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ナムジャイブログ

2014年10月20日

絶対味覚というもの

 ある作家が料理についてこんなことを書いていた。
「エッセイなどで、この店の料理がうまいといったことは書かないようにしている」
 その通りだと思う。だいたい世のなかにまずい料理というものは、まったくといっていいほどない。そしておいしいという感覚はきわめて主観的なものだ。それを基準に料理を評価するのは、つくった人に悪いと思う発想が生んだ言葉だ。その誠意は心地いい。
 昨日、北アルプスに登った。最近、山に登ると、途中、バテ気味になることがあった。しばらく休めば治るのだが、やはり体力が落ちている気がした。今回は徳本峠という、本格的に山に登る人にしたらハイキング程度のコースだったということもあったのだが、とくに体調の異変もなく登り終えることができた。
 山に登っていつも思うのだが、途中で飲む水はおいいしい。今回は運よく天候に恵まれた。前穂高から奥穂高の稜線を眺めて飲む水は、本当においしかった。登り終えて買うビールは格別だった。北アルプスは初冠雪を迎え、寒さのなかで口にする山小屋のうどんにも救われる思いがした。山に入ると、すべての食べ物の味が増す気がする。
 それは単純な論理だ。汗を流し、息を切らして体を動かすからだ。登り終えた後は達成感もある。そういう状況に体を置けば、口にするものはすべておいしくなる。
 食べ物の味とはそういうものだと思う。
 食べ物の味より、食べる前の体の状態のほうが、強く味を左右する。1杯の水も味を変えてしまうのだ。腹が減っていれば、なんでもおいしくなる。そんな話をすると、知人からこういわれた。
「それは下川さんが食いしん坊じゃないからですよ」
 たしかにそんな気もする。世のなかには、絶対味覚をもっている人がいる。たとえば、作家の開高健はそのひとりだった気がする。彼の文章を読むと、食べ物の描写に言葉を失う。彼は無類の食いしん坊でもあった。
 その発想でいえば、冒頭で紹介した作家は食いしん坊ではないのだろう。絶対味覚をもっていないのだ。そして、僕にも頼りにする味覚がない。
 しかし、社会には、食べ物情報が氾濫している。テレビ、ネット、食べ物ガイド……。その情報を発信している人の多くが、絶対味覚をもっていないはずだ。
 それはおそらく、味覚というものが、主観的なものだからだろう。軽く受け流すことができるという情報の薄さがあるから、無責任に「おいしい」といえるのだ。
 山に登る……。それは人にはわかってほしくない自己満足に浸れるからではないかとも思う。山で口にするもののおいしさを、ひとりで味わうことができるからだ。人はそういう部分をもっていないと生きることができない。絶対味覚をもっていない多くの人の楽しみがそこにある。



Posted by 下川裕治 at 12:00│Comments(0)
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