに行く。そこで皆が朝に飲むのはミルクティーである。日本のコンビニのコーヒーはない。そのなかでコンビニのコーヒーを飲むようにミルクティーを飲む。ルーティンが崩されてしまう。そのとき、体や精神をバングラデシュ仕様に変えていくことが旅のストレスを軽くしていく。つまり順応力が旅を支えてくれる。老化とはつまり、この順応力の話なのではないかと思う。
しかし平安時代、貴族は熊野に向かう。ひたすら歩くことが死への修行だった。だが、視点を変えれば、修行は旅でもある。彼らにも京都で暮らしていたときはルーティンがあったはずだ。修行と旅は別のものなのだろうか。
熊野というエリアは「よみがえりの地」ともいわれていた。苦行の果てによみがえるというロジックは、実は順応力を高める行為ではなかったのか。そのために死を媒介させていくという方法論……。
熊野古道を歩けば、その難問を説く糸口が見つかるのだろうか。
Posted by 下川裕治 at 12:37│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。