2014年06月11日
ミャーワディで再び足止めの1日
【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、再びタイのバンコクでミャンマーのビザをとり、メーソトに向かった。
※ ※
タイ側のメーソトからミャンマーのミャーワディに入った。国境はモエイ川。そこに架かる橋を渡ったのは朝の7時頃だった。
橋の袂にあるイミグレーションの椅子に座った。人のよさそうな職員だった。
「ヤンゴンまで?」
「ええ」
「明日ですね。今日はヤンゴン方面行きの車が走らない日です」
「はッ?」
1日おきの一方通行があるという話は聞いていた。そこがどの区間なのか確かめもせずにミャーワディまで来てしまった。ここから先の道だったのだ。ミャーワディからパアンという街までは、峠越えの狭い道しかないのだという。
力が抜けてしまった。チャイントンでその先の道を阻まれ、急いでビザをとり直してここまで来たのに、また足止めである。
ミャンマーは思うようにいかない国だ。
しかたなかった。ここで1泊するしかなかった。
ミャーワディはそれほど大きな街ではなかった。2、3時間もあれば、街を一周できそうだった。
モエイ川沿いの土手に向かい、対岸のタイを眺める。この国境にはじめてきたのは、そう、20年も前だろうか。当時、外国人は、タイからミャンマーまでは渡ることができなかった。中洲までが限界だった。しかし小舟は行き来していた。積荷のなかには、味の素もあった。ミャンマーに渡ったタイ産の味の素は、男たちが担ぎ、山を越えていった。この道は、『味の素ルート』とも呼ばれていた。
そうこうしているうちに橋が架かった。しかし橋の中央に壁がつくられ、行き来はできなかった。それからが長かった。10年ぐらいはそのままの状態が続いた。カレン族の反政府軍とミャンマー軍が拮抗していたのだ。しかしやがてミャンマー軍はミャーワディを制圧し、外国人も橋を渡ることができるようになった。
しかし国境から3キロまでだった。街が終わるところまでだったのだ。ミャンマーではまだ軍事政権が続いていた。
ミャーワディからヤンゴンまでの陸路が開放されたのは、民主化の動きのなかでのことだった。しかしいくら開放しても、山越えの道が広くなるわけではない。
しかしやっとここまで来たのだ。街の人たちは浮き足立っていた。中央の道には、両替商の机がずらりと並び、ミャンマーの札束が積み上げられている。タイで働いて稼いだ金をここで両替し、ヤンゴンに帰るらしい。ミャーワディはいま、そんな役割を担う街になっていたのだ。(以下次号)
(写真やルートはこちら)
この旅の写真やルート地図は、以下をクリック。
http://www.asahi.com/and_M/clickdeep_list.html。
「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。
【前号まで】
裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ラオスに入国し、ホンサーを経てタイ。そしてミャンマーのチャイントン。しかしその先へは行けず、再びタイのバンコクでミャンマーのビザをとり、メーソトに向かった。
※ ※
タイ側のメーソトからミャンマーのミャーワディに入った。国境はモエイ川。そこに架かる橋を渡ったのは朝の7時頃だった。
橋の袂にあるイミグレーションの椅子に座った。人のよさそうな職員だった。
「ヤンゴンまで?」
「ええ」
「明日ですね。今日はヤンゴン方面行きの車が走らない日です」
「はッ?」
1日おきの一方通行があるという話は聞いていた。そこがどの区間なのか確かめもせずにミャーワディまで来てしまった。ここから先の道だったのだ。ミャーワディからパアンという街までは、峠越えの狭い道しかないのだという。
力が抜けてしまった。チャイントンでその先の道を阻まれ、急いでビザをとり直してここまで来たのに、また足止めである。
ミャンマーは思うようにいかない国だ。
しかたなかった。ここで1泊するしかなかった。
ミャーワディはそれほど大きな街ではなかった。2、3時間もあれば、街を一周できそうだった。
モエイ川沿いの土手に向かい、対岸のタイを眺める。この国境にはじめてきたのは、そう、20年も前だろうか。当時、外国人は、タイからミャンマーまでは渡ることができなかった。中洲までが限界だった。しかし小舟は行き来していた。積荷のなかには、味の素もあった。ミャンマーに渡ったタイ産の味の素は、男たちが担ぎ、山を越えていった。この道は、『味の素ルート』とも呼ばれていた。
そうこうしているうちに橋が架かった。しかし橋の中央に壁がつくられ、行き来はできなかった。それからが長かった。10年ぐらいはそのままの状態が続いた。カレン族の反政府軍とミャンマー軍が拮抗していたのだ。しかしやがてミャンマー軍はミャーワディを制圧し、外国人も橋を渡ることができるようになった。
しかし国境から3キロまでだった。街が終わるところまでだったのだ。ミャンマーではまだ軍事政権が続いていた。
ミャーワディからヤンゴンまでの陸路が開放されたのは、民主化の動きのなかでのことだった。しかしいくら開放しても、山越えの道が広くなるわけではない。
しかしやっとここまで来たのだ。街の人たちは浮き足立っていた。中央の道には、両替商の机がずらりと並び、ミャンマーの札束が積み上げられている。タイで働いて稼いだ金をここで両替し、ヤンゴンに帰るらしい。ミャーワディはいま、そんな役割を担う街になっていたのだ。(以下次号)
(写真やルートはこちら)
この旅の写真やルート地図は、以下をクリック。
http://www.asahi.com/and_M/clickdeep_list.html。
「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。
Posted by 下川裕治 at 12:40│Comments(2)
この記事へのコメント
いつもブログを楽しく拝見しております。
自分は今もアジアの国を長期でまわっていて、ミャンマーには今年の4月に、下川さんたちとおなじように陸路で入りました。
自分もミャワディーの街で一日足止めを食らい、脱力してしまったので、
おんなじだぁと思い、ついコメントした次第です。
いくつか下川さんの著書を読んで背中を後押しされたといった形で旅に出たので、
このような共感をうれしく思いました。
これからもどうかお体を御自愛しながら、無理のない旅にまた出てください。
自分は今もアジアの国を長期でまわっていて、ミャンマーには今年の4月に、下川さんたちとおなじように陸路で入りました。
自分もミャワディーの街で一日足止めを食らい、脱力してしまったので、
おんなじだぁと思い、ついコメントした次第です。
いくつか下川さんの著書を読んで背中を後押しされたといった形で旅に出たので、
このような共感をうれしく思いました。
これからもどうかお体を御自愛しながら、無理のない旅にまた出てください。
Posted by NASA at 2014年06月11日 16:49
S28生まれ、下川さんより1~2歳年上です。以前から著作を愛読させて頂いてましたが、退職後、陸路国境、バス、鉄道、アジアハイウェー、川と橋、などをテーマに趣味旅しています。 5月20日過ぎヤンゴンからメーソートを目指そうとしましたが、「雨が降ってる」など辞めとけ意見が多く、秋に延期しました。 この路線は偶数日、奇数日どちらがヤンゴン行きなんでしょうか。
Posted by 吉田良平 at 2014年06月12日 14:45
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