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ナムジャイブログ

2019年04月01日

人はそれほど立派ではない

 ミャンマーに行ってきた。バンコクから往復したのだが、行きも帰りも、白い服装でそろえたタイ人の団体客が機内を埋めていた。そういう時期なのだろうか。仏教の巡礼ツアーのようだった。
『ディープすぎる中央アジアシルクロードの旅』(中経の文庫)が発売になっている。中国の僧、玄奘三蔵が歩いたルートを辿った旅行記だ。玄奘三蔵の旅は脚色され、西遊記という物語になっている。中国の長安からシルクロードを通って、インドに経典を求めた旅だ。
 シルクロードを歩きながら、彼が求めた仏教の本を読み続けていた。唯識と呼ばれる仏教理念である。
 仏教は上座部仏教から分派する形で大乗仏教が生まれた。当時のインドは、大乗仏教のなかの唯識が全盛だった。
 この唯識が、遣唐使によって日本にも伝わった。以来、日本は大乗仏教の国になった。しかし唯識の本は、いくら読んでもなかなかわからない。どちらかというと、哲学の要素が多いからだ。
 日本に渡った唯識だが、その後、衰退していく。やはり難しいのだ。そこで最澄や空海といった僧が現れ、念仏を唱えればいいという簡単なものに姿を変えていく。
 玄奘三蔵がシルクロードの苦しい旅までしてもち帰ったものは、中国や日本でもあまり日の目を見なかったわけだ。
 タイやミャンマーなどで信仰されているのは、俗に、小乗仏教と呼ばれる上座部仏教。原始的な教理だ。大乗仏教に比べると宗教色が強い。大乗仏教が哲学に走ったのに対し、元々の教理を忠実に守っている。
 どちらがいいという問題ではない。例えば飲酒。平常心を乱すものとして、どちらも否定的だ。その否定の方法が違う。上座部仏教では戒律としてとらえる。対して大乗仏教は意識として対応しようとする。人間というものは、それほど立派ではない。意識として飲酒を否定する論理は、やがて薄れていく。戒律としてルール化したほうが理解しやすい。つまり実行されるのだ。
 全員が白い衣装で飛行機に乗るタイ人を見ているとそう思う。上座部仏教のほうが精神的に楽なのだ。自分の意識に走る大乗仏教は苦しさが残る。だから日本では、白装束の巡礼はすっかり廃れてしまった。
 玄奘三蔵が歩いたルートを辿る旅はなかなか大変だった。とくに中国の新疆ウイグル自治区では、ウイグル人への弾圧のなかで旅を続けなくてはならなかった。社会主義という宗教への評価が低い理論が幅を利かす中国では、イスラム教徒との軋轢が生まれる。その旅は精神的にもつらかった。そして中央アジア、パキスタン、インド……。玄奘三蔵が歩いたルートは、どこも宗教に揺れていた。

■このブログ以外の連載を紹介します。
○クリックディープ旅=再び「12万円で世界を歩く」のシリーズが連載中。
○どこへと訊かれて=人々が通りすぎる世界の空港や駅物。
○東南アジア全鉄道走破の旅=苦戦を強いられている東南アジア「完乗」の旅。いまは番外編を連載中。
○タビノート=LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記


Posted by 下川裕治 at 12:05│Comments(1)
この記事へのコメント
巡礼をする事で救われた気持ちになれる。
徳を積む事で罪が帳消しになる。
そういう下心が認められる教えはたしかに精神的に楽だと思う。
僕も神社に行くと下心で溢れている。
願望を叶えたいと言う煩悩で正月はヤキモキしてしまうのです。
下心が認められないと喉に小骨が刺さった心持ちになる。
そんな小骨を抜けるタイ人を羨ましく思うのです。
Posted by たぬきまるだいすけ at 2019年04月01日 12:35
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