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ナムジャイブログ

2010年01月26日

チェンマイ装置

 チェンマイにいる。
 この街の空港に着くと、いつも、
「タイで暮らすならこの街だな」
 と思う。バンコクに比べると湿度が低い。空気も澄んでいる。バンコクのせかせかとした時間が消える。
 山が見えることに安堵する。
 僕は信州で生まれ育った。いつも山を眺める暮らしだった。山を見ると落ち着くのだ。
 しかし街に入り、ここに暮らす日本人と会うと、流れる空気が一気に澱んでいくのがわかる。チェンマイに暮らす一部の老人は、薄汚れた衣をまとっているような気になってしまうのだ。
 彼らと話しをしていると、必ずこんな言葉が聞こえてくる。
「ここではなんでもできますから」
 しかしその言葉の背後に、
「ここではなにもできないのではないか」
 という顔がのぞいている。
 トラブルの種はだいたい女である。なんでもできるということは、60歳を過ぎた老人でも、若い女性とつき合えることを意味する。チェンマイには、そんな装置がそこかしこに置かれている気になる。青春をとり戻したような感覚に舞いあがっていく。
 しかしチェンマイの女性が、日本人の老人に心を開いているわけではない。そんな態度が男には気にかかる。やがてその芽は膨らみ、疑心暗鬼に陥っていくのだ。
「女には男がいるのかもしれない」
 ひとり相撲である。
 その行き違いが元の痴話げんかがチェンマイでは絶えない。いい仲になった女のアパートを訪ねる。女が鍵を変えていたことがわかり、関係は一気に険悪になる。ただ単に鍵が壊れただけだというのに、老人は女の背後の男を疑い、怯えていくのだ。そして最後には警察沙汰である。
 チェンマイの女性もいけないのだろう。バンコクのようなドライさがない分、誤解を招きやすい。それでいて、歴史のある街の人間特有の屈折したものをもっている。
 誰がそういいはじめたのかわからない。チェンマイではなんでもできる……。それが不安の種になる。人が暮らす街で、なんでもできる街などないのだ。ボタンのかけ違いではじまったチェンマイ暮らしは、結局、自分の矮小さをつきつけられる結末に向かっていってしまう。
 その隘路に入り込んでしまった老人の背中は寂しい。


Posted by 下川裕治 at 13:51│Comments(1)
この記事へのコメント
はじめまして。
みなみやまといいます。
昨年夏、バンコクから陸路で
カンボジア、ベトナム、ラオス、そしてバンコクと周遊をしました。
タイは、まだ旅行回数は少ないのですが、チェンマイにも2度足を運びました。ただ、滞在時間は少なく、日本人にはほとんど会っていませんでした。いや、会わないようにしていただけかもしれません。印象としては、西洋人旅行者が多い町という印象でしたが、日本人村?があるというのも聞きました。そのチェンマイにも、明と暗があるようですね。
そんなレポはやはりあるのでしょうか?
そんな疑問を持ちました。
思いつくままに。
Posted by みなみやま at 2010年01月30日 09:04
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